第二章 守る決意

第八話 血染めの画廊

 遠くの方で、蝉の鳴き声が響いている。

 窓際の席にふわりと夏の風が入り込む。


 少しずつ意識がまどろんでいくにつれ、周囲の音が遠ざかっていく。

 やがて夢とうつつの境界が曖昧になっていき、私の意識は薄暗い景色の中へと吸い込まれていった。


 また、いつもの夢。

 虚ろになった意識の先は、闇の中にあった。


 そこは、静かな海の底を思わせる暗闇。


 近くで突然ポゥ、と蝋燭ろうそくが灯り、周囲をあかあかと照らす。狭い廊下に、赤い絨毯が真っ直ぐに伸びていた。


 ふと、誰かのすすり泣く声が聞こえた。


 (誰か泣いてるの……?)


 冷気が皮膚の表面を撫でていく。

 私は恐る恐る声のする方へと歩を進めた。


 前に進む度に、壁に掛けられた蝋燭の炎が一つ、また一つと灯っていく。弱々しい燈火が、風もないのに不気味に揺れる。


 廊下を進んだ先には、古びた扉があった。

 元々は白かったのであろう木の扉は、長年の時を経て随分と濁った色をしていた。


 すすり泣く声は紛れもなく、この扉の向こうから漏れ出してくるものだった。


 入ってはいけないような気がした。


 ゴクリ、と唾が喉を通る音がした。

 それでも、緑青ろくしょうに覆われた金属製のノブに手を伸ばしてしまったのは、単なる好奇心からだった。


 古びた扉がギィ、と音を立てて軋む。

 私は恐る恐る、扉の中を覗き込んだ。


―――――――――――――

第八話 血染めの画廊

―――――――――――――


 扉の向こうにあったのは、小さな部屋だった。

 四方が黒い壁に覆われ、部屋を照らすのは蝋燭の幽かな燈火一つ。


 そこで目にした光景に、私は思わず息を呑んだ。


 「…………!」


 部屋の真ん中に、声の主は佇んでいた。

 黒いコートを羽織った彼女。

 その心臓が、一本の剣で貫かれていた。


 彼女は俯いたまま、静かに震えていた。

 内側から溢れ出す血液が、じわりじわりと絨毯を深紅の色に染めていく。


 「ど……うして……」


 何故、彼女は剣で貫かれているのか。

 何故、彼女は死神の服装をしているのか。


 何故、私の中に彼女がいるのか。

 彼女は一体、誰なのか――。


 「あなたは、誰……?」


 その瞬間、壁に掛けられた蝋燭が大きく揺らいだ。

 炎は消え、暗がりが部屋の中を覆う。


 ――クスクス。


 私は部屋の中へ足を踏み入れた。

 心臓の鼓動が耳元で強く鳴った。


 ――クスクス。


 俯く彼女へと手を伸ばす。同時に、背後から声がした。


 「そう。ようやくに気がついたのね」


 それは、聞き覚えのあるだった。

 彼女の声が耳を撫でた瞬間、一瞬、心臓が止まったような錯覚に陥った。


 「私と話せるようになったのも、のお陰かしら」


 そう言って、彼女は少しずつこちらへと歩を進めた。

 一歩、一歩、背後から足音が近づいてくる。

 全身が硬直し、喉が縄で締め付けられたかのように息が苦しくなった。


 、ということは、目の前ですすり泣く彼女も、背後にいる声の主と同一人物なのだろうか?


