wink killer もし、ウィンクで人を殺せたら――。

優月 朔風

第一章 死神と少女は出会う

第一話 かけがえのない、当たり前の日常

 高校の授業は、退屈だ。

 寝不足の薄ぼんやりとした意識の中で私はそんなことを考えていた。


 汗ばんだ肌の表面を涼しい風が撫でていく。クーラーの人工的な風とは異なる自然の風が、全身を心地良く包み込んでいく。

 カーテンの隙間から差し込む木漏れ日。風に揺れ音を立てる鮮やかな緑。

 教室の外から入り込んだ風が、窓際の席に夏の香りを運ぶ。



 高校の授業は、退屈だ。

 数学教師の声が耳心地の良い子守唄となり、次第に薄れていく意識の中私は再びそんなことを思った。


 辛うじて教室の中に留まっていた意識が途絶える。

 眠りについた私の意識はやがて少しずつ、薄闇の中へと導かれていった。


 ――クスクス。

 ――クスクス。クスクス。


 どこからか、誰かの笑い声が聞こえた。


 少しずつ、少しずつ。

 意識が深い海の底に沈んでいく。


 ――クスクス。クスクス。



 気がつけば、私はとある場所にいた。


 静かな暗闇。

 両の瞼を開くと、そこには黒い壁に囲まれた小さな部屋があった。


 真っ赤な絨毯。壁に掛けられた蝋燭。

 今にも消えてしまいそうな弱々しい燈火が、その部屋を照らす唯一の灯りだった。


 小さな空間は、明暗を繰り返している。

 風もないのに、蝋燭の炎が揺れている。


 ――クス。

 ――クスクス。クス。

 ――クス。クスクス。


 目の前にいるのは、黒いコートにマントを羽織った

 蝋燭の灯りに照らされて浮かび上がるシルエット。黒紐のブーツはあちこちに茶褐色がこびりついていた。


 深く被ったフードの下で、彼女は口角を吊り上げたままわらっていた。

 彼女は、何も言うことはなかった。


 ――ああ、


 「あなたは、誰――」


 彼女に問いかける。

 しかし、彼女は何も答えない。


 やがて、遠くの方から小煩い呼び声が聞こえた。


 「……ぁ、おい……蒲田かまたぁ……」


 その声は少しずつ。

 そう、少しずつ大きくなっていき……


 私の意識は一気に、現実世界へと引き戻された。



 「蒲田ぁ、お前。授業中に寝るとは良い度胸だなコラ」


 頭上から降り注がれる怒気の籠った声に、別世界にあった私の意識は少しずつ覚醒していく。寝ぼけ眼をこすると、そこには眼鏡を掛けた中年男性の姿があった。


 彼はこちらを見下ろし何やら私に小言を言っている様子。

 起き抜けの回りきらない思考回路の中、思わず以前友人が彼に対してつけていたが口を突いて零れ出てしまった。


 「クソ雑魚鼻眼鏡野郎……」

 「…………ほぅ」


 その後の結末は、言わずもがな。

 なお後日談にはなるが、罰としてみっちりと補習を受けたにも関わらず、私の数学の成績は一段階下がった。


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第一話 かけがえのない、当たり前の日常

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 「まさか、未玖みくがあそこであの台詞を繰り出すなんてね。今日は大雨でも降るのかしら?」

 「わ……私だって言いたくて言った訳じゃないんだよぉ」


 すると彼女は、「でも、本音はそう思ってるってことなんだから」と笑った。


 斜め前の席でクスリと笑いながら弁当の卵焼きを頬張る彼女は、クラス一の秀才、門田永美かどたえみである。

 真っ直ぐに伸びた黒い髪に、アーチ状に切り揃えられた前髪。茶みがかった大きな丸い瞳の上で、上向きに長く伸びた睫毛が……って、いいなあ、本当に羨ましい。

 キリリと吊り上がった眉毛や整った鼻筋からは、聡明で凛とした印象を受ける。


 クラス一の秀才は、その名前に相応しくクラス一の美人だった。


 しかし、天は一人の人間に二物も三物も与えるとは。まあその分私には何もないのかもしれないけれど……。おかしいな、前世の行いでも悪かったのかなあ。

 一方、当の本人は自身の美点を自慢げにひけらかすようなことはしない。彼女はいつだって謙虚で、そして――少し思考回路が歪んでいるだけだ。


 「よし。そしたら未玖、早速他の授業でも同じことやってくれないかしら。同じ条件下で、先生達の反応を比較するのよ!」

 「え、いや……」

 正気なの?

 「つべこべ言わない。いい? これはなの、未玖!」


 くるんとカーブを描く睫毛の下で、コーヒー豆の色をした丸いガラス玉がキラリと輝いた。彼女は恰好の獲物でも見つけたかのような顔つきで、被検体をジッと見つめては、ニヤリと顔を歪ませる。


 「さあ、降伏なさい!」

 「じ、実験って……」

 「大丈夫、私が可愛がってあげるわ。それこそ、愛玩動物のようにね」

 実験動物の間違いでは……?


