第二話 アイシテ、イルンダ。

 チャイムが鳴り、今日も学校が終わる。

 部活動のある花を除き私達は帰路を共にした。


 今日もいつもと変わらない放課後だった。


 相変わらず永美は私を都合の良い小動物か何か(というか被検体)だと思っているし、満咲は満咲で、私を心配するフリをしながらいつだって三人の中で一番尖ったナイフを突き刺してくる。


 それでも、大切な友人達と過ごすそんな時間が堪らなく好きだった。

 なんて、リトマス試験紙のようにSかMか判定できる色紙があったら、私の場合一滴垂らした瞬間にあり得ない速度でM色に染まる気がする……。



 永美が途中の駅で降り、次に満咲が電車を降りた。

 電車の中には私一人が残された。


 ――ガタン、ゴトン。


 窓の外から眩しい程の夕陽が差し込む。私は思わず手をかざし、を細めた。

 指の隙間から僅かに黄金色が染み出した。


 不意に、涙が零れ落ちた。


 右まぶたの涙を拭う。

 両目を掻こうと左手を伸ばすと――の指先に、固い布の感触があった。



 本当はずっと泣きたいのを我慢していた。


 友人達の前ではいつもの私でいたかった。

 幸せな四人の時間を失いたくなかった。


 だから、ここ数日の私はずっと顔の表面に笑顔を貼り付けている。


 けれど、こうして一人になる度に思い出してしまうのだ。


 一週間前の出来事を。

 、あの日のことを。


 (駄目だ。もう考えないって決めたのに)


 右瞼から溢れ出した涙を拭い、私は再び顔を上げた。

 電車が最寄りの駅に到着する。


 刹那の夕陽は沈み、やがて天からポツリ、ポツリと雨粒が落ちていく。


 改札を出て、鞄の中から折り畳み傘を取り出した。

 アスファルトから蒸し返すような夕立の匂いが立ち込めた。


 「何か……嫌な天気だなぁ」


 鞄の中に入れっぱなしになっていたの傘を広げ、私は雨の中を歩き出した。

 その後ろを誰かがついてきているとも知らずに――。


―――――――――――――――――

第二話 アイシテ、イルンダ。

―――――――――――――――――


 激しい雨が薄暗い住宅街に降り注ぐ。

 夕闇の中、私は息を切らして走っていた。

 道路の至る所に雨水が溜まり、水溜まりの上を走る度、革靴や靴下に泥水が付着する。


 (嫌だ……どうして追ってくるの……!)


 後ろから重々しく迫る足音。

 どれだけ走って逃げても纏わりついてくる気配に、背筋が凍りつくような寒気で覆われる。


 走る。走る。

 傘は投げ捨て、不気味な追手から逃れるため、雨の中ずぶ濡れになって私は走った。


 しかし、依然として背後の気配は消えなかった。


 暗がりの中で足がもつれて転ぶ。

 固い岩にでも打ち付けられたかのような衝撃が伝い、口の中に血の味が広がった。


 顔を上げた私が目にしたものは、絶望的な光景だった。


 (行き止まり……?!)


