第十一話 傍にいるのに
ミタの視線の先――テレビの前には、小学校高学年くらいの男の子の姿があった。
少年は「どうだ、驚いたか」とでも言わんばかりのしたり顔を浮かべながら、腕を腰にあて、背筋をピンと伸ばしている。
「なななな、何だこいつ?!」
「し、知らないよ! 私も全然気がつかなかったんだから」
私達が驚きのあまり腰を抜かしていると、少年はニコリと笑って一言。
「優しそうなおねえちゃんがいたから、付いてきちゃった。てへぺろ」
そう言うと、男の子は「おねえちゃん」と言って私にギュッと抱きついてきた。
その余りの尊さに思わず、私は一瞬、気を失いかけた。
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第十一話 傍にいるのに
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華奢な白い手足。細くて柔らかい黒髪。
少年は私の足にしがみついたまま離れようとしない。
「な……!!」
驚きのあまり口をパクパクとさせていた死神は、頬を引き攣らせながら少年を睨みつけた。
「お前なァ、『付いてきた』んじゃなくて『憑いてきた』んだろ。何が目的だ、さもないと」
「おねえちゃん、このおにいちゃん怖いよ、すごくにらんでくるよ」
「ミタ、この子まだ小さいんだし、もう少し優しく話しかけてあげないと……」
「はァ!?」
純粋無垢、とはこの子のことを言うのだろう。
あどけない微笑みが眩しい少年は、私の制服の裾をギュッと掴んで離そうとしなかった。
次の瞬間、私を見上げる少年のつぶらな瞳が、ふと、誰かと重なって見えた。
(あれ。誰かと似てるような)
私は少年の姿を観察した。
青地の薄い服はまるでどこかの病院服のようだ。袖から伸びた細い腕は、食べ盛りの少年のものにしては余りにも細く感じた。
何よりも、気になった点が一つ。
この子の両足。薄ら透けた二本の足は、彼が普通の人間でないことを物語っている。
(この子、やっぱり幽霊だよね……?)
すると、不意に死神が思い出したような様子で「あ」と声を漏らした。
「そういえばこいつ、どっかで覚えがあると思ったら、さっき店の中にいた未転送の魂だよ」
「未転送の魂?」
「ちっ、バレちまったら仕方ねぇ。そうだ、この俺は幽霊だ。どうだ、恐れ入ったか!」
「…………」
「…………」
「未玖、こいつをさっさと天界送りにしろ」
「えっ」
「おねえちゃん、このおにいちゃん怖いよ。すごくにらんでくるよ」
「ミタ、この子もまだ小さいんだし、もう少し優しく話しかけてあげないと……」
「はあァ!?」
自分を幽霊と名乗った少年は、私にしがみつきながら不意にミタの方を向いたと思えば、舌を出してあかんべーをする始末。死神が大人げなく舌打ちをするのを、私は苦笑しながら「まあまあ」と宥めた。
「でも君、どうして私についてきたのかな?」
私が少年に尋ねると、少年は「さっき言った通り、お姉ちゃんが優しそうだったからだよ」と答えた。伏せた目が小刻みに揺らぐ。
「でも、優しそうなおねえちゃんなら私以外にもいっぱいいたんじゃない?」
「だっておねえちゃん、幽霊見えるでしょ」
少年は「
「気をつけろ未玖。こいつさっきと一人称が違うぞ。絶対何か企んでやがる」
「ちっ、バレちまったら仕方ねぇ。そうだ、俺が着いてきた真の理由、それは」
「それは?」
「おねえちゃんのパンツが一番かわいかったからだよ! どうだ、何か文句あるか?」
「ぱ、パンツ?」
「ほら見ろ、不純な動機だ。こんな奴早く天界送りにしないと下界のためにならん。未玖、早くこいつを転送しろ」
「あっ、えっと……」
ミタが「まったくけしからんガキだな」と息巻く一方、少年が涙を湛えた表情でこちらを見つめてくるので、私は誤魔化すように苦笑せざるを得なかった。
「そういえば、どうして私が幽霊見えるって思ったの?」
とりあえず話を逸らさなければ、と少年に質問すると、少年は死神の方に無垢な瞳を向けた。
「こいつ、幽霊でしょ? だから俺のことも見えるかなって思って」
「幽霊?」
「うん。こいつ他の人に見えてなかった」
「いいかクソガキ。まず一つ、俺は幽霊じゃねぇ。そして二つ目、俺は『こいつ』じゃねぇ。死神ミタ様だ。覚えておけ」
「ふーん、お前死神なんだー。つえー」
「台詞が棒読みだし『お前』じゃねぇよ?」
ミタは笑顔で拳を震わせていたが、少年があからさまにべー、と舌を出して威嚇するので、呆れたように肩を落とした。
それから、彼はチラリと私に視線を向けてから、少年を部屋に残したまま、私を一旦部屋から連れ出した。
廊下に出て、部屋のドアを閉める死神。
「……どうしたの?」
彼の顔には暗い影が落ちていた。
「未玖。さっきも言ったけど、あいつを転送してやってくれないか」
「ど、どうしたの急に」
「一応仕事なんだよ。
《死んだ魂を天界に送ってるってこと》
《下界で死んだ人間の魂は普通、成仏して自動的に死後の世界へ転送されるんだけど、まれに成仏できずにそのままこっちの世界に残ってしまう魂も存在する。俺達は、そういう魂を見つけ次第転送することになってるんだよ》
