第十五話 傍にいるから

 目の前で友人が殴られている。

 その姿は、とても嘘をついている人間のものとは思えなかった。


 「未、玖」


 唇の隙間から零れた弱々しい声は、打音に紛れて掻き消えてしまった。

 両目を大きく見開いたまま、満咲はただ呆然とその場に立ち尽くしていた。


 目の前で起こる出来事が理解できなかった。

 ボロボロになっていく友人の姿から、目を離すことができなかった。


 薄闇の公園に鈍い音が響き渡る。

 バケモノが、愉しそうに笑いながら友人を殴りつけていく。


 (今のうちに早く、逃げないといけないのに)


 生存本能が全身に逃走命令を下す。

 後退を試みた彼女の足は強張り、一寸たりとも動かすことが出来なかった。


 「満、咲……げて」


 自分の身代わりになった友人は微笑んだ。

 僅かに安堵の混じった表情。殴られた頬が、今更になってズキリと痛んだ。冷え切った身体の底から、熱いものが込み上げてくる。


 人間は嘘つきばかりだと、思っていた。


 カゾクも、トモダチも。

 誰もが、都合が良いときだけ愛想笑いを浮かべて生きている。


 嘘だらけの世界で、本当の繋がりなんてどこにもないと思っていた。


 嘘つき。嘘つき。嘘つき。

 いつからだっただろうか。こんなにも、息が苦しくなったのは。


 《あんた達はいつも自分のことばかりだ!》

 《どうして……どうして、もっと傍に居てあげなかったんだ》


 そして彼女は、思い出した。

 自分の世界が灰色に染まった、あの瞬間を。



 両親が弟を見殺しにした、あの日のことを。


――――――――――――――

第十五話 傍にいるから

――――――――――――――


 彼女が両親の温もりを感じたことは一度もなかった。

 彼らの話題に上がるのは、どちらが子供達の面倒を見るかという話ばかり。


 両親は仲が悪く、喧嘩が絶えなかった。


 学校でいい成績をとった時も、「頑張ったね」の言葉は一度もなかった。

 誕生日など、祝ってもらったことがなかった。


 両親は仕事で忙しいのだ。

 単純なこと。


 寂しいなんて感じてはいけない。

 忙しいのだから、自分が構ってもらえなくても仕方がない――彼女はいつも、自分にそう言い聞かせていた。



 幼い頃、彼女はハムスターを飼っていた。

 掌に収まった小さな動物の体温は、彼女に温もりを与えてくれた。


 「ずっといっしょにいよう」


 幼い彼女は、小さな動物を掌に包み込みながらそんな淡い期待を抱いていた。


 しかしそんな日々は長く続かなかった。

 その日。小学校から帰って来た彼女を待ち受けていたのは、残酷な現実だった。


 飼っていたハムスターが死んだ。

 幼い彼女は絶望した。


 横たわる小さな体を、掌でそっと包み込む。

 そこに今までの温もりはなく、ずっしりとした重たい塊は氷枕のようにすでに冷たくなっていた。


 「そんなもの、いつまでも抱いてないで早く捨てなさい」


 部屋の隅で泣いていた彼女に、両親はそう言った。



 生き物はか弱い。

 放っておくと、すぐに死んでしまう。



 弟は生まれつき病弱だった。

 仕事で忙しい両親に代わって、満咲が足しげく見舞いに通っていた。


 「今日も姉ちゃんかよ~」

 「私じゃ不満?」

 「いやあ、そういう訳じゃないけどさ! なあそれより、今日のお見舞いは?」

 「はいはい。買ってきたよ、ほら」


 弟はいつも笑っていた。

 病室で一番大きな声を上げては、隣のおばさんに「元気でいいわね」と苦笑されるほどに――



 「姉ちゃん、俺、宇宙飛行士になる!」


 これが、弟の口癖だった。


 「見てろよ、姉ちゃん。今に一番大きな星を捕まえてみせるからな!」

 「はいはい、大口を叩くのは今日のお薬をちゃんと飲んでからにしなさいね」

 「はん、嫌だね! 薬も注射も苦しいだけだもん」


 呆れて肩を落とす姉の前で、弟はいつも得意げにこう言うのだ。


 「そんなものに頼らなくたって、俺は強くて立派な宇宙飛行士になってみせるからな!」



 初めは明るく振る舞っていた弟も、次第に元気を失っていく。

 どれだけ治療を試みても、弟の症状は悪化していくばかりだった。


 「仕方ないよな。父さんも、母さんも、忙しいからな」

 「だ、大丈夫だよ。今はちょっと忙しいけど、もうすぐしたら来られるって」

 「いいんだよ、別に。俺には、姉ちゃんがいるからさ」


 薄手の青い袖から、すっかり細くなった生白い腕が覗いた。

 強がって笑う弟の目は赤く腫れていた。


 彼の笑顔は、今にも崩れてしまいそうなほど脆いものだった。


 ひとりの夜は、きっと寂しいのだろう。

 自分が帰った後に一体どれだけ泣いているのかと思うと、彼女は胸が締めつけられるような思いがした。



 身体と共に、やがて心も弱っていく。

 そうして何度か冬を越したある日のこと――弟からは笑顔が完全に消えてしまった。


 「父さんも母さんも、本当はもう、俺のことなんてどうでもいいんだろうな」


 病室で一番大きな声を上げていた弟の声はすっかり小さくなってしまった。

 虚ろな彼の表情を目にした彼女は、慌てて笑顔を浮かべてみせた。


 「大丈夫、もうすぐだよ。あのね、陽。父さんも母さんも、もうすぐ来てくれるんだって」

 「…………」

 「だから、もうすぐ……」

 「姉ちゃん。本当は俺、怖いんだ」


 それは、今にも消えてしまいそうな声だった。


 「一番大きな星捕まえてみせるって言ってたのにさ。情けない話だよな」

 「陽……」

 「きっと、もうすぐ死んじゃうんだろうなぁ」


 カーテンが揺れ、冷たい風が流れ込む。「姉ちゃん、俺……」窓を閉め、彼女は弟の言葉の続きを待った。「俺、さ……」病に侵された青白い小さな手で布団の袖を握り締めながら、彼は必死に言葉を探していた。