 目前にそびえ立つ壁を目にした時、ここより先に逃げることは叶わないことを思い知った。

 一方、背後からの異様な気配は強まるばかりで、



 ――ピチャン、ピチャン。



 雨の中誰かがこちらに近づいてくる。


 絶望すると同時に背後から男の声がした。

 恐る恐る後ろに視線を移すと、そこには。


 「未玖。やっぱり、未玖だよな……?」


 包み込むような優しい声。

 その男の正体を認識した瞬間、



 ――思わず、口元から疑問が零れ出た。



 「ほり、口……君?」


 懐かしい声の主は、私のよく見知った人間の姿形をしていたから。


 「良かった。君がまだ生きていて」

 「ど、うして」

 「立てる? ごめんね、急に追いかけたりして。でも、どうしても君に会いたかったんだ」


 会いたかった。その言葉が嘘でしかないことなどとっくに分かっていた。


 何故なら、この男は。

 この男こそが。



 一週間前に私を裏切った張本人なのだから。



  ♪♪


 彼――堀口優ほりぐちゆうと出会ったのは、今から一年くらい前。


 出会いは偶然だった。

 通学途中、バスの降り際に定期券を忘れた私を助けてくれたのが彼だった。


 《名前は何て言うの?》

 《素敵な名前だね》


 それから、彼とは何度か会うことがあった。


 《君はおっちょこちょいだからなあ》

 《あはは、小動物みたいだ》

 《ペット扱い? そんなことしてないよ》


 会う度に、優しい彼は私の心をとかしていった。

 会う度に、優しい彼に惹かれていった。


 《その……好きになったんだ。君のことが》

 《これからも、一緒にいてくれないかな》


 いつしか、私達は付き合うようになった。

 しかし、絵に描いたような淡い日々がそう長く続くことはなかった。


 「どうして……」


 一週間前、たまたま街で見かけた彼の隣には、同じ歳くらいの可憐な女の子がいた。

 彼女の顔はよく分からなかったが、幸せそうに歩く二人の後ろ姿を見た瞬間、胸の奥に様々な感情が込み上げてきた。


 それは怒りに近い感情であり、悲しみに近い感情であった。

 落胆に近い感情であり、絶望に近い感情であった。


 今思えば、あの場で逃げ出してしまわずに彼を問いただしてしまっても良かったのかもしれない。

 けれど、私にそんな勇気はなかった。


 問いただしたところで、どうせ何も変わらないのだ。

 彼との関係が元のように戻ることはないのだ。


 もう、二度と。


 彼と写った写真を眺める度に、胸が締めつけられた。

 幾つもの熱い涙が、液晶画面にぽたりぽたりと零れ落ちていく。


 これまでの彼との思い出を汚したくなかった。


 だから私は、彼に怒りを向けることが出来なかった。

 だから私は、彼に憎しみを向けることが出来なかった。


 「嫌いになんて、なれないよ……」


 一か月間。

 それが、彼が私を裏切っていた期間だと知った。


 一週間前――事実を知ったあの日から、私は何度も何度も泣いた。

 家族にも友人にも打ち明けることなく、たった一人、部屋に閉じこもって泣いた。


 昔から左目を強くこする癖のあった私の左瞼は、見るも無惨に腫れてしまった。

 泣いている自分を知られたくなくて、皆の前ではいつも笑顔を浮かべていた。


 ものもらいで腫れたを隠すために、までして。


  ♪♪


 「ごめん、その。驚かせるつもりはなかったんだ。でも、君が逃げてしまうから」

 「堀口君……」

 「少し、話をしよう。落ち着いて聞いてくれ。そう、僕の本当の気持ちを」


 地上に降り注ぐ、氷のように冷たい雨。

 冷え切ったアスファルトが、横たわる私の体温を奪っていく。


 私はゆっくりと背を起こし、目前に立つ彼を見上げた。降りしきる雨がザーザーと音を立て、幾つもの小さな雨粒が彼の肩の上で跳ねていた。


 近くの自動販売機のライトに照らされて、彼が革のジャケットから何かを取り出そうとしているのが分かった。

 彼は優しく微笑んでいるのに、何故だかとても――嫌な予感がした。


 「聞いてくれ、未玖。僕は本当に、君を愛している。

 「な……なら、どうして……」

 「あれはそう、誤解だ。誤解なんだよ。分からないか、未玖? 僕の目を見てほしい。本気なんだ」


 ――クスクス。

 ――クスクス。クス。

 ――クスクス。


 いつもの笑い声。

 それはどこからともなく聞こえてきて、だけど今日はハッキリと聞こえてきた。


 初めて耳にした、彼女の声。

 冷たくて残酷な、の言葉が。



 『嘘つき。ウソつきね』

 『愛、なんて――そんなもの、ある訳ないじゃない』



 「ねぇ、堀口君……?」


 全身に危険信号が鳴り響いている。


 「もう、嘘はつかないで。お願いだから、教えて……?」


 ゴクリ、と唾を呑み込む。

 聞いてはいけないような気がしていた。

 それでも、聞かずにはいられなかった。


 真っ青になった唇を震わせ、か細い声を絞り出す。恐怖を押し殺しながら私は尋ねた。

 可能性を、少しでも信じたかったから。


 「そのポケットの中に、何を持っているの……?」



 一瞬だけ、彼の表情が変わった。



 しかし次の瞬間には、彼はクスリと笑って、穏やかに――どこか私を見つめるのだ。


 《聞いてくれ、未玖》

 《僕は本当に、君を愛している。愛しているんだ》


 ――アイシテ、イルンダ。


 彼と目が合った瞬間、ぞわ、と全身の毛が逆立った。



