秘匿-1
狂気は炎なり。
燃えしよりには遅し。二度と消ゆることはあらず。
その炎は人知れず、焼き尽くしぬるものなり。
《現代語訳》
狂気とは炎のことである。
燃えてしまってはもう遅い。二度と消えることはない。
その炎は誰に知られることもなく、焼き尽くしてしまうものだ。
『ルーク正教教典 三八〇頁、ライリーの言葉』
ラウエルがある山の麓では、色褪せた草原が広がりっている。この辺りはプリシラ平原と呼ばれており、そこを山方面へ進んで行くと、少しずつ岩が点在するようになり、山へ入り込んでいけば、高地に行くにつれて岩肌が剥き身の場所が多くなる。場所によっては傾斜が強く、うっかりすると転がり落ちそうなほど足場が悪く、ラウエルを訪れる巡礼者が時々足を滑らせ、滑落して命を落とすこともよくある話だった。
馬を駆る
ペンブルックシア修道院の敷地内に入ってから、ルドベキアは黒鹿毛の馬から降り、ここまでの長旅を支えた彼を労わるように、その首を軽く撫でてやる。すると彼は大きな顔をこちらに向けて、厚い皮の手袋を嵌めた手に、その鼻先を押し付けてきた。
ペンブルックシア修道院の敷地内。水浴びや洗濯をするための井戸を通り過ぎた先に、古い厩舎があった。そこには教会が管理する雄馬がおり、藁に染み付いた糞尿の臭いや、獣臭さが充満している。騒ぎながら、数人の少年たちがその厩舎から飛び出してきた。短小矮躯で痩せっぽち。加えて見覚えのない顔立ち。ラウエルを出ている間に、徴収された新人だとも思えたが、ルドベキア自身人の顔を覚えるのは得意ではない。特に声を掛ける用もなく、そのまま無視を決め込んでいたのだが、あどけなさが拭い切れない少年たちが足を止め、こちらを見るや、目上の者にそうするように、揃って頭を垂れた。それを見て、ルドベキアは不愉快そうに顔を歪めた。少年たちはそれにも気付かず、それぞれに名乗り始めたのだが、やはり最近入隊したばかりのようで、実戦はまだ許されず、もっぱら武器の整備や馬の世話などといった、雑用を担っているらしい。
「それでは、失礼します!」
討伐隊に入隊する者の多くは、身寄りのない少年だった。ラウエルでいえばそのほとんどが、聖ナサニエル大聖堂からほど近い場所にある、聖アイゼイヤ孤児院から徴収されている。孤児院で満十二歳を超えた年に、ルーク正教会の名のもと討伐隊が徴収に訪れる。討伐隊というものは、その仕事柄死亡率が極めて高く、常に人材不足だった。聖アイゼイヤ聖孤児院で育った子どもは、人手不足の職人や商人のもとに働き手として、或いはそれなりに裕福や家庭に、家事使用人として引き取られ、中にはペンブルックシア修道院で、修道士として修業する道を選ぶ者もいる。その中で、自ら希望した子どもや引き取り手が見つからなかった子どもが、討伐隊へと入隊していた。
かつて英雄に貢献し、その力を貸し与えたと伝わる精霊を象った像や、華美な装飾が施された円柱が並ぶ回廊を歩いていたルドベキアは、中庭を挟んだ向こう側に、親友のリアトリスを見つけた。大きな木箱を二つ重ねて、いつになくゆっくりと歩いている。彼はこちらに気付くこともなく、そのまま回廊を横切ろうとしていたのだが、不意に腰を折り曲げて、そのまましゃがみ込んだ。植え込まれた低木でその姿が隠れてしまう。様子がおかしいことを感じたルドベキアは、中庭を横断してリアトリスのもとへ向かう。蹲ったまま動かない彼の背後から近付き、呼び慣れたあだ名と共にその肩を叩くと、彼は目に見えて肩を震わせた。
「ああ……ルド」
碧色の瞳に浮かんでいた怯えの色が、すぐさま安堵へと移り変わる。「おかえり」と言いながら、リアトリスは僅かに眉を潜めながら立ち上がった。
「大丈夫か?」
溜息のように、大きく息を吐いたリアトリスが語ったのは、つい先日魔物がラウエルに現れ、その際に、脇腹を食い千切られてしまったということだった。骨や内臓にまで、その牙が達することがなかったのは、不幸中の幸いともいえる。しかし、食い千切られた肉の再生には、まだまだ時間が掛かる。傷口は膿み、時々血を伴って包帯をすぐに汚してしまい、頻繁に焼け付くような痛みは訪れ、そのたび歩行や日常的な生活を阻害する。
「こうやってさ。しばらく座っていたら、マシになるんだよ」
「いや、普通に休んでいた方が良いんじゃない?」
「吐き気が止まらなくて、結構熱も出たし、一週間は休んだよ。今は、全く動けないわけじゃないし、やることはたくさんあるから」
自分の足で立って動けるのなら、動いていた方がいい。リアトリスはそう続けた。
リアトリスが、聖ナサニエル大聖堂の前に捨てられていたという話は、聖アイゼイヤ孤児院にいた頃、彼自身の口から聞いた話だ。彼を拾ったのはピッチャー司祭で、教会はその小さな命を救い、生かし、人間らしい生活を送れるように、救いの手を差し伸ばした。言うなれば、リアトリスは教会のお陰で生き永らえ、教会に命を救われたともいえる。
ルドベキアは、リアトリスとは聖アイゼイヤ孤児院にいた頃からの仲であり、かれこれ十年来の付き合いとなる、幼友達だった。彼は真面目ゆえに、頑固な面を持ちながらも、その性質は穏やかで優しさの目立つ、気の良い親友であった。しかし、時々そのようなこのような思考を吐露することがあった。
家族と死に別れてから、聖アイゼイヤ孤児院に身を寄せたルドベキアと異なり、リアトリスは物心が付くずっと前から、そこにいた。聖アイゼイヤ孤児院はルーク正教会が管理する施設であり、その生活というものは、ペンブルックシア修道院と殆ど変わらないものだった。院内には多くの修道女がいて、彼女たちとルーク正教を学び、祈りを捧げ、農作などを手伝った。孤児院には似たような子どもが何人もいた。その中でリアトリスは、乾いた布が水を吸うように、教会が提唱する教えや道徳心といったものを、余すことなく吸収して育ってきたのだということを、この長い付き合いの中で、ルドベキアは嫌というほど何度も感じてきた。ひどい言い方をすれば、洗脳されているのではないかと、そう思うこともある。彼が特にそれを感じるのは、「救われたこの命は教会のために使うべきだ」と、リアトリスが口癖のようにそう言ったときだ。
ルーク正教会は人々の心の拠り所であり、いつ頃からその教義が設立されたかは定かではないが、フラウステッド王国で暮らす王国民の八割が信仰心を抱く、一大宗派だった。人々の生活の基盤であり、ルドベキアにしても正教を軽んじるわけでも、非難するつもりもない。
多少違和感を覚えるほどの危うい心情を掲げるリアトリスに対し、いくら気が置けない仲とはいえ、そのような無粋なことを言えるほどの無神経さを、ルドベキアは持ち合わせておらず、
「はいはい、相変わらず真面目なことで。見習いたいもんですよ」
そう軽口を叩けば、ようやくリアトリスは「思ってもないくせに」と、小さく笑った。
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