第七話 そして、彼らは歩き出す

 その日の帰り道。

 私は一人電車に揺られていた。


 あの後永美は、何も訊いてこなかった。


 《無理する必要なんて、どこにもないんだから》

 《泣きたくなったら泣けばいいじゃない。未玖》


 それだけ言って、彼女はそれ以上何も踏み込んで来なかった。



 今日もいつも通り永美が途中の駅で降り、次に満咲が電車を降りた。

 電車の中には私一人が残された。


 ――ガタン、ゴトン。


 窓の外から眩しい程の夕陽が差し込み、私は思わず手をかざし右目を細めた。

 指の隙間から僅かに黄金色が染み出した。


 不意に、涙が零れ落ちた。


 右瞼の涙を拭う。

 両目を掻こうと左手を伸ばすと、左手の指先に固い布の感触があった。



 初めて友人に弱さを見せてしまった。


 本当は、何もかもすべて打ち明けてしまいたかった。けれど、私にはそれが出来なかった。


 周りがどれだけ優しく接してくれたところで、変わらない。

 自分は紛れもなく、人を殺したのだ。


 かつての恋人を、この手で殺してしまったのだ。


 「きっと、もう戻れない」


 もう、あの日常に戻ることは出来ないのだろう。言葉を反芻する度、胸が苦しくなっていく。


 長椅子の端で一人、私は小刻みに震えていた。

 死神は電車のドアにもたれかかり外の景色を眺めていたが、時折チラリとこちらに目線をやっては、面倒臭そうにため息を零していた。


  ☆★☆


 自室の扉を開け、壁のスイッチを入れる。

 パチリ、という音と共に、薄暗かった部屋にも徐々に明かりが灯っていった。


 自分の部屋に戻った私は、ひとまず勉強机の前にある椅子へと足を運んだ。しかし、腰を掛けようと手を伸ばした途端、先程までずっと黙っていた死神が慌てたように「あー、ちょっと待った!」と声を上げ、私の手を遮る。


 「ど、どうしたの」

 「ダメダメ。この椅子は今日から俺の椅子なんだから!」


 そう言うと、彼はふんす、と椅子の上で踏ん反り返ってみせた。


 「あ、はは……じゃあ私はこっちに座るね」

 「……お、おぅ」


 私はぎこちない乾笑を浮かべてから、ベッドに腰掛けた。一方、死神は釈然としないといった様子で首を傾げる。


 「なあ。君は何でそうやってんだ?」

 「え? あ。いや……」


 私が誤魔化していることも、彼は全て見抜いているようだった。


 人形の大きな黒い瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめていた。私はベッドに腰掛けたまま言葉を続けた。


 「癖、なのかな」

 「……癖?」

 「本当は泣きたくても、本当は辛くても。私が笑っていれば、から」

 「…………」


 けれど、昨日も今日も、私は普段通り振る舞うことが出来なかった。


 力なく肩を落とす私に対し、死神は静かに「君は、嘘つきだな」と呟いた。


 「誤魔化す必要なんてない。君、本当はこっちに座りたいんだろ?」

 「そ、そんなことないよ」

 「そんなに遠慮するなよ。俺と君の仲じゃないか!」

 知り合って一日だよね……?

 「同棲する仲ってことだよ。それとも、そんなにこの俺と一緒なのが嫌なの?」

 「それは……」

 「あーもう。悪かったな、俺がイケメンじゃなくて! 悪かったな、こんなガキみたいな、女みたいな奴で!」

 そんなに拗ねられても……。

 「けど、これは何度でも言わせてもらうぞ。俺は


 腕を組みながら、得意げにフンと鼻を鳴らす死神。少し背筋を伸ばした彼の姿を見ていると、私は思わず苦笑せざるを得なかった。


 私を横目でチラリと見やった死神は、ふと、顔の表情を緩めて言うのだ。


 「ほら、やっぱり。君は笑っていた方が良い」

 「え……」

 「君はさ、もうちょっと楽に生きた方が良いんじゃないか? 追い詰めたって、物事は上手い方向に行くとは限らないんだ」


 死神はそう言うと、「じゃあ、早速息抜きがてらテレビでも見るぞ」と言ってテレビのリモコンに手を伸ばした。


 窓の近く、部屋の隅に配置された小型の黒い箱に向けて、彼は手慣れた手つきでリモコンを操作する。玩具を見つけてはしゃぐ子犬のような彼の姿を見て、少し心が落ち着いたような気がした――はずだった。


