背信-8

 リアトリスが告発し、ラウエルを含む周辺教区を纏めるヘリオ司教へと話が届き、それはペンブルックシア修道院を含めた、教会関係者の中に戦慄が走らせた。その後、そう時間を待たずしてピッチャー司祭は聖職を解かれ、聖ナサニエル大聖堂の地下に作られた地下牢へと収容された。後から知ったことだが、百足のいた司祭館の地下室には、多数の人骨が転がっていたという。

 あの後、リアトリスは数日の間、高熱と激しい嘔吐に襲われていた。恐らく魔物の毒による症状だろうと、ペンブルックシア修道院の病室で療養しており、ようやく動けるようになった時には、ピッチャー司祭の処遇を決める裁判が明日に迫っていた。

 ルーク正教会の司祭が魔物と取引を交わし、多くの人間を犠牲にしていたことを、教会側は市民に公表しなかった。そして、ペンブルックシア修道院の修道士や討伐隊を含む関係者全員に、強い緘口令が布かれた。近いうちに新しい司教が就任するらしい。

 そのような話を聞いたリアトリスは今、ピッチャー司祭が収容された地下牢にいる。脱走を防止するため、鉄格子が嵌められた小さな窓があるとはいえ、地下に作られた部屋であり、通気性も悪く、薄暗くじめじめとしており、全体的にかび臭い。ほとんど土が剥き出しの壁には、僅かな松明が取り付けられており、錆の付いた檻の向こう側では、簡素な木製の椅子に腰を下ろし、木と鉄で作られた手錠を嵌められたピッチャー元司祭がいる。木組みを上下で挟み込み、側面についた鍵をかける形状の手錠からは、枯れ枝のように痩せた老人の腕が見えた。目元を黒い布で覆われるその姿は、まさしく罪人のそれであり、リアトリスは顔を歪めた。

「司祭様」

 静かに呼びかけると、ピッチャー元司祭が僅かに顔をあげた。

「その声は……リアトリスだな。私はもう、司祭ではないのだ」

「では、ピッチャー様」

「聖職を解かれ、罪人となった私には、もう名前など無いのだよ」

「それなら……」

 相応しい呼び方が分からず、黙ってしまったリアトリスに、名前の無い老人が口元に乾いた笑みを浮かべた。

「よく、ここに通してもらえたものだ」

 リアトリスは腰に下げた小型の銃に触れる。魔物との取引とは、強姦や放火、殺人以上の大罪であった。魔物と取引を交わした人間には、様々な呪いが降りかかる。その中でも教会が最も恐れるのは、取引を交わした人間が魔物に転じることだった。「万が一、そうしたことがあれば射殺せよ」と、地下牢に降りる前に、クフェアから託された言葉を思い出す。老人が魔物に転じた事態に備え、地下牢の入り口には数名の討伐隊員が控えていた。

「何か、話があるのかね」

 老人の声に、リアトリスは顔をあげた。熱を帯びて傷みを訴える傷口を気遣いながら、リアトリスは口を開いた。

「本当に魔物が、約束を守ると思っていたのですか」

「……私は、浅はかだったのだ」

 薄暗い地下牢に、老人のぽつぽつとした声が静かに反響した。

「魔物が人との約束を、守るはずがない。しかし、あの魔物の言葉を私は信じてしまった。私は……」

 そこで老人は、「いや」とかぶりを振った。

「今となっては、言い訳だ」

 弱々しいその声は、地下牢の壁に吸い込まれていく。彼は弱かったのだ。司祭と信徒では、立場は対等ではない。司祭は人間であり、英雄でもまして神でもない。人々の迷いや悩みに、真摯に向き合う彼は、多くの人々を救ってきた。しかし彼に向き合い、彼の心を救う人間は一人もいなかった。

 その弱った心に付け込み、言葉巧みに彼を唆し、魔物は教会を穢した。

 もっと彼に寄り添っていれば、何か変わっていたのだろうか。そんな悔恨かいこんの情が、リアトリスの中に湧き上がる。表情を曇らせたリアトリスは、不意に呻き声を聞いた。はっと顔をあげて彼を見れば、老人は拘束された両手を動かして、気が触れたかのように顔を擦っている。呻き声は次第に叫び声へと変わり、何かに取り憑かれたかのように仰け反り、逃れるかのように藻掻いている。尋常ではないその様子を眺めていたリアトリスは、ようやく我に返り、

「司祭様! どうなさいましたか!」

 鉄格子を掴み、大きな声で呼びかけたが、老人は両手で顔を掻き毟り、叫ぶばかりで、こちらの呼びかけに応じる気配がない。

「誰か! 誰か……!」

 様子がおかしいことに狼狽し、人を呼びにいくために、リアトリスは老人に背を向けて、階段を駆け上がった。実際にはそう素早く動くことは出来ず、ふらふらと数段上ったところで、リアトリスはひどくしゃがれた声を聞いた。何かを喉に詰まらせたような、ほとんど聞き取ることも出来ない、呻きにも似た声だったが、名前を呼んだことは、辛うじて理解できた。