一週間前、初めてミタに出会ったときに言われた言葉が蘇った。
そっか。今、ミタの力は私が奪ってしまっているから――。
「あいつ、多分成仏できないまま何年か下界を彷徨ってるんだ。そしてこれからもあいつは成仏できない」
「そんな」
「だから、君の手で転送してやってくれ。あの歳で過去や未練に縛られたままなのは可哀そうだろ」
死神の目に映っているものが何かは分からなかったが、過去や未練に縛られたまま――その言葉を聞いた瞬間、胸がズキリと痛んだ。
《成仏できないまま何年か下界を彷徨ってるんだ》
《そしてこれからもあいつは成仏できない》
このままここに留まっても、少年の未練が晴れることはない。けれど、私があの子の魂を転送して天界に連れていってあげれば、きっとあの子も救われる。
それなら、私は――
「わかった。あの子を転送する」
もう使わないと決めた力だけれど。
この力で少年を救うことができるなら、私は――。
部屋に戻るなり、幽霊少年はすかさず私にくっついてきた。
一方、ミタに対しては終始あかんべーをしていたため、穏やかだった彼の表情も少しずつ曇っていく。
「ふん。何の話か知らないけど、俺のいないところで二人だけでコソコソ、お前は本当にカンジ悪いな」
「何だと。未玖、やっぱりこいつは即刻転送だ。どうやらこいつに温情をかける必要はなさそうだ」
「エラそうにしやがって。おねえちゃんは俺と一緒がいいんだよ。お前の好きにさせるか、バーカ」
「ばっ、馬鹿だと?!」
「えっと……」
相変わらず二人がケンカを始めるので、私は再び、苦笑せざるを得なかった。
この子を転送する。
私はそのことを、どうやってこの少年に切り出せばいいんだろう。
スカートにしがみつく少年の華奢な腕を眺める。上手い言葉が見つけられなかった。
死神と口論していた元気な少年も、私の視線に気がついて何かを察したのか、黙り込んでしまった。
沈黙。
カチ、コチと壁時計の音が響く。窓に視線をやると、カーテンの向こうで夜空に星が瞬いていた。
静かな部屋を三人分の呼吸の音が埋めていく。
あのね、と少年は静かに口を開いた。
「俺ね。本当は最後に
制服の裾を掴む細い腕が、小刻みに震えていた。
少年は堰を切ったように言葉を並べていく。
「でも叶わなかった」「俺、死ぬのが怖くて、姉ちゃんの前で泣いてばかりで」
「姉ちゃんはずっと、俺の傍にいてくれたっていうのに」
言おうと思った頃にはもう伝えられなくなっちゃったんだよね――少年は自嘲気味にハハ、と笑ってみせた。
それから彼は、ここに至るまでの経緯を話してくれた。
病気がちでずっと入院していたが、数年前に死んでしまったこと。
闘病中、姉がずっと傍で寄り添ってくれていたこと。
生きている間に姉に感謝を伝えることが叶わなかったこと。
「死んだ後は、伝えたくても伝えられなかったんだ」
「…………」
「姉ちゃんは俺のことなんて見えないからさ。俺はずっと、もう何年も、姉ちゃんの傍にいるのに」
《僕、誰にも気づいてもらえなくて》
《寂しかったから》
少年の声に涙が混ざっていた。震える声は次第に
「おねえちゃんなら、何とかしてくれると思ったんだ」
「…………」
「だっておねえちゃん、
少年のつぶらな瞳がこちらを見上げていた。
初めて彼を目にした瞬間に覚えた既視感。
不安気に私を見つめる小さな瞳は、私のよく知っている心配性の彼女にそっくりだった。
制服の裾を握る少年の手に、力が込められた。
今にもポキリと折れてしまいそうな病弱な腕が、力なく震えていた。
「……ねえ。ミタ」
「何?」
「転送、もう少し後にしちゃダメかな」
「え? 何で?」
ミタが驚いて私を見る。
私は掌をギュッと握り締めた。
「私、満咲の弟を成仏させたい」
その瞬間、少年の顔に明かりが灯った。
一方、死神は慌てた様子で私を引き止める。
「君、成仏って簡単に言うけど、一体どうするつもりだよ? こいつの姉ちゃんには、こいつのことなんて一切見えてないんだろ」
「分かってるよ。でも、この子は私の大切な友達の家族だから」
天界に行けば、きっとこの子も救われると思っていた。
そのためなら、使わないと決めていたこの力を使ってもいいかもしれないと思っていた。
でも、本当はそうじゃないのかもしれない。
《俺ね。本当は最後に姉ちゃんにありがとうって言いたかったんだ》
この子の願いを叶えてあげたい。
満咲とこの子が、少しでも笑ってこの先の未来を歩けるように。
「二人のために、私に出来ることは精一杯したいんだ」
我ながら口走った台詞が恥ずかしくて、私は頭を掻きながら「方法はこれから考えるんだけどね」と付け加えて苦笑した。
死神は呆れたように肩を落としてから、面倒臭そうな声色で「未玖の好きにしたらいいよ」と零した。
次第に夜が深まっていく。星々の明かりは分厚い雲に遮られ途絶えていく。
その時の私は、少年の願いを叶えるための行動が満咲を傷つけるということも、ましてや彼女が今何を思って生きているのかも、考えることすらしていなかった。
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