 「本当は、宇宙飛行士になれなくたっていいんだ。だから、もっと。この先もずっと、俺……」


 骨ばった細い腕が小刻みに震えている。色の薄い皮膚が張り付き、浮き出た血管が痛々しく映った。触れれば今にも破れてしまいそうだと思った。夢を掲げて息巻いていた頃の面影は、今や何処にも見当たらない。強がって笑おうとする口角は上手く上がらず、弟は色素のない唇を強く噛み締めた。


 「生きたい。まだ死にたくないよ、姉ちゃん」


 満咲は弟をそっと抱きしめた。

 腕の中で、病弱な細い身体が小刻みに震えていた。


 「大丈夫。ずっとずっと、姉ちゃんが傍にいるからね」



 けれど高校に入ってすぐ、病弱な弟は死んでしまった。



 生き物はか弱い。

 放っておくと、すぐに死んでしまう。


 病室の中で、冷たくなった弟の手を握りしめる。

 不意に、弟の言葉が頭を過ぎった。


 《姉ちゃん、俺、宇宙飛行士になる!》

 《生きたい。まだ死にたくないよ、姉ちゃん》


 冷たく、重たくなった小さな細い腕。

 あの時と同じように、掌の中で温もりが失われていく。


 その瞬間、幾つもの熱い雫が、彼女の瞳からこぼれ落ちた。



 葬儀会場で、両親は泣いていた。


 「ええ。まだ小さかったのに……」

 「良い子だったんですけどね……」


 嘘つきだ、と思った。


 親戚の前で弟の死を悲しむ両親に向かって、彼女は激昂した。


 「あんた達は、いつも自分のことばかりだ!」

 「それなら、どうして。どうして、もっと傍に居てあげなかったんだ」


 《また姉ちゃんかよ~》


 「陽は、ずっと待ってた」


 《大丈夫、もうすぐだよ。父さんも母さんも、もうすぐ来てくれるって》

 《姉ちゃん……俺、本当は……怖いんだ》


 「あんた達が来るのを、ずっと……!」


 ひとりの夜は、きっと寂しかったのだろう。

 結局弟は、両親に見守られることなく死んでしまった。


 嘘つき共に見殺しにされ――


 《大丈夫、もうすぐだよ》

 《あのね、陽。父さんも母さんも、もうすぐ来てくれるんだって》


 そこまで考えたところで、彼女は気がついたのだった。

 自分も結局、都合の良い嘘をついていたに過ぎないのだ、と。



 彼女の世界は灰色だった。


 「おはよう、満咲。今日はあなたの誕生日ね。お母さん、あなたのためにケーキを買ってきたのよ」

 「父さん、今日はお前のために仕事早く切り上げて来るからな」


 葬儀での一件があった後、両親はしきりに彼女を構うようになった。

 今まで本当に必要な時は傍に居なかったくせに――彼女の心の中で苛立ちと虚しさが募っていく。


 祝ってもらったことすらなかった誕生日を今更祝ってもらったところで、大して嬉しくもなかった。

 掌を返したように構ってくる両親に、彼女は激しい嫌悪感を覚えた。



 家になんて帰りたくなかった。

 帰ったところで、また味のしないケーキが待っているだけなのだから。


 いっそこのまま、何処かへ消えてしまえたら――。


 夜空を見上げながら、彼女はそんなことを思った。

 それは空が、宇宙の彼方に吸い込まれてしまいそうなほどに深い藍色をしていたから。


 《姉ちゃん、俺、宇宙飛行士になる!》


 「会いたい、か」


 彼女は自嘲気味に笑い、唇を震わせた。

 このまま宇宙に消えてしまえたら、どれだけ楽だろうか。


 煩わしい嘘つき共と離れられるだろうか。

 死んでしまった弟ともう一度会えるだろうか。


 ――ふと、そんな思いが頭を過ぎった。



 人間は嘘つきばかりだと思っていた。


 《そんなもの、いつまでも抱いてないで早く捨てなさい》


 本当の繋がりなどないと思っていた。


 《あんた達は、いつも自分のことばかりだ!》

 《それなら、どうして。どうして、もっと傍に居てあげなかったんだ》


 あの日から、彼女の景色はずっと灰色だった。

 愛想笑いを浮かべながら、薄っぺらい繋がりの中で、誰もが嘘をついて生きている。


 ずっと、そう思っていた。

 けれど――


 「満、咲……げて」


 目の前の友人は、何度も殴られながら、それでも満咲のことを想っていた。

 その事実を目の当たりにした彼女は驚きを隠し得なかった。


 《どいつもこいつも、こういう時だけ無駄に構ってくる》

 《少し、一人にしておいて欲しいの》


 あんなに酷いことを言って突き放してしまったのに。

 それでも、友人は彼女を見放さなかった。


 こんな危険なところにやって来て、

 常人なら逃げだしてしまうようなこんな状況で、


 (どうして。そんなに傷だらけになってまで)


 理解が出来なかった。

 頭がおかしいとしか思えなかった。


 けれど、それ以上に、


 事実彼女は、友人に救われた。

 初めて、心から信じたいと思える人間に出会った。



 だから、彼女は――

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