第六話 温もり

 通学途中。

 曇り空は晴れ、天を覆うのは澄みきった青い空と、ところどころに浮かぶ純白の夏雲。


 路線沿いを歩いていく。

 季節外れのコートに身を包んだ死神が、私のすぐ傍に憑いていた。


 涼しい風が肌を撫でる。道端に咲いた白い花が小さく揺れた。


 「ねえ、君さ。まだ名前聞いてなかったよね? なんて名前?」


 死神が私に話し掛ける。長く伸びた睫毛の下で、黒真珠が二つ、真っ直ぐにこちらを向いていた。


 「私は、蒲田未玖かまたみくだけど……」

 「ふ~ん、そっか。未玖……未玖、ね」


 すると、彼はふわりと微笑んで言った。


 「良い名前だね」


 風が吹き、彼の髪がサラリと揺れる。

 穏やかに微笑む彼の姿が、一瞬、元恋人の姿と重なって見えた。


 《名前は何て言うの?》

 《素敵な名前だね》


 心臓がドクンと跳ねる。

 腹の底から湧き上がる漠然とした恐怖を掻き消すように、私は咄嗟に笑顔を貼り付けた。


 「あ、あなたは何て名前なの?」

 「俺? 俺は『ミタ』だよ。死神ミタ」

 「へ、へぇ。変わった名前なんだね。名字は?」

 「……ないよ」


 彼は空を見上げて言った。


 「俺達に名字なんてない。俺達に家族はない。記憶もない」


 頭上を真っ直ぐに見つめる彼の瞳には、空の青だけが映っていた。

 綿のような白い雲も、雲間から滲みだす光の色も。空っぽな青の中に、他の色は一切含まれていなかった。


 「俺達にあるのは、たった一つ。その一つのために、俺達は存在している」

 「…………」

 「なあ。君は、?」


 彼は空を見上げたまま尋ねた。

 表情はよく見えなかったけれど、彼の身体が少し震えているように見えた。


 「未玖、俺はね。気がついたら『あの人』の前に居たんだ」

 「あの人……?」

 「そう。天界の一番エラい人ってところかな。俺達死神はずっとその存在に仕えていて、皆『あの方』って呼んでる。俺は『あの人』って呼んじゃってるけど」

 「…………」

 「天界でもさ、皆象徴が必要なんだよ。だからそういう存在がある。下界では『神』とか呼ぶんだろ、そういうの」


 天から白い光が差し込んだ。

 電車が走り、路線沿いを風が吹きつけた。道端に咲いていた小さな花が、風に吹かれて大きく揺れた。


 「未玖。君に一つ、面白い事を教えてあげようか」

 「…………?」

 「こう見えて、俺もんだよ。でも、その頃の記憶はもうない」


 彼は私に視線を移してから、静かに言葉を続けた。


 「思い出すことが出来ないんだ」


 そう言って、彼は笑った。

 その言葉の裏にどんな想いがあるのか、今の私には解らなかった。

 ただ、自分を死神だと名乗った時の彼の表情と、どこか似ている気がした。



 改札を抜け、駅のホームで電車を待つ。

 あれから私は、彼に声を掛けることが出来なかった。


 私の横で佇む死神。

 私とほぼ同じ位の背丈の彼は、珍しいものでも見つけたかのように看板やら広告やらを眺めている。

 今横に立っている幼い顔立ちの天使は、一体どれだけのものを抱え込んでいるのだろう。


 「なっ、なんだよ。そんなにジロジロと見て」

 「ご、ごめん」

 「はっはーん。さては君、俺がガキみたいだと思ってなめてるんだろ?」

 「そんなことないよ」

 「残念だったな。俺は君よりも年上だ」


 彼はふんす、とふんぞり返ると、私を横目で見ながらしたり顔で続けた。


 「君、見たところ高校生だろう? 一方、俺の享年は二十一だ。覚えておくといい――


 大事なことを二回言った彼は、背筋をピンと伸ばした。

 背筋をどれだけ伸ばしたところで、相変わらず背は私と大して変わらなかった。



 電車がホームに到着し、風が強く吹きつけた。

 電車の窓ガラスに、高校生が映った。


 窓ガラスに映った私の顔は、酷く澱んで見えた。


  ☆★☆


 学校にて。

 教室の扉を開けた私に、一瞬、教室中の視線が集まった。


 ゴクリ、と唾を飲む。

 昨日の出来事を掻き消すように、頭を強く左右に振った。


 笑わなきゃ。

 私でいなきゃ。


 「おはよう、未玖。今日も素敵な眼帯ね?」


 席に着いた私に、永美が声を掛けた。

 永美の隣では心配性の満咲が私を見つめ、後ろの席からは花がだらりと腕を伸ばしてくる。


 いつもの友人達の姿を目にした瞬間、一瞬、これまでの日常が戻って来たような気がした。

 ふいに零れそうになった涙を堪えながら、私は口を開いた。


 「おは……」


 唇は震え、僅かに開いた隙間からは掠れた声が零れ出す。


 (しっかりして……! いつもの私でいなきゃ……!)


 唇を強く噛み締め、口の両端を上げる。

 私は辛うじて笑顔を貼り付けることに成功した。


 「お……おはよう、永美」

 「今回はこれで一週間かしら? 大分長いわね、記録を更新中よ」

 「それは嬉しいなあ。って、どうせ飼育記録とか言うんでしょ!」

 「あら、よく分かったじゃない」


 ――ヒトゴロシ。

 ――どうして、平然と生きていられる?

