第十四話 贖罪
視界に映る、藍。
吸い込まれそうなほど深い夜空に、月が浮かんでいた。
視界に映る、黄。
公衆トイレの蛍光灯が、点いては消えてを繰り返していた。
視界に映る、黒。
頭上に、男の歪んだ笑みがあった。
銀縁眼鏡の、一見すると真面目で上品なサラリーマン。
一度私の意識を奪った男は、あれから何度も、私の顔面を殴りつけた。私が意識を取り戻したあとも、何度も、何度も。
逃げ出そうにも、馬乗りになられた状態では身動き一つすら取ることができなかった。
痛み。
痛み。
時折じんわりと和らいでは、また鋭い痛みが襲いかかる。
地面に横たわる私に拳を振り下ろす度に、男は言い聞かせるようにして言葉を吐いた。
「君のような学生に」
――振り下ろされる。
「私の何が分かるのですか」
――容赦なく。
「私はね」
――何度も。
「鬱憤を」
――何度も。
「こうやって晴らさないと気が済まないんですね」
――硬い拳が、振り下ろされる。
今にも頭蓋骨がひび割れてしまいそうだった。
痛みを通り越すと、何もかもが遠くに感じた。
何故だろうか。ふわりとした不思議な感覚が身体を包み込んでいく。
どこか遠くの方で、死神の叫ぶ声が聞こえた気がした。
その隣から、幽霊少年の泣き声が聞こえるような気もした。
視界の端に満咲の姿が映った。
立ち上がった彼女は、今にも崩れてしまいそうな表情で私を見ていた。
視界に映る、赤。
赤く染まった世界の中で、彼女は確かに生きていた。
――そのことがただ、どうしようもなく嬉しくて。
ふわりとした、不思議な感覚が身体を支配した。
何処からともなく笑いが込み上げてきて、
不意に、
目の端から、熱い涙が零れ落ちた。
《ヒトゴロシ》
《お前なんて――人間じゃ、ない》
罪を背負った私だけれど、
そんな私でも、大切な人を守ることが出来た。
こんな私にも存在する価値があったのかもしれない。
その事実に、私は心のどこかで――安堵していた。
――――――――――
第十四話 贖罪
――――――――――
頭上の怪物は、容赦なく私に拳を振り下ろした。既に感覚は朦朧とし、口の中に広がった血の味も最早分からなくなってきていた。
男は私にひとしきり暴力を振るった後、つまらないといった風に言葉を吐いた。
「それにしても君は、生意気な目をしていますね」
男は私を見下ろし、低い声で唸った。
爬虫類に睨まれたような感覚がして、一瞬、全身の筋肉が硬直する。
「一緒だ。息子を庇ったあの日の妻と、同じ目をしている」
「…………」
「気に入らない目です」
男は吐き捨てるように零してから、ギリ、と歯を噛み締めた。「仕方ないですねぇ」徐に振り上げられた拳には血が滲んでいて、思わず息を呑み込んだ。
「
「…………」
「あまり反抗的だと……
そう言って男が顔を歪ませた瞬間――戦慄が走った。
サーッと血の気が引いていく音。
失っていたはずの感覚がありありと蘇り、割れるような激しい痛みが脳を支配した。
男のスーツからきついミントの香りが鼻をつき、喉の奥から吐き気が込み上げた。
心のどこかで、殺されることはないだろうと高を括っていた。満咲があのまま逃げ出して、あとは死神が助けてくれるだろう、なんて勝手に期待していた。
けれど、現実は違ったようだ。
「早くしろ、未玖。力を使って生き延びるんだよ!」
どこかで、死神の叫ぶ声が聞こえた。
そうだ。
誰かに頼ってばかりで、自分は泣き縋るだけ。そんな人間を都合良く誰かが助けてくれるなんて、そんなことあるはずがないのだ。
(ダメだ。そんな事、できないよ……)
けれど私は、初めて人を殺してしまったあの日、この力を二度と使わないと決めたのだ。
《お前なんて――人間じゃ、ない》
恋人を殺してしまったあの日、私はそう心に誓ったのだ。
「その力で、生き延びてくれよ……」
「折角、俺から奪った力なんだから」
死神の力を奪って、彼に迷惑を掛けて。
私のせいなのだ。
「なあ、頼むから……」
本来なら、私はあの場所で死ぬはずだった。
そして今、私はこうして死の危機に瀕している。
(そうか、だから私は……)
その瞬間、唐突に理解した。
これは贖罪なのだと。
満咲の代わりに犠牲になれば、私の犯した罪は赦されるだろうか、と。
「満……咲……げて……」
千切れた唇から、微かに声が零れ出した。
引き攣った笑みを浮かべながら、私は満咲に言葉を告げた。
しかし彼女は、逃げ出すこともなく、震えながら私を見つめていた。
立ち止まったまま、ただ、真っ直ぐに。
腫れ上がった唇を、強く、噛み締めながら。
♪♪
これは、お葬式。
生き物はか弱い。
放っておくとすぐに死んでしまう。
親戚の前で弟の死を悲しむ両親に向かって彼女は激昂する。
今更泣いたって弟はかえって来ないのだ、と。
上辺ばかりの両親が許せなかった。
両親だけじゃない。人間は嘘つきばかりだと思っていた。
本当の繋がりなどない。
皆、愛想笑いを浮かべて上手く取り繕って生きているものだと思っていた。
灰色。
あの日以来、彼女の景色はずっと灰色だった。
愛想笑いを浮かべながら、薄っぺらい繋がりの中で誰もが嘘をついて生きているものだと。
ずっと、そう思っていた。
そう思っていた――はずだったのに。
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