 次の瞬間、画面に映し出された内容を目にするまでは。


 画面に映し出されたのは、とあるテレビのニュースだった。

 内容は、昨日の事件。

 《原因不明の不審死! いったい彼の身に何が?!》と書かれたテロップが、私の自責の念を煽る。


 「こ、これって」

 「ああ、昨日のアレか。もうニュースになるんだなー、こっちの世界は情報が早いな」


 死神はのんびりとあくびをしながら、「それよりも見たい番組があるんだけどさー」とチャンネルを物色していた。

 一方私は、愕然としたまま声を出すことが出来なかった。


 忘れかけていた感情が鮮烈によみがえる。

 全身は硬直し、もはやテレビの画面から視線を移すことすらできなくなっていた。


 チャンネルが切り替わっても、先程のニュースの音声が頭の中から離れなかった。

 テロップが目に焼きついて、みるみるうちに脳味噌を侵食していく。


 忘れることなど、出来なかった。

 忘れることなど、許されないのだ。


 「じ、自首しに行かなきゃ」


 私がこの死神から奪った力のせいで、彼は死んでしまったから。

 きっと、私のせいだ。


 「じゃ、君が自首したとして、君は何て言うの? 誰が君の力を信じると思う?」

 「…………」

 「本当なら君はあの時、死んでいたんだ。その後彼も死ぬつもりだった。あのままだったら君と彼、確実に人間が二人死んでいた。それに比べたら、自分一人でも人間が救われたって考えることだってできるだろ?」

 「でも……!」

 「でもじゃないだろ、アホか君は。自分の命より大事なものなんて、どこにあるんだよ」

 「だって、私……っ」


 《こんな奴、死んじゃえばいいのに》


 そう言う彼女の声はとても残酷で、恐ろしかった。


 きっとあれは私なのだ。

 だから、私は願ってしまったのだろう。


 死神の力を奪い、人を殺すことを。


 涙ぐむ私を、ミタが睨みつける。

 私の口からは依然として弱々しい声が漏れ出していくのみだった。


 「こんな私に生きる資格なんて……」

 「そうか。やっぱり、ダメなんだな。君は」


 死神は静かにそう呟いた。

 彼の口調はどこまでも冷たかった。


 「じゃあ、じゃないか」

 「えっ……」

 「いない方がいいなら、俺が転送してあげるよ」


 死にたいんだろ。そう言って、彼はゆっくりと立ち上がった。

 思わず後退りしたものの、すぐさま彼に両肩を強く押さえ付けられた。


 「じゃ、さよなら」


 ベッドの上で彼は静かに呟いた。私を覗き込む漆黒の瞳には、何も映っていなかった。


 失望も、躊躇いも、哀れみも。


 そこで私は悟り、そして恐怖した。

 彼は「人間」ではなく「死神」であり、私は彼にとって虫けら程度の存在でしかないのだと――


 『あなたは死なせない』


 「い、嫌!!」


 気がつけば、私は死神を突き飛ばしていた。

 咄嗟の出来事に死神はバランスを崩し勉強机に強く頭を打った。彼は軽い呻き声を上げてから、呆れた様相で私を睨み付ける。


 「そんなに強く突き飛ばさなくてもいいだろ? ハハ。冗談だよ、冗談」

 「冗談……?」

 「ハァ。前に言ったじゃないか、って」


 (そういえば……)