 ――お前は、恋人をその手で殺したんだ。


 どこからか、ざわざわと声が聞こえてくる気がした。

 幾重にも重なるようにして、次第に声は大きくなっていく。


 教室の喧騒がやけに煩く感じた。


 晴れていたはずの空には雲が掛かり、薄暗く澱んでいく。

 切れかけた天井のライトが、明滅を繰り返す。


 突然降りだした雨が、遠くの方でザーザーと音を立てた。

 教室の外から、湿気を帯びた生暖かい空気が入り込んだ。


 私は表情筋に力を籠めた。

 周囲の雑音が聞こえないように、精一杯の笑顔を貼り付けた。


 友人に心配を掛けることなんて出来ない。

 これまでだって、ずっとそうしてきた。


 歯を喰いしばる。

 この場所だけは、守らなければいけないのだ。


 たとえ私がどんな力を手にしたとしても、この温かい日常だけは、失いたくないと思ったから。


 「まあまあ未玖、永美は小動物に対する愛情が人一倍深いのさ。許してあげてくれたまえよ」

 「あはは。って、花! 私、小動物じゃないもん!」

 「それより未玖、朝メッセージ送ったの見た? どうせ未玖のことだから、朝ギリギリまで寝てて気づいてないかもしれないけど」

 「ち、ちゃんと返したよ! そりゃあ満咲の言う通り、朝ギリギリまで寝てたのはごもっともだけどな指摘だけど……」


 ほら、とスマホを取り出すと、満咲の言う通り、メッセージを打っている途中で送信出来ていなかった。


 「あ……はは……返したと思ってたんだけどなあ」


 視界がぐにゃり、と歪んでいく。

 笑顔。吊り上がった口元。


 あれ、おかしいな?

 笑わなきゃ。笑わないと。

 もっと、もっと、

 もっともっともっともっと……


 色相は混ざり合い、三人の笑顔が時折不気味に見えた。

 仮面。仮面。仮面。


 《こんなにも負の感情を抑え込んでいる人間を、僕は初めて見た》


 ――不気味だ。気持ちが悪い。

 好きだったはずの人間を殺しておいて、

 平然と笑っていられるなんて。


 お前なんて――人間じゃ、ない。



 その瞬間、込み上げる嘔吐えずきを堪えきれなくなった私は、


 「ごめん……ちょっと、トイレ行ってくるね」


  ☆★☆


 私はトイレで吐いた。

 何度も、何度も。

 胃の中身が空っぽになっても、全身を覆う寒気が止まらなかった。


 涙が溢れて止まらなかった。


 洗面台で口をゆすぐ。

 鏡に映った自分の顔は相変わらず酷い顔をしていた。


 濡れた前髪がピトリと張りつく。瞳孔は大きく開かれ、その中には何も映っていなかった。


 (ど、う……して……)


 眼帯を外すと、左目は相変わらず腫れていた。

 目の下には紫色の隈が浮かんでいた。


 生気を失った真っ青な唇。

 血の通わない青白い頬はまるで、死人しびとのごとく色彩を失っていた。


 (どうして、こんなことに……)


 誰に問いかけたところで答えが返ってくるはずもないのに、そう思わずにはいられなかった。


 「は……ハハハ……」


 思わず笑い声が零れた。

 それほどまでに、鏡に映る自分の姿が滑稽に思えた。


 ――好きだったはずの人間を殺しておいて、

 ――平然と笑っていられるなんて。


 お前なんて――人間じゃ、ない。


 「わ……たし、なんて……」



 「大丈夫、未玖?」



 その声は、廊下の方から聞こえた。

 驚き声のする方に目をやると、そこには友人の姿があった。


 「あ……あはは、私、」


 私は慌てて眼帯を付け直し、顔に笑顔を貼り付けた。

 彼女は少しずつこちらに歩んでくる。

 切り揃えられた前髪の下で、コーヒー豆色の大きな瞳がじっとこちらを見ていた。


 「私ね、今日お腹壊しちゃったみたいなんだよね」


 一歩、一歩。

 彼女は私の元へ歩み寄る。


 「あ! 今、飼育日記つけようとか思ったでしょ、永美?」


 笑わなきゃ。

 心配掛けちゃダメだ。


 「何度も言ってるけど、私は小動物でも、ましてや実験動物でもないんだから!」


 私の所為なんだから。

 私が願ったせいで、


 「あはは、私もいい加減、人権を主張し……」



 私が堀口君を、殺した。



 永美が、目の前まで来ていた。

 ガラスのように透き通った瞳が、心配そうにこちらを覗き込んでいた。


 《大丈夫、未玖?》


 私は精一杯表情筋に力を籠めた。

 いつも通りの笑顔を浮かべてみせた――はずだったのに。


 (あれ、何で……)


 渾身の笑顔は引き攣り、代わりに涙が頬を伝い溢れ出した。

 どれだけ止めようとしても、一度溢れ出してしまったら最後、涙は次々と溢れ出していく。


 「ずっと、泣きそうな顔してた。未玖」

 「な、何言って」

 「分かるわ。私も、一人で抱え込んじゃうタイプだしね」


 永美は照れくさそうにはにかんだ。


 「でも、顔は笑っててもね。?」


 いつも実験だとかなんとか言って散々に私を弄ぶ彼女は、困ったように笑うのだった。

 今まで見たこともないような優しい表情で、こんな私に手を差し伸べて。


 「涙が溢れるってことはね。」

 「本音はそう思ってるって、ことなんだから」



 何かがプツン、と切れたような音がした。

 差し伸べられた手は温かくて、澱んでいた世界に一筋の光が差し込んだ。


 冷え切っていた氷が融かされていくように、温もりが私の心をとかしていく。

 淡い光が包み込み、景色は鮮やかな色彩を取り戻していった。



 彼女はそれ以上、何も言わなかった。

 永美は困ったように笑いながら、ただひたすら、私を見つめていた。



 それが、友人の前で見せた最初の弱さだった。

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