 振り向いた視線の先、碧色の瞳で捉えた老人の姿に、リアトリスは息を呑み、硬直したように動けなくなった。呼吸することすらも忘れ、そのおぞましい姿から碧色の瞳を逸らすことすら出来ない。老人の耳、鼻の孔、眼窩、口。ありとあらゆる穴から、夥しい数の小さな百足が這い出し、老人の身体を覆い尽くしていた。多数の百足がひしめき合い、その足や身体をぶつけあっているのか、這い回る耳障りで気味の悪い音が響いている。その音に交じって、苦痛に呻く声が微かに聞こえていた。言葉にもならない声をあげながら、老人は百足を払いのけようとしているが、全く効果が見られない。

「ああ……誰か、誰か来て!」

 顔や指先から、一気に血の気が引いていくのを感じながら、リアトリスは入口にいる討伐隊の隊員を、大きな声で呼ぶ。吐き気がぶり返した気がした。慌ただしい足音とともに、駆け下りてきた数名の隊員に交じって、様子を見に来た助祭の手から、半ばひったくるようにして、地下牢の鍵を奪った。焦りからもたつく手に、苛立ちを感じながらようやく鍵を開ける。背後から、仲間が何か叫んでいるが、まるで耳に入ってこない。言葉として認識するよりも前に、転がり込むように牢獄に入ったリアトリスは、銃を引き抜くと、その銃身で百足を払い落とそうとする。

「司祭様!」

 何度も大声で名前を呼びながら、夢中で百足を払い続けていたリアトリスは、不意に手に鋭い痛みが走って、反射的に手を引っ込めてしまい、その拍子に銃を取り落としてしまう。見れば、右手が赤く腫れ上がっていた。一瞬、百足に刺されたのだと思ったのだが、よくよく見ると、そこに人間に噛まれたような、規則正しく並んだ歯形が手の甲と掌に付いている。

 恐る恐るといったように、リアトリスは老人を這う百足を見た。百足の頭には、恐怖に引き攣る人間の顔が浮かび上がり、呻くように、嘆くように大きく口を歪めたそれらは、錯覚というにはあまりにも生々しい。

 リアトリスは牢の中をぐるりと見渡した。老人にだけではなく、夥しいほどの百足が、床や壁にも這い回っている。地下奥深くから響くような、不気味な叫びの中に、老人の声をあげているのを聞いた。視線を戻した老人は、もはや原型が分からないほどに、百足に群がられており、それでもよろめきながら、呻きながらこちらに一歩ずつ近付いてくる。足がもつれたのか、老人はその場に倒れ込む。その一瞬だけ、その身体を這い回っていた百足が彼から離れた。小さな百足を落としながら、老人がゆっくりと立ち上がった。

 その皮膚は捲れ、赤い肉や筋肉の筋などが、丸見えとなっていた。頬肉が削げ落ち、歯茎や歯が露出していた。這い回り、隙間から這い出す百足の頭が小さく揺れているのは、彼の肉を齧り取っていたからだ。暗い眼窩から零れ落ちた眼球が、神経と繋がったままぶらぶらと揺れている。もはや言葉にも声にもならないものをあげながら、こちらに必死に伸ばす腕は、滲み出る血で赤く染まり、白い筋や肉片が垂れ下がっていた。老人はだらりと、リアトリスに手を伸ばしている。

 開いた口に、百足が入り込んでいく様が見えた。その奥から、搾り出すような声が届く。

「リアトリス……」

 助けを求めるように伸ばされた手を、リアトリスは掴むことを躊躇した。

 その瞬間、彼の口から再び百足が吐き出された。まるで嘔吐するかのように、百足が次から次へと這い出して来る。百足たちがひしめき合う音の中で、肉を食い千切る音が混じり合い、その中で聞こえていた老人の悲鳴が、どんどんか細くなり、小さくなり、遂には何も聞こえなくなった。人のような形に群がる百足が、ひたすら蠢く音だけが地下牢に響いた。

 異様な光景に、リアトリスも含めてその場にいた討伐隊の人間は、誰一人としてまともに動くことも出来ないでいた。老人の声が聞こえなくなってからほどなくして、あれだけいた百足たちがが散らばるように、四方八方へ散っていく。静かになった地下牢の中に残っていたのは、僅かに残った頭皮と髪が付いた頭蓋骨と、肉片が付いた骨の残骸。そして、老人が纏っていた血染めの衣類。頭蓋骨の眼窩から這い出した百足が、リアトリスの足元を横切っていく。

「ああ……」

 リアトリスは顔を覆い、その場に崩れるようにして膝を付く。慟哭にも似た声が、喉の奥から溢れ出した。

 おまえは何故、伸ばされた手を掴まなかったのだ!

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