背信-7
他の地域の例に漏れず、ラウエルの周辺にも魔物は多く生息し、闊歩していた。護りから外れた外の世界は、常に死を濃厚に感じる世界へと転じている。日々英雄への祈りを捧げることで、町の護りは強化していたが、それは長い目で見れば焼け石に水でしかない。例え英雄所縁の聖なる都市とはいえ、人々は長年魔物の脅威に晒されている。
魔物が町の中に外から入ることは出来ないとされていたが、内側から招き入れることは可能だった。もっと言えば、人が触れていれば魔物は容易に入り込むことが出来た。それは、討伐隊が外から持ち帰ってくる魔力結晶が、良い例となる。そして、そうした被害は時々あった。
魔物崇拝者、黒の式典などと呼ばれる邪教による集会は、古くからたびたび行われていた。彼らが招き入れた魔物が町に溢れることもあれば、魔物と約束を結んだ人間が魔物へと転じ、理性も知性も失われ、暴虐の限りを尽くす事例もあった。そのたびラウエルの住民たちは不安に駆られ、その恐怖は瞬く間に伝染した。信仰心の薄れは護りの薄れとなる。そうならないために、人々を叱咤激励し、希望の火を絶やさぬよう導き、教えを説くのがルーク正教会の聖職者の役目であった。司教や司祭といった役職に就く者は、その役目を全うし、長年悩み迷う人々の心に寄り添ってきた。しかし、彼らは人々と英雄を繋ぐ仲介人のようなものであり、けっして英雄でも神でもない。大聖堂は救いを求める人間で溢れ、時にはやり場のない憤りの矛先になることもあった。
「私たちは、おまえたちが人間であることを知っているが、人々は討伐隊の人間を、自分たちを護る盾であると捉えている。無論、そう思わない者もいるだろう。しかし、やはり彼らにとって討伐隊や正教会とは、自分たちを護ってくれる救い主なのだ」
ピッチャー司祭は力なく語っていた。その横顔からは、普段感じる威厳や穏やかさなどは、露ほども感じられず、リアトリスには随分と年老いて見えた。
「討伐隊は、命を懸けて魔物と戦っている。彼らも人間なのだから、時には悲しくも散ってしまうこともある。そこに哀悼の念を抱くことはあっても、非難することはあってはならない。しかし、時に討伐隊の訃報や部隊の壊滅などが起これば、人々は大きく落胆する」
戦う術のない市民にとって、それは耐え難い恐怖であり、苦痛であった。そしてそのような悪い話が続いていると、次第に市民から正教会への信頼は下がっていく。本当に自分たちを護ってくれるのか、教会は救ってくれるのか。そんな不信感が強くなれば、いくら正教会が日々祈りを捧げていても、町の護りというのは弱ってしまう。そして、そんな頃合いを見計らって襲ってくるのが、魔物であった。そうした悪循環が、人知れず蔓延っている。
「このままでは町も住民たちも、護ることは出来ない。そんな時だ。丁度三か月前……、私は魔物と出会った」
それは、今にも息絶えようとしていた、身体のほとんどが崩れた小さな百足の魔物だった。身体から魔力結晶が飛び出していて、絡みつく肉片の中で、心臓のように強く脈打っていた。どうやって護りをくぐり抜けたのかは定かでなかったが、放置しておくわけにもいかなかった。とどめを刺そうとしたピッチャー司祭に、百足は頭をもたげたかと思うと、
「ここで見逃してくださるのなら、私がこの町を、他の魔物から護りましょう」
どこからか、そんな声が聞こえてきたという。
「司祭様は、その言葉を鵜呑みになさったのですか」
「魔物の襲撃や被害というものは、英雄様がおられた時からずっと続く日常だ。いや、日常にしてはいけない、有り触れたものだった。それでもここ最近は特に顕著だった。討伐隊が、夜中に何度も駆り出されるほどに」
