第三話 溢れ出す

 家の玄関を開ける。

 すると、たまたま通りかかった家族がこちらに視線を移した。


 全身ずぶ濡れになった私を目撃した彼は、目を丸くしていた。


 「……姉貴?」


 私より少し背の高い、二歳下の弟。

 運動部に所属しているガタイの良い身体つきは小柄な姉とは大違いだ。


 昔は子犬みたいに小さくて可愛らしかった弟も、今となってはすっかり立派になってしまった。

 身体つきだけでなく口も立派になった弟とは、喧嘩をしては仲直りの繰り返し。そんな弟の姿を目にした瞬間、些細なあたり前ですらかけがえのないものに思えてきて、何故だか言い様のない感情が込み上げてきた。


 「……どうしたんだよ?」


 明かりもつけぬまま玄関で立ち尽くす。濡れた制服がびとりと肌に貼りつき、冷たい空気が体温を奪っていく。掃除の行き届いていない玄関は酷く埃の匂いがした。


 弟が心配そうに私を覗き込むので、私は視線を逸らし、込み上げてくる熱いものを堪えるため必死で唇を噛み締めた。


 「あ……姉貴?」

 「………………」


 泣いちゃダメだ。

 弟には心配を掛けられない。


 泣いたらダメ。

 泣いたらダメ。

 泣いたら――



 「何か、あったのか?」


 その瞬間じわり、と両目を熱いものが覆った。

 それは涙だと分かった。


 顔を上げると、弟が真っ直ぐに私を見つめていた。

 生意気ばかりの弟が今日に限って何故か優しい気がした。


 「………………」


 その瞬間何かがプツンと切れたような音がして、気がつけば、私は弟にしがみついていた。


 「ぁぁぁああああああ……!」



 年甲斐もなく私は弟にしがみついて泣きじゃくった。


 服越しに、皮膚の温度が伝わってくる。

 生身の人間の温もりが、すぐ傍にある。


 《僕はね……ずっと探してきたんだ》

 《をね》


 生きている。

 今、ここにこうして、私は生きている。


 《僕と一緒に――天国で、永遠になろう。未玖》


 本当なら私は、あのまま堀口君に殺される運命だった。


 誰にも助けを求めることもできないまま、たった一人。

 私はあの場所で、天を仰ぎ、目を見開いたまま――冷たくなっていくはずだったんだ。


 肺の奥に空気が入り込み、胸が広がる。

 ゆっくりと息をしているのが分かった。

 この身体に未だに命が灯っていることを認識した。


 そんな当たり前のことがどうしようもなく嬉しくて、必死にき止めていたものがぼろぼろと溢れ出していくのを、私は止める術を持たなかった。


 《その……好きになったんだ。君のことが》

 《これからも、一緒にいてくれないかな》


 辛かった。苦しかった。

 裏切られて、寂しくて、


 《おはよう、未玖。ところで何かしらそのは。何かの実験?》

 《なかなかの芸術センスだねぇ。でも、あたしに比べたらまだまだかなあ》


 けれど、友達にも家族にも、誰にも言えなかった。


 一人だった。

 ずっと、一人で抱え込んできた。


 《――アイシテ、イルンダ》


 怖かった。

 それ以上に、悲しかった。


 私は止めどなく溢れる涙を堪えることが出来なかった。

 声を上げて、年甲斐もなく弟にしがみついて泣くことしか出来なかった。


 「なんなんだよ……」


 弟は突然の出来事に呆然と立ち尽くしていた。

 けれど、その手は私を無理やり引き剥がすことはなく、その声はただ驚いたように、困ったように「しょうがないな」と零すだけだった。


 暫くの間家の中に私の泣き声が響いていた。

 家族の温もりに包まれながら、私は初めて誰かに弱みを曝け出した。


  ☆★☆


 深夜。

 風呂場にシャワーの音が響き渡る。


 脳裏に先程の惨劇がこびりついて離れなかった。

 ふと、白目を剥いたまま倒れた彼の最期の表情が過ぎる。慌てて首を横に振りながら、私は両目を強く瞑った。


 (一体、何が……)


 鏡に自分の顔が映った。

 やつれた目元。鎖骨あたりまで伸びた栗色の髪が、水で濡れてピトリと頬にまとわりついている。顔は蒼褪あおざめ、茶色の瞳を覆う左瞼は、ものもらいでぷっくりと腫れていた。


 ――酷い顔だ。



 入浴後は、濡れた髪のまま倒れ込むように布団へもぐり込んだ。

 布団の中で、私は掠れた声をしゃくり上げた。


 どうして、こんなことに。


 彼は何故私を殺そうとしたのか。

 何故突然、私の目の前で倒れたのか。


 「どうして私、生きてるの……」



 《嫌だ……私、死にたくない……!》


 あの時私は、確かに「死にたくない」と強く願った。その代わりに彼が死んでしまったとでも言うのだろうか。


 だとしたら、彼が死んだのは――


 「私のせいだ……」


 ――クス。

 ――クス。クスクス。


 次第に蘇っていく鮮やかな映像。

 彼の死に際の表情。


 私を殺そうとする歪んだ表情のまま、堀口君は死んでいた。それは明らかに不自然な死だった。


 《くだらない男ね。、だなんて》

 《こんな奴、死んじゃえばいいのに》


 ――クスクス。

 ――クス。

 ――クス。クスクス。


 笑い声が纏わりついてくるようだった。

 耳元で冷たく囁くように、その声は笑い続けた。


 何かの呪いかもしれない。

 彼が死んだのは、きっと、そう願ったからで。


 《辛かったろう。苦しかったろう。そんなにも一人で抱え込んで》

 《こんなにも負の感情を抑え込んでいる人間を、僕は初めて見た》


 ”こんな奴、死んじゃえばいいのに。”


 そうだ。

 きっと心のどこかで、そう願ってしまったから。



 「い……嫌……」


 次は、自分かもしれない。


 『ねぇ』


 どこからか、聞いたことのない誰かの声が聞こえた気がして、全身の毛が逆立った。


 「き、きっと気のせい……!」


 布団にくるまり、強く耳を閉じる。


 (これがどうか悪い夢でありますように……!)


 布団の中で夜が明けるのをひたすら待つうちに、気がつけば私の意識はじんわりと遠退いていった。



 その晩、すぐ傍にがいることに、私が気づくことはなかった。

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