背信-9
「甘言の耳を傾ければ、すぐさま身も心も食ひ尽くさる」
そう呟いたのを聞いて、男は視線を落とした。鳥の巣のような頭の、小柄な少年が楽しそうに笑っている。機嫌良く弾むような足取りに、その髪や纏った白いマントが小さく揺れていた。
「自分たちが、常から説いている言葉なのにね。馬鹿みたい」
少年は意地悪く鼻を鳴らした。
魔物と一度約束を結んでしまえば、二度と逃れることは出来ない。魔物はその人智を越えた力で、あたかも願望を叶えたかのように見せるが、必ずどこかで綻びが産まれるものだ。願望が大きいほど、跳ね返る代償も大きくなる。その結末は千差万別でだが、共通するのは悲惨な末路を迎えるというものだった。その跳ね返りを、いつしか人は「呪い」と呼んだ。
約束を反故にする。そう司祭が口にした段階で、司祭に巣食っていた呪いは急速に進んだ。じわじわと全身に浸食した呪いは、彼が己の弱さと絶望に打ちひしがれた時に暴発する。それは時間の問題だった。ラウエルを発ってから数日。呪いが最高潮に達するか、すでに跳ね返った呪いに咀嚼されている頃だろうか。
「いくらでも犠牲にしていたくせに。同じ司祭様でも、時代と場所によって大きく異なるものね。ねえ、あなたもそう思うでしょ」
こちらを見上げて、意地悪く唇を吊り上げる少年に、男は何も返さない。一切返答をしない男に、少年は気を悪くした素振りも見せず、「まあ、どうでもいいことね」と、一人で喋り続けている。
「部位も取り戻せたし、万々歳としておきましょう」
指で挟むように持った目玉を、少年は空に翳して目を細めた。血潮のように赤く染まりつつあった金色の瞳は、その持ち主が激しい感情を抱いたまま、一度生を失ったことを物語っている。
教会の地下深くには、かつて英雄達が打ち倒した魔性の王が封印されている。復活を恐れた英雄たちは、目玉一つ、指一つ、その歯の一本一本に至るまで、言葉通りその身体をばらばらに分解した。魔を退けるという強い意志とともに、約束を結んだ精霊の力を借りて、英雄達の手で張られた守りは、いかなる魔物でさえ手出しが出来ない。魔物である限り、彼らの守りを越えることが出来なかった。唯一その守りを潜り抜けることが出来るのは、魔力を持たない人間だと、長くそう伝えられてきたのだが、ここ数世紀の間に一つの例外が出来た。
それが——
「あなただものね。まあ、それしか能が無いのだけど」
嘲笑を含むような、その物言いにも男はもう慣れていた。しかし、少年の長話がうるさく思えてきた男は、石のように引き結んでいた唇をようやく開く。
「そう言うおまえは、その姿が随分気に入っているらしい」
「まさか!」
不快だとでもいうように、少年は目を剥いて男を睨みつけている。それから間もなく、少年の姿は水に沈む泥のように溶け出して、瞬く間に新たな姿を象っていた。鳥の巣のような髪は落ち着きを取り戻し、鮮やかな色へと変わりながら肩に落ちる。痩せっぽちで小さな体は丸みを帯びて、胸部は適度な膨らみを取り戻した。小柄な少女へと姿を変えた相手は、男の前でくるりと回る。
「こっちの方が、可愛いでしょう」
男は何も言わなかったが、返答をしないことを、今度は許さないらしい少女は、頬袋に物を詰めた栗鼠のように、大きく頬を膨らませる。それにいちいち気を掛けることもなく、男は少女の脇を擦り抜けて先へ進んだ。
「ちょっと待ってよ。あの方に報告するのは、私なんだからね!」
小刻みな足音と一緒に、少女特有の甲高い声が男の背中に投げ掛けられる。
男がラウエルにやってきたのは、三か月ほど前のことだった。
ラウエルにある聖ナサニエル大聖堂の地下深くに、王の部位が封印されている。男たちの目的はそれだった。しかし、四大都市であるラウエルに入り込むことは出来ても、討伐隊が目を光らせてうろつく中で、大聖堂に忍び込むことは余計な事態を引き起こしてしまう。そこで少女が発案したのは、ラウエルの物理的な守りを弱らせることだった。そう考えてから、少女の動きは早かった。
少女はまず、ラウエルの周辺や近隣の町村で、静かに息を潜めていた魔物たちに襲い掛かった。力の弱い魔物は、洞窟や深い森の中に身を潜め、敵の少ない時間帯にようやく動き出す。運悪く格上の魔物と遭遇してしまえば、殺されて魔力結晶を奪われてしまうからだ。
少女は息を潜める魔物を襲撃し、手近な町村に向かうように追い立てた。混乱し、逃げ惑う弱い魔物たちは、その目論見通りに町や小さな村へと雪崩れ込む。そうした被害がいくつも報告にあがり、ここの一帯を管理する司教が下した命令に従って、ラウエルの討伐隊があちらこちらへと駆り出された。無論、全ての討伐隊の人間が町を離れることはない。しかし、半数以上を失ったラウエルは普段よりも監視の目が緩くなる。まずは、それだけで充分だった。
次に目を付けたのは、聖ナサニエル大聖堂を管理する司祭だった。司祭の心境は弱っており、付け入るには充分なほどだった。町の護りなど全く効果のない男が、少女が甚振って弱らせた百足をラウエルに運び込み、教会付近へと放った。切羽詰まった状況では、必死に何かに縋り付き、こちらに都合の良いように動くのは、人間も魔物も然したる違いはない。弱って死にかけた百足は予想通り、弱り切った司祭へと近付き、悪あがきのように彼を揺すぶった。