それはリアトリスにも身に覚えがあった。三か月前から、別の討伐に狩り出されるまで、何度か呼び起こされ、ラウエルに接近する魔物の駆除を行ったのだ。あまりに頻繁で、特に若い隊員が寝不足などで不平を漏らす場面を、何度か見たことがある。
「人々も不安に駆られていた。魔物に対する恐怖心は、誰もが持っている。それを克服出来る者など、一人だっていやしない。不安と恐怖に苛まれ、いつか護りを抜けてラウエルが地獄になるのではないかと、集団恐慌に陥ることもままあった」
そのたび教典の内容を語り、引用し、教えを説きながら人々を宥めていた。しかし、抗えない恐怖の前では、人はどこまでも愚かで無力となる。
「私は、口に出すことはおろか……けっして、抱えてはいけない思いを抱いてしまった。祈りを捧げ、それでも減らない被害。繰り返される魔物の蛮行。恐怖と悲痛に苦しむ人々が、こんなにも多いというのに、こんなにも我々は英雄様方のために、日々祈り続けているというのに……」
ピッチャー司祭の声音は震えていた。
「何故、あなた方は救いをもたらしてくださらないのですか、と」
「英雄様を、疑ってしまったのですか」
汚らわしく、醜いものを侮辱するような自分の声に驚き、リアトリスは口を押えた。ピッチャー司祭の告白は続く。
目には目を、歯には歯をといった言葉があるように、強大な力から身を護るためには、その強大な力に抗うだけの力が必要だった。人の祈りだけでは不足する部分を、魔物の力で補えるのならば。本当に町を護ってくれるのならば。これ以上、民心の心が不安に曇らないのであれば。
ピッチャー司祭は、百足にとどめを刺すことをしなかった。代わりに、その小さな百足を両手に乗せて運び出すと、この司祭館の地下室に匿った。餌が欲しいとねだる百足に、彼が最初に与えたのは、小さな獣や鳥だった。罠にかかった野鼠や、怪我をして飛べなくなった鳥など、百足は貪欲になんでも食べた。そうしてあらかた体力を回復した頃、次に百足は「力が欲しい」と言い出した。
「司祭様、まさか……」
魔物が欲しがる力など、リアトリスが思いつく限りでは一つしかない。ピッチャー司祭は、「そうだ」と力なく肯定した。
「おまえたちが身を賭して戦い、討伐した魔物から取り上げた魔力結晶だ。本来ならば、清めたのちに然るべき処理をするべきものを、私はこの魔物へと与えたのだ」
「それが、魔物にどのような影響を与えるのか、ご存知のはずでしょう……」
魔力結晶とは、存在する魔物の全てが持つ力の源であり、その姿形を保つために必要な、核とも呼べるものだった。魔物たちは魔力結晶があることで、強力な魔法を扱い、凄まじい速度で傷を再生することが可能となる。魔物にとって肉体はそう重要なものではない。魔力結晶さえあれば、例え首が落ちても肉塊にまで潰されても、幾らでもその肉体を作り直すことが出来る。逆に言えば、修復が不可能なほどの傷を負った魔物は、その肉体から魔力が徐々に抜け落ちて、やがては魔力結晶だけを落として、肉片一つ残さずに消失する。残された魔力結晶は、完全に魔力が消失しているわけではなく、ほとんど残滓と化したものだった。しかしその残りかすでさえも、生存する魔物にとっては重要なものとなる。魔力結晶を他の魔物が取り込めば、それは魔力の増幅とともに、消失した魔物の能力を引き継ぐことが出来るからだ。そして保有する魔力結晶が大きければ大きいほど、魔物の持つ力というものは増幅した。
討伐隊が持ち帰った魔力結晶を、ピッチャー司祭はそのまま地下室へと運び込んだ。与えた魔力結晶を、百足は次々と平らげた。暴食に耽るうちに、百足はどんどんと大きくなり、気が付けばこの地下室一帯を、埋め尽くすほどの巨体へと変貌していた。少し身じろぎするだけで石壁を圧迫し、地を揺らした。あの揺れは、この巨大な百足が引き起こしていたものだったのだと、リアトリスは理解した。その百足は執拗に赤い髪の男を追い回し、噛み付こうと躍起になっているようだったが、捕らえることができずにいる。