 このままでは私が被検体第一号にされてしまう。私は口に含んでいたお茶をゴクリと飲み込んだ。


 「ま、待って永美! 生み出し親は花なんだから、花に任せよう、ね?」


 私の右隣に座っていた彼女――神崎花かんざきはなは目をぱちくりとさせた。


 「うん、そうだねぇ……。あれはあたしが言葉だ」


 花はそう呟いてから、何やらじっと考え込んでいる様子だった。


 毛先のところどころが外側にはねたショートヘアは、先端に向かって茶から金へとグラデーションを描いている。傷んだ毛先と日焼けした小麦色の肌は、その昔、中学時代にテニス部で犠牲になったとかなんとか。

 太いフレーム眼鏡の奥で、彼女の瞳は斜め下を見つめ続けていた。


 ごめんね、花。

 でも許して欲しいんだ。を連日のように私に刷り込んできたのは、紛れもなく君なのだから……。


 数秒間黙り込んでいた彼女。

 しかし、やがて面白い出来事でも思い出したかのようにクツクツと笑ったかと思えば、私の顔を見た途端、遂にぷっと吹き出した。


 「あっははは、やっぱりあたしぁ天才だなー」

 「あ、あの花……」

 「あの瞬間。キミがを言い放った時――あたしは笑いを堪えるので精一杯だったんだよ」

 他人事だと思っていたんだね?

 「あのあだ名。あの語感、響き……なかなか優れたを秘めているとは思わないかい?」

 「おっ、思わないよ!」

 むしろとても失礼だよ!

 「未玖、他の先生達にもあたしの創ったあだ名を叫んでいいぞ。このあたしが許可する」

 あれ、いつの間にか爆弾が投げ返ってきた気が。

 「ていうかそもそもこの話、冗談だよね。冗談ってことでいいんだよね?」


 テニスを辞め、高校から演劇部に入部した彼女は一転、「ゲイジュツセイ」とやらに固執するようになったらしい。

 ちなみにこれは、小学校以来の花の幼馴染から得た情報である。


 「「………………」」


 二人はきょとんとした様子で黙り込んだまま、私を見ていた。

 やばい、この二人。本気だ。


 沈黙の後に口を開いたのは、先程から黙々と弁当を口に運んでいた目の前の席の彼女だった。


 「永美ちゃん、花ちゃん。それを本当に、未玖にやらせたら、未玖が可哀想だよ……?」


 サイドテールにシュシュの、清楚系担当――もとい、夏目なつめ満咲みさきはそう呟くと、問い掛けるようにジッと二人を見つめ、横に首を傾げた。


 ウェーブのかかった黒い髪を青い髪飾りでまとめ右肩から流す彼女の姿は、まさに清楚を代表する乙女そのもの。

 垂れ下がった眉毛。ほんのりと赤みがかった頬。つぶらで小さな黒い瞳……

 例えるならそう、彼女はおとなしい黒猫で。


 そして、子猫というよりはどちらかというと親猫だ。修飾語として「極度の心配性」がつくほどの。


 「二人とも、よく、考えてみないと。さっき、未玖は物凄く怒られていたんだよ……?」


 彼女は本気で私のことを心配してくれている。

 しかし……。


 「満咲……ありが」

 「もし、ただでさえ未玖の数学の成績が、先生の機嫌を損ねてもっと悪くなったとして。この上さらに他の教科まで悪くなったとしたら……ただでさえ、のに」

 「…………」

 「ね、未玖が可哀想だと思わない……?」

 君は私が可哀想だと思わない?


 この「極度心配性親猫」は自分の言葉が他人を傷つけている事実には全く気が付いていない様子だったが、それを指摘する前に丁度学校のチャイムの音が鳴り響き、私は抗議するタイミングを逸してしまった。



 いつも彼女達の玩具として散々に弄ばれている私ではあったが、そんな日常に居心地の良さすら感じている自分がいた。


 嫌なことも、辛いことも。

 彼女達と一緒にいれば忘れられるような気がするのだ。


 友人達の扱いは少し(いやかなり)雑な気もするが、ここを居心地の良い場所と思える自分に対し、我ながら情けなさを通り越しもはや誇りすら覚えるのであった。



 蒲田未玖、高校二年生。

 これが、何の変哲もない私の日常だった。


 朝起きて、身支度をして。

 大好きな家族と、大切な友人がいて。


 この平和な日常があたり前だと思って過ごしてきた。



 ――その日の帰り道、が起こるまでは。



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この度は本作の世界へ足をお運びくださり、誠にありがとうございます。

貴方に、笑いと涙と戦慄をお届け出来ますように。


※本作の挿絵は作者SNSよりご覧いただけます(X(Twitter):@yuduki_saku)。

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