第十三話 狂気の夜
遡ること少し前。
満咲が「一人にして欲しい」と言うので別々に帰宅した私達ではあったが、実のところ、満咲の様子が気になった少年に頼まれ、私達はこっそりと彼女の後をつけていた。
《今日は少し、一人にしておいて欲しいの》
「どうして……」
私の脳裏に、いつもの満咲らしからぬ台詞が過ぎった。
否。今思い返してみれば、以前から彼女にそういう節が無かった訳ではない。
《友達だからってそんなに気を遣わなくていいよ》
《誕生日なんて、別にそんなに気を遣わなくていいのに》
以前から感じていた彼女との距離。
私は勝手に彼女は喜んでいるのだと思い込んでいた。ただ、照れ隠しが苦手なだけなのだ、と。
でも、本当は……
満咲が電車を降りるのに合わせて、私達もホームへ降りる。
改札を抜け、人混みの中を潜り抜ける。満咲の背中を追いかける。
その間、彼女の様子が頭から離れなかった。
《どいつもこいつも、こういう時だけ無駄に構ってくる》
《誕生日なんて嫌い》
ふと見上げた夕暮れの空が、血の色に染まって見えた。
「本当は私達のこと嫌いだったのかなあ」
昨日、皆で誕生日をお祝いしたことも。
本当はずっと、我慢していたのだろうか。
「何やってんだ、私」
己の愚かしさに腹が立つと同時に、呆れて笑いが込み上げてきた。
隣で死神が「やっぱり、君の考えは安直なんだよ」とため息を漏らしていた。
人混みを掻き分け、満咲の後を追いかける。
周囲が暗くなり、次第に空気が冷え込んでいく。
夜空にひっそりと月が浮かぶ頃、彼女の背中は人通りの少ない細い道へと吸い込まれていった。
街灯の少ない夜道は、物音一つしない静けさに包まれていた。
月明かりが細い路地を照らす、静かな夜。
私は息を殺し、電信柱の影からじっと彼女を眺めていた。
満咲は路上で足を止め、ゆっくりと天を仰いだ。
小柄な彼女の背中が震えている気がした。
(満咲……?)
そんな折。
一人の男が満咲を連れていった。
「姉ちゃん……?」
私の横で、幽霊少年がポツリと呟く。
少年は姉の様子を見て、怪訝そうに眉をひそめた。
彼女が連れられた先は、とある公園。
鬱蒼とした草木で囲まれ、消えかけた公衆トイレの蛍光灯だけが辺りを照らしていた。
(どうして、こんなところに)
恐る恐る、暗がりへと足を踏み入れる。
一瞬、暗闇の奥から甲高い悲鳴のようなものが聞こえた気がした。
次の瞬間、声は途絶えた。
嫌な予感がした。
嫌な予感がした。
時折鈍い打音が聞こえてくる。
これは一体、何の音だろうか。
《どいつもこいつも、こういう時だけ無駄に構ってくる》
《少し、一人にしておいて欲しいの》
胸がズキリ、と痛んだ。
全身から汗が滲み出して止まらなかった。
じりじりと、音のする方へ歩を進めていく。
そこで見た光景に、私は思わず目を疑った。
――――――――――――
第十三話 狂気の夜
――――――――――――
(…………っ!)
鈍い打音の正体。
男が、拳を振り上げ満咲の顔を殴りつけていた。
何度も。
何度も。
彼女の顔は腫れ上がり、所々千切れた皮膚から血が流れ出ていた。
(え……何、が……)
心臓の鼓動が加速していく。
男に気がつかれないように、私は必死で息を殺した。
男。
暗がりでよく見えないが、サラリーマンだろうか。
満咲の上に馬乗りになった状態で、彼女の顔めがけて繰り返し拳を振り下ろしている。
(い……嫌っ……)
助けなきゃ。
助けなきゃ。
私は友達なんだから。
私はともだち……なんだから……
(あ、はは……どうして……)
手足の感覚がなくなっていく。
冷や汗がタラリ、とこめかみの辺りを流れ落ちる。
ドクン、ドクン、と脈を打つ音だけが強く耳元で響いている。
手足が竦んで、動かせなかった。
唇を震わせ、私は乾いた表情を浮かべることしか出来なかった。
口角は痙攣し、叫び声の代わりに口を出ていくのは掠れた呼吸だけ。
自分のあまりの情けなさを自覚した瞬間、気がつけば私は、引き攣った自嘲めいたものを顔に貼り付けていた。
「姉ちゃん……!」
私の隣で、少年が真っ青な顔で両目を見開いていた。
病弱で細い腕が小刻みに震えていた。
――ふと、あの時の少年の言葉が過った。
《俺ね。本当は、最後に姉ちゃんにありがとうって言いたかったんだ》
ドクン、と心臓が胸を強く打つ。
恐怖で冷え切っていた手足に、少しずつ熱が巡っていく。
どこからともなく湧いてきた力が、私を突き動かす。
《だっておねえちゃん、満咲姉ちゃんの友達だろ?》
そうだ。
私がやらなくちゃ。
私が、助けなくちゃ。
学生鞄をギュッと抱きかかえる。
私は声を殺したまま、じりじりと男の背後に近づいた。
暗闇に紛れ、男の真後ろまで回り込む。
男は未だに私の存在に気づく様子はない。
その時、ふと、地面に横たわる満咲と視線が合った。
「ど……して……」
満咲の表情が僅かに変化する。
私は抱きかかえていた学生鞄を大きく振り上げた。続けて、男の後頭部目がけて
「おやおや。誰か来てしまったようですねぇ」
次の瞬間、満咲に馬乗りになっていた男がグルリ、と首をこちらに向けた。
眼鏡の下で大きく見開かれた目玉には、紛れもなく――
見 つ か っ た。
「まったく。危ないですね? こんなところに来てしまっては」
「…………っ!」
「それにしても今日の私はツイているようですねぇ」
男はニィ、と口角を吊り上げ言葉を続けた。
「か弱い女子が二人も。私のところにやってくるなんて」
全身の毛が逆立ち、ビリリ、と寒気が走った。
本能が逃げろ、と叫んでいた。
「……て、満……咲」
口から震えた声がこぼれた。
今から全力で走れば、私だけでも助かるかもしれない。
満咲を置いて私だけ逃げれば、助かるかもしれない。
本能はそう叫んでいたが、口から溢れたのは全く逆の言葉で、
「に……げて、満咲……!」
「何ですか、その目は」
男は満咲のことなどさておき、忌々しげに私を睨みつけた。
「……気に入りませんね」
ゆらりと、立ち上がった男が少しずつこちらに近づいてくる。
私はじりじりと後退するが、やがて背中が冷たい壁に触れた。
恐る恐る背後へ目線を動かすと、すぐ横に「公衆トイレ」と書かれた立て札が見えた。
古くなった立て札は、今にも文字が消えかけていた。
まるで、残りの自分の寿命を表しているように。
氷のように冷たい風が吹きつけた。
恐怖が全身を支配する。
男に睨みつけられるだけで、鋭い包丁を突き立てられているような心地がした。
「み……満さ――」
逃げて――
辛うじて声を絞り出そうとしたところで、
次の瞬間、私の意識は強い衝撃とともに途絶えた。
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