 剣で貫かれたままの少女。

 全身を覆う黒のマントは、内側から溢れ出した赤に塗れている。革のコートが蝋燭の明かりに照らされては、黒々と鈍い光を放っていた。


 《彼女は自らの力に気が付いたとき、自らをこう名乗った》

 《『死神』――俺達は、死神なんだ》


 剣で貫かれた彼女の姿は、紛れもなく死神のものだった。


 狭まった気道から、私はようやく声を絞り出すことに成功する。


 「あなたは、死神、なの?」


 彼女は可笑しそうにクスリと笑った。

 それから、彼女はゆっくりと言葉を紡いでいく。


 「死神。死神、ね」

 「………………」

 「随分と懐かしい響きかしら」


 次の瞬間、首筋から全身にかけて寒気が走った。

 背後から冷たい手が私の首元に触れる。

 心臓の動悸がバクンバクンと耳を打つ中、私は恐る恐る、首元へと眼球を動かしていった。


 死人しびとのように青白い、彼女の手。

 その爪は、深い深い緋色に染まっていた。


 「いい? あなたはから逃れられない」


 その瞬間、剣で貫かれた彼女のすすり泣く声が止んだ。

 驚き、前方へと視線を向けると――黒いフードの下で彼女がニィ、と口の端を上げ嗤っていた。


 「あなたは私から逃れられない」


 背後から栗色の髪がだらりと垂れ、私の肩に落ちた。

 私と同じ髪の色。

 耳元で囁かれたその言葉に首筋がゾクリとして、私は――



 「だってあなたは――“私”なのだから」



 聞き返そうと声を上げようとした瞬間、周囲の壁が崩れ落ちた。

 崩壊していく世界の中で、突如ひび割れた床の隙間から、私は真っ逆さまに暗闇の底へと落ちていった。


 沈んでいく。

 深く、深く、奥底へと。


 私が元居た小さな部屋は、今や遥か頭上にあった。

 壁の崩れ落ちた部屋から彼女が私を見下ろしていた。


 ――クスクス。 クス……

 笑い声が、少しずつ遠のいていく。


 ――クス……

 やがて少しずつ、周囲の景色が白んでいき、



 いつもの夢は、先日までとは違ったリアルな感触を残したまま終わるのだ。



 覚醒した私の視界に、眩しく鮮やかな色彩が入り込んでくる。


 額にはじっとりと汗が滲んでいた。

 呼吸は荒く、全身を強く脈が打っているのが分かった。


 首元に手を当てる。

 未だに冷たい指先の感触が残っているような気がして、私は身震いをした。


 離れていた意識が少しずつ、現実世界へと帰還する。

 夢から醒めれば、そこに待つのはいつもの平和な日常だ。


 そして今回、そんな日常に私を最初に迎え入れてくれたのは、何やら数字の羅列が記された本だった。


 (…………?)


 現実と非現実の境目が曖昧になる。

 私は今、机に突っ伏して寝ているはず。

 私の視線の先に垂直に自立しているこの本は、一体何なのだろう。


 (…………?)


 回りきらない思考回路の中、私はもう一度状況整理を試みた。

 改めて認識したのは疑いようもない事実――すなわち、私の目の前に、訳の分からない数字の羅列が記された本が立っているという事実である。この時点で私は、目の前の本が何かの教科書であることを理解した。


 (ん…………?)


 教科書であることが理解できたまではいい。

 問題はその先にある。

 何故、教科書がのか――論点はそこにあるのだ。


 (あれ。今、何の時間……)


 そこまで思考を巡らせたところで、頭上からよく知った声が降り注いだ。


 「今起きた、って顔だな? 蒲田ぁ」

 「ふぁ…………?」


 何故、数学教師が私のすぐ近くにいるのだろう。

 そんなことよりも私は今、何故目の前で教科書が自立しているのか、その問題を解決するので精一杯なのだ。

 邪魔しないでいただきたい。


 それに、左横から誰かが何やらひたすら囁いてくる。その声の主が誰かを理解するまでに、然程の時間は要さなかった。


 黒コートを羽織った少年が、ニヤついた笑みを浮かべながら繰り返し何かを唱えている。

 さっきから何度も言っているように、私は今、何故目の前で教科書が自立しているのか、その問題を解決するので精一杯なのだ。邪魔しないでいただきたい。


 しかし、先程から死神の唱えてくる呪文が頭の中を容赦なく侵食していく。

 そのクレ……なんちゃらとかいう単語は、私の思考など無理やりに押し退けて次々と脳内を埋め尽くしていった。


 ゆっくりと頭を持ち上げる。

 すると、こちらを見下ろしていた数学教師と目が合った。


 ああ、そうか。

 なるほど。死神はこの男のことをということか。


 起き抜けの周りきらない思考回路の中、

 案の定、脳内を侵食していたそれが言葉となり口を突いて出てしまったのは、至極当然の流れというわけで――


 「クレイジーサイコ鼻……」


 そこまで言いかけたところで、真後ろの席に座る花がブッと吹き出した。ついでに左隣の死神も何やらお腹を抱えて笑っている様子。


 一方私はというと、無事、放課後の居残り補習が確定したのであった。

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