第五話 半信半疑
カーテンがふわりと舞い、窓の隙間から風が入り込む。
柔らかな黒髪が風に揺れる。季節にそぐわない黒いマントが、彼の腰掛けた勉強椅子からだらりとはみ出した。
死神。
そう名乗った彼は、神妙な面持ちのまま続けた。
「魂を死後の世界に転送する力は’wink killer’と呼ばれる。死神は魂を見て
「死神……’wink killer’……?」
彼は「まあ、いきなりこんなこと言っても通じないか」と肩を落としてから、混乱する私のために言葉を加えた。
「簡単に言うと、死んだ魂を天界に送ってるってこと。下界で死んだ人間の魂は普通、成仏して自動的に死後の世界へ転送されるんだけど、まれに成仏できずにそのままこっちの世界に残ってしまう魂も存在する。俺達は、そういう魂を見つけ次第転送することになってるんだよ」
「死神が、魂を……」
彼の突拍子もない説明を、私は信じられないといった表情で聞いていた。
椅子の背もたれに寄り掛かり腕を組む死神。彼はわざとらしく「あーあ、面倒くせぇなー」と苛立ちを口にしてから、大きな溜め息をついた。
「俺がたまたまあそこの路地を歩いてたら、急に君に力を奪い取られたんだ。そしたら君が力を使ってあの人間を……」
「ちょっ、待ってよ! 私にそんな力なんてないし、まず私、あの時右目なんて瞑ってな……」
私はハッとして、自分の左目を覆う眼帯に触れた。
そう言えば、昨日はこの眼帯のせいでずっと左目を瞑っていたのだ。
《私、死にたくない……!》
もしかして、私が目を瞑ったとき、
「まったく、君のせいで仕事が台無しだよ」
彼は肩を落としてから、両腕をぶらんと椅子から外へ放り出した。背もたれに体重が掛かる度に、勉強用の椅子が乾いた音を立てる。
「下界に追い出されたのは向こうの世界で仕事サボってたからで、それはしょうがないにせよ、だ。来たら来たで力は奪われて、肝心の
「ご、ごめんなさい」
この死神の言う通りなのだとしたら、私は彼の大切な力を奪ってしまったのだろう。
そんなつもりなんてなかった。
けれど、そのおかげで私の命は助かったのかもしれない。
《私、死にたくない……!》
私が、そう願ってしまったから……。
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第五話 半信半疑
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部屋の時計がカチ、コチと音を立てる。
一階から母と弟の会話が聞こえてくる。
呼吸が浅くなり、掌にじんわりと汗が滲んでいく。困ったようにジトリと私を睨みつけていた死神だったが、突然、何かを閃いたのか「あ」と声を漏らした。
「奪われたなら奪われたってことで、君を監視してるってことにしておけば、
「…………」
「ってことで、今日から宜しく」
「えっ」
一瞬、思考が停止する。一方彼は「今までサボってたツケが回ったと考えれば安い方かな」などと笑っていた。
「監視って、まさかずっと近くにいるってこと?」
死神は不思議そうにこちらをジッと覗き込んだ。ぱちりと開かれた人形の瞳は真っ直ぐにこちらを向き、女子も羨むほどの小顔が横に傾く。
「大丈夫だよ? 俺は他の人間には見えないし、声だって聞こえない」
「そっ、そういうことじゃなくて……」
「じゃあ何?