男は定期的に司祭の動向を伺った。人目を避けるように、小さな獣や鳥を司祭館に運び込む姿を、男は何度も目撃した。しばらくすると獣が魔力結晶へと変わり、人間へと変わる段階に至るまで、そう多くの時間はかからなかった。
その後、失踪事件が立て続けに起こるようになり、ようやく討伐隊が腰をあげた。ラウエルに残る討伐隊の人間が、町を巡回しながら注視するのは、不審な人間がいないかどうか、変わったことが無いかどうかといったものだ。この頃になると、男はすでに町の中に溶け込んでいて、不審者という項目からは自然と除外されていた。これが一日二日などといった、短期間であれば不審な視線を免れることは出来ないだろうが、数週間から一か月、二か月経とうとする頃にもなれば、何か問題を起こしさえしない限り、人々からの警戒心もほとんど薄れている。まめに週に一度の集会にも顔を出していれば、不本意ではあるが顔を覚えられる。人とは見知った顔に安心感を覚えるものだ。
百足の欲は底を尽かず、次々と司祭に餌をねだる。町を護るため、住民の命を護るため、教会の人間を餌にする。そのような矛盾に司祭の善良な精神が擦り切れ、限界を迎え始める頃になってから、男は司祭に近付いた。大聖堂に収められている王の部位と引き換えに、魔物からの解放を持ち掛けた。
司祭はひどく迷っていた。魔物との約束は、命尽きるまで破ることはできない。一方的な破棄や反故は、より一層強く、おぞましい仕打ちを伴って返ってくることは、教典の内容を通じて、誰もが知るものだった。しかし約束を守ろうとも破ろうとも、呪いがその身体から消え失せることはなく、道を違えた者の末路は、いつの時代も悲惨なものだ。
百足は非常に役に立った。司祭が司祭館に招いた人間は、いつも百足の餌になっていた。あの少年が同じように招かれたとき、百足は彼も餌だと思ったようで、自ら動き出した。それは、男にとっても好都合だった。愕然とその場に立ち尽くした司祭の前に、男は再び姿を出した。
そして男は司祭に質問を投げかける。
「部位を差し出して彼を救うか。彼を差し出して、ラウエルの住民を救うか。どちらを選ぶ」
前者を取れば、それは魔物との約束を反故にすることになり、司祭は呪いに浸食されたのち、近いうちに非業の死を遂げる。後者を取れば、しばらくの間百足は大人しくなり、司祭の身の安全もその間は確保される。しかし、司祭が少年を犠牲にして助かろうとするような人間ではないことを、男は見抜いていた。聖ナサニエル大聖堂で垣間見た、二人のやり取りが男にそう教えたのだ。
予想通り、司祭は逡巡する間もなく「あの子を助けてくれ」と懇願した。
地下室へ続く暗い階段の下から、何かが暴れ狂う荒々しい音が響いていた。地震が起きているかのように、激しく地が揺れている。下るにつれて少しずつ漂ってくる濃厚な血の臭いに、男は無意識に舌なめずりをした。空腹を訴える身体の声を無視して、背後から近付いてくる足音に振り向いた。
大きく肩で息をした司祭が、震える手で木箱を差し出していた。蓋を開ければ、紺色の布が入っていて、それを広げると中には赤金色の目玉が納められていた。
「大聖堂にある部位は、それだけだ。もう何もない。早く彼のもとへ向かってくれ!」
半ば叫ぶように烈しく懇願する司祭の姿を見て、男はふと、自分の顔に巻かれた包帯に手を当てた。顔に広がるケロイドが、僅かに疼いたような気がした。
蹴り破った扉の向こう側は、密閉されていたこともあって、吐瀉と血の臭い。そして、腐乱した肉の臭いが充満していて、尋常ではない異臭で満ち満ちていた……
部位を奪うだけなら、このような回りくどいことをする必要などない。聖ナサニエル大聖堂に入った時点で、そこにいる人間を全て斬り殺せば良い。その方がずっと早い。例え討伐隊が現れようとも、少なくともこの少女が本気を出せば、全滅させることにそう時間は掛からない。そう考えつつも、男が少女に打診しなかったのは、
「その方が面白いでしょう」
そう言いながら少女が浮かべた、屈託のない笑顔は記憶に新しい。
「もうこれもいらないな」
少女がやや乱雑に白いマントを脱ぎ棄てる。荒野に落ちたマントを、踏み付けながら先へ行く。足跡の付いた、汚れた白いマントを見下ろした。このマントの持ち主だった少年の顔も名前も、男はもう思い出せない。ただ、現代の英雄とは思えないほどに、みっともなく泣きながら命乞いをする姿と声だけが、ぼんやりと浮かび上がろうとする。しかし、その姿もまともに固められないうちに、どこかへと消え去ってしまった。
魔物に縋れば、その先に訪れる未来は破滅だけだ。
「ディック遅い! 早く、早く! 門が開いちゃう!」
少女が随分先から呼んでくる。ディックはマントを避けて、彼女のもとへ歩みを進めた。
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