 「ああ、これか。これはね……ための道具なんだ」



 思わず息を呑んだ。


 立ち上がろうと力を込めた足は、ピクリとも動かすことが出来ず。

 心臓の鼓動ばかりが、ドクンドクン、と耳元で鳴り響いている。


 元恋人は表情を浮かべ、私を見下ろしていた。

 雨は依然として降り止む気配もなく、自動販売機の人工的な薄明りだけが辺りを照らしている。


 「僕はね、ずっと探してきたんだ」

 「た、すけ、」

 「ずっと探してきたんだ。をね」


 道路の真ん中で、不気味に笑う恋人の素顔を目にした瞬間――


 「僕はね。愛する人と一緒に、天国に行きたいんだよ」



 全ての音が、遠ざかった。



 「や…………」


 泣いて、泣いて、泣き腫らして、ものもらいで腫れた私のを覆う眼帯が、雨に濡れてびっとりと瞼に張りつく。

 ポケットから取り出されたは、薄明りに照らされてギラリと鈍い光を放った。


 「や……め……」


 震えながら必死に抵抗の言葉を絞り出そうとするが、喉の奥からはむなしく空気が通り抜けるだけだった。

 右手に凶器を握り締めながら、目前の男は興奮した様子で次々と言葉を並べていく。


 「僕にはね、分かるんだ。人間の負の感情が」

 ――やめて。


 「ずっと。ずっとウンザリしてきた」

 「人はすぐに負の感情に呑まれる」

 「僕の親もそうだった」「吐き気がするよ」

 「誰もかも、を分かっていない」「僕は探してきた!」「特に女の子はね、分かりやすい生き物だよね」

 「何度も試してきたよ」「何度も何度も」「、それでも愛してくれる人を探した」「でもダメだった」

 「負の感情に呑まれてしまうんだ」「皆すぐに化け物みたいに」「真っ黒になってしまうからね」


 「でも君は違った。こんなにも負の感情を抑え込んでいる人間を、僕は初めて見た」

 ――お願い、もう。


 「可哀想に、辛いだろう。抱え込んでいるのは」

 「僕に裏切られてもなお、君は変わらなかった。化け物にならなかったんだ」

 ――そんなこと言わないで。


 積み上げてきたものが音を立てて崩れ落ちていく。

 優しかった彼との想い出が喪われていく。


 《君はおっちょこちょいだからなあ》

 《その……好きになったんだ。君のことが》


 ひび割れたガラスが砕け散るように、

 幸せだった日々の欠片は、手の届かない闇の底へと零れ落ちていく。


 《これからも、一緒にいてくれないかな》



 本当はずっと、彼のことが大好きだった。

 だからこそ、目の前の怪物が何もかもを壊していくのが堪えられなかった。


 苦しくて、哀しくて。

 大好きで。大好きで大好きで大好きで。


 温かい日常は、温かいまま。淡い日々は、素敵なまま。

 裏切られたとしても、楽しかった記憶だけは、そのままにしておきたかったから。

 だから、終わらせるはずだった。


 ――終わらせるはずだったんだ。



 「君はまるで、泥の中で輝き続ける真珠のようだ」

 「僕の世界は、生まれつき呪われていた」「それでも、負の感情に呑まれた化け物で溢れ返る僕の世界で、化け物にならなかったのは、君が初めてだ」

 「辛かったろう。苦しかったろう。そんなにも一人で抱え込んで」

 「そう、これが僕の愛なんだよ。未玖?」

 「ほら、大丈夫。怖がらないで。もう、楽になろう。そして……」


 お願いだから、もう。

 もうこれ以上、思い出を汚さないで。



 「僕と一緒に、天国で永遠になろう。未玖」



 彼の振り上げたナイフが、銀色の光を放つ。


 (死にたく……ない……)


 逃げなければ、殺されてしまう。

 それなのに、私の身体は動かすことが出来なかった。


 (嫌だ……嫌だ……!)


 ――クスクス。

 ――クス。

 ――クス。クスクス。

 ――クスクス。


 声が聞こえた。

 彼女の冷たい笑い声。


 それは紛れもなく、だった。


 『くだらない男ね。、だなんて』

 『こんな奴、死んじゃえばいいのに。』



 (私、死にたくない……!)




 その瞬間、私は強く




 ザーザーと雨の音がする。

 真っ暗な世界の中で自分の荒い呼吸の音が響く。


 痛みを、いや衝撃を感じなかった。

 それに、皮膚の感覚が未だに、雨が身体に降り注いでいるのを捉えている。


 私は今、のだろうか。


 おそるおそる、瞼を持ち上げる。

 するとそこに広がっていたのは、予想だにしない光景だった。


 「…………!」


 目の前で、彼は新品のナイフを握ったまま倒れていた。

 一体、何が――


 「息……してない……」


 私を裏切り、愛していると宣い、挙句の果てに私を殺そうとした恋人は、紛れもなく息絶えていた。

 外傷は皆無。

 私を刺そうとした先刻の歪んだ顔のまま明らかに不自然な状態で死んでいた。


 「な、何で」


 震えが止まらなかった。

 その時の私はただ、その場から逃げるようにしてとにかく無我夢中で走ることしか出来なかった。



 暗闇の中、足がもつれても。

 泥にまみれたまま、雨の中私は走り続けた。


 何もかもから逃げるようにして。



 その出来事が、全ての悲劇の始まりだった。

 呪われた力は全てを巻き込み、そして、繰り返す。


 これは、呪われた力を手にした少女の、

 切なく儚い「罪」の物語。

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