 一命を取り留めたことが分かった途端、全身の力が抜けていく。腰掛けたベッドの縁が音を立てて軋む。身体の隅々に、じんわりと安堵という名の温もりが広がっていった。


 「なあ。それが、答えだろう?」

 「答え……」

 「本当の君は、死にたいなんて思っていないはずだ」


 先程打ち付けた頭をさすりながら、彼はゆっくりと立ち上がった。


 ふと、視界の左端に窓の景色が映った。夜空に月が昇っていく。隙間から夏の夜風が入り込み、カーテンの白いレースがふわりと舞った。


 「だからな」

 「…………」

 「いいか。生きていきたいなら、覚悟を決めろ」


 彼は静かに告げた。


 「誰かを傷つけずに生きていける奴なんて、どこにもいないんだ」

 「…………」

 「皆。罪を背負って、生きてるんだよ」


 死神の表情に影がかかる。天使のような柔らかい睫毛の下で、二つの黒真珠が僅かに揺らいでいた。

 それはまるで、自分に言い聞かせているような――そんな言い方だった。



 「俺は、君のことが嫌いだ」


 死神は唇を強く噛み締め、キッと私を睨みつけた。パチリと開かれた大きな瞳が小刻みに揺れていたのを見た瞬間、彼が動揺しているのだと咄嗟に理解した。

 少年は私が言葉を挟む隙もないまま、次々と言葉を並べていく。


 「君のことが嫌いだ」「君はそうやって、すぐに自分を責める」

 「君は不安定で、危なっかしい。放っておいたら、すぐにでも死んでしまいそうで」


 少年の声が、少し震えていた。


 「俺は、君のことが嫌いだ」「俺を面倒臭いことに巻き込んだ、君のことが大嫌いだ」


 「でも君が死んだら、その。困るんだよ」


 少年は私から目を逸らし、小さく零した。

 それから、今にも消え入りそうなか細い声で告げるのだ。



 「頼むから、俺の目の前で死なないでくれ」



 死神が何故動揺しているのか、私には解らなかった。

 彼が何故こんなことを言っているのか、私には解らなかった。


 それでも、

 私のことが嫌いだと言った彼の言葉が、


 ――とても、温かかったから。



 「生きてくれ。君が奪った、その力で」


 彼は私の頭にポンと手を乗せた。

 死神の冷たい手が何故だかとても温かく感じて、私は――


 「ありがとう……うぅ」



 救われた気がした。


 あの日、あの場所で死ぬはずだったのに、生き延びてしまった。

 私は彼の力を奪ってしまった。

 恐ろしい力を手に入れて、この力で人を殺してしまった。


 「ありがとう。こんな私の傍に居てくれて」


 誰にも言い出せなかった。

 自分なんていなくなった方が良いんじゃないかと思った。


 それでも、生きてくれと言ってくれる人がいた。

 真っ黒になったこんな私を受け容れて、それでもなお、生きて欲しいと願ってくれる人がいた。


 「ありがとう。こんな私を受け容れてくれて」


 ただそれだけが、どうしようもなく嬉しかった。

 嬉しかったんだ。



 「調子に乗るなよ? これはその、気まぐれだ」


 私の頭に手を乗せたまま、死神は照れくさそうに目を逸らして続けた。普段は血が通っていないと思わせる程の白い頬が、今は珍しく紅潮しているように見えた。


 「こんな面倒臭いこと、たまにしかやらないからな! おっ俺も本当なら、色々と忙しいんだからな!」


 、と繰り返す彼の皮肉も、今はとても心地良く感じられた。

 彼だけが唯一、本当の私を受け容れてくれたような気がした。


 ある日突然、人を殺すことが出来る死神の力を手にしてしまった。

 それでも、そんな私でも生きていて良いのだと――彼がそう言ってくれたから。


 私は少しだけ、自分の存在価値を認められた気がした。



 溜まっていた何もかもを吐き出すようにして、私は泣きじゃくった。

 情けないけれど。惨めだけれど。

 泣いてばかりのこれが、本当の私なのだ。


 部屋の隅でふわりとカーテンが舞う。火照った頬を夜風が包み込む。

 窓の外は晴れ渡り、群青色の空に一つ、真っ白な満月が浮かんでいた。



 私とミタは、こうして出会ったのである。



第七話 そして、彼らは歩き出す



  ☆★☆


 ――クス。クスクス。

 ――クスクス。


 「死神」

 「死神ね。久方ぶりかしら」

 「それにしても、とても懐かしくて――とても皮肉な力ね」


 ――クスクス。クス。

 ――クス。クスクス。



 そこは、黒い壁に覆われた小さな部屋の中。

 今にも消えてしまいそうな蝋燭の灯りだけが、ゆらゆらと部屋の中を照らしている。


 薄暗い部屋に、たった一人。

 血の色を思わせる深紅の絨毯の上に、彼女は佇んでいた。


 黒い壁には、絵画が飾られていた。


 金色の額縁で囲われた絵画が二枚。

 片方は酷く錆び付き、片方は未だに明るい輝きを放っていた。


 彼女は立ち上がり、新しい額縁で囲われた絵画の方へと歩み寄る。

 フードの下から、血のこびりついた栗色の髪がだらりと垂れた。


 額縁の向こうを表情で眺めながら、彼女はゆっくりと口角を吊り上げた。


 「あなたは死なせない。あなたは私から逃れられない」



 ――永遠にね。




 第一章 死神と少女は出会う 完

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