「え、いや……」
うるうると瞳を滲ませる姿は、濡れた子犬さながらだった。違う。そういう問題じゃないのだ。
「俺だってさぁ? すぐに帰れるものなら帰りたかったよ。だけど君のせいでこんなことになったんだからさ。
「ご、ごめんなさい」
「いい? 分かったら君は、俺を可哀想に思いつつ俺の監視下に置かれるべきなんだ」
「そんな……」
「君は俺が居なければ助からなかった。つまり、俺は君の命の恩人でもある」
少年は「ね?」と付け加えた。整った人形の満面の笑みに、薄っすらと影が掛かる。その無言の圧力に、私はゴクリと唾を呑み込んだ。
ある日突然目の前に現れた死神に「憑かせてくれ」と頼まれる異常事態は、おそらく私の知る限り全国を探してもこれが初めてであろう。
死の危機に瀕した人間は、どんな道であっても助かりたいと願うものである。
彼は「死神」。
逆らえば殺されるかもしれない。
私には最早、選択の余地などなかった。
「わ、わかった」
「本当か……?!」
彼は両手を広げてから「はー良かった良かった」と安堵の表情を浮かべた。表情を緩めた彼は、「死神」から一転して「子犬」の様相へと様変わりする。
《あの男を殺したのは、君だ》
先程の死神の言葉が頭から離れなかった。
「本当に、私が殺したの?」
「…………」
「だって、
私は未だに探していた。
彼を殺したのは私ではないと、信じるに足る根拠を。私は人殺しではないと、そう信じられるだけの理由を。
しかし、それは単なる幻想に過ぎなかった。
「呆れたな。君はまだそんなことを言っているのか」
「だ、だって」
「教えてあげようか。なあ? ……人間」
彼は青い光の粒子に包まれたかと思えば、次の瞬間、
ドアに右手を突き、死神は私を見下ろした。
足が竦み、手が震えた。バクンバクンと、心臓の鼓動が耳元で激しく鳴り響いている。
言葉を失った私に、死神は静かな口調で続けた。
「魂っていうのはな、
「…………!」
「なあ。あの時君は目を瞑る直前、
私を見下ろす彼の視線が鋭く突き刺さる。真っ黒な瞳孔が、ジッとこちらを見据えていた。
彼から視線を逸らすことが出来なかった。
ふと、昨日の映像が脳の裏側を掠めた。
降り止まぬ雨。自動販売機の人工的なライト。
恍惚とした表情を浮かべる、恋人の――
獲物を狙うようなその
「私が、本当に……」
正直、半信半疑だった。
けれど、ようやくここではっきりと理解した。
身体の奥底からどす黒い靄のようなものが湧き上がる。それは身体全体に広がり、毒のように、やがて肺を、腕を、指先を、毛細血管に至るまで侵食していく。
全身の立毛筋が立ち上がる程の寒気に襲われたとき、私は唐突に理解した。
ヒトヲ、コロシタ――――これは、そのことによる罪悪感なのだ、と。
「つ、使えないよ! こんな力」
震えが止まらなかった。
目の前で白目を剥き冷たくなっていったかつての恋人の最期が、頭から離れない。
「お願い。この力、返せないの?」
「それができたら俺もこんなに苦労してないよ」
「そんな……!」
窓の外を曇り空が覆った。
廊下から入り込んだ冷え切った空気が、身体の温度を奪っていく。
入口の扉にへなへなと座り込む私に、ドアの外から母親の声が掛かった。
朝食の準備が出来たらしい。
「未玖ー? まだ起きてないの? 遅刻するわよー」
「大丈夫。今行くから……」
青褪めたままの私をよそに、彼は先程までの冷たい表情から打って変わり、ぱっと明るい笑顔を浮かべた。
「ほら、遅刻するってさ。まあ君の場合、あまり深く考え過ぎないようにした方がいい」
「で、でも」
「大丈夫だって。なんてったって、この俺が
「…………」
「まぁその、何だ? 君にとって死神の力はそんなに悪いものじゃない」
「え……?」
「分かってると思うけど、その力は死んだ人間の魂にだけじゃなく、生きている人間の魂にまで効果が及ぶ。つまり、だ」
死神は、ニヤリと口の端を歪ませて笑った。
「もしまた誰かに襲われたりして危ない目にあったとしても、
よかったね、と残酷な笑みを浮かべる死神に対し、私は言葉を出すことが出来なかった。
こんな恐ろしい力は使ってはいけない――私は強く、そう思った。
この時はそう、思っていたはずだった。
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