「そして傷を癒し、力を蓄えた百足は、私に取引を持ち掛けてきた。魔物から町を護る代わりの対価を捧げよ、と」
「だから、代わりに信徒を差し出したのですか?」
修道士や信徒ならば、適当な人間に適当な理由を付ければ、簡単に呼び出すことが出来た。彼らはけっして、ピッチャー司祭を疑うこともなく、不審に思うこともなく、素直に呼び出しに応じた。そうしてやってきた彼らを地下室に連れ出し、外から鍵をかけるだけの作業だった。重たく閉ざされた扉を叩き、助けを求めて泣き叫び吠える声が、残響となって耳に届いた。
それが、この三か月の間繰り返されてきた。
「町を護るために、人を魔物の贄に差し出すなんて、それはもう……」
続く言葉がどうしても言えず、口籠るリアトリスに、ピッチャー司祭も何も言わず、俯いたままだ。くつくつとした、喉の奥から搾り出すような笑い声とともに、肉が叩き付けられるような、気味の悪い音が響いた。辺りを見渡すと、黒い煙のような靄を纏った百足の巨大な頭部が、すぐ傍に転がっていた。顎肢が力なく動いている。
「そうだ。祈る対象を我らに変え、人間を差し出したその男は、もはや聖職者などではない」
どこからか聞こえてくるその言葉は、まるで鉛のような重たさでリアトリスを襲う。
「追い詰められ切羽詰まった人間は、いつの時代も、いとも容易くこちら側に都合良く動いてくれる。目の前にただ一つの道筋を差し出せば、それが例えまやかしであろうとも、人間は飛びつかずにはいられない」
振り下ろされた剣が、百足の頭部に突き刺さった。まるで血飛沫のような勢いで、黒い煙が吹きあがる。時々暗い光を纏いながら、周囲に漂うそれが、可視化した魔力であることを、リアトリスは理解する。百足は少しずつ、その身体を塵芥へと変えていきながらも、嘲るような雰囲気を声音に乗せて、言葉を投げかけてきた。
「我々と取引を交わし、約束を結んだ人間は、けっして穏やかな死を迎えることはない……例え我らが滅びたとしても、おまえたちが背負った咎は、けっしておまえたちを逃がさない」
覚悟せよ。最期に呪詛の言葉を残して、百足は塵一つ残さず消失した。
その場には、リアトリスとピッチャー司祭、そして赤髪の男だけが残る。不規則に、瞬くような光を放ちながら、残された魔力結晶を拾い上げた男は、当然のようにそれを懐に仕舞った。一瞬、こちらを見下ろす彼の瞳が、赤い光を帯びていたように見えたが、燭台の炎によるものだろうと、リアトリスはかぶりを振る。なんてことはない。どこまでも暗く、一点の光すら見えない緑色の瞳だった。
そこでリアトリスは、まだ彼に礼を言えていないことを思い出した。
「ありがとうございました」
対して彼は口を開くことも、唇を綻ばせることもなく、剣を鞘に納めると、再びフードを目深に被り直し、こちらを一瞥することもなく、地下室かで出て行ってしまう。足音が少しずつ遠ざかり、しんとした地下室に、ピッチャー司祭と二人。気まずい空気だけが漂った。
「……司祭様は……」
重たい沈黙を先に破ったのは、リアトリスの方だった。
「何人もの人を贄にしながら、何故、オレの時は助けたんですか」
砕けた口調で言ってしまってから、リアトリスは「ああ」と溜息を吐く。地下室に飛び込んできてから、ピッチャー司祭は開口一番に、「大丈夫か」と尋ねてきた。それは彼の本心から出たものだと、リアトリスはそう思わずにはいられない。
しかし、問いかけに対するピッチャー司祭からの返答はなかった。
「司祭様」
再度リアトリスは呼びかける。ピッチャー司祭はゆっくりと、暗く沈んだ視線だけを投げてきた。
「私は、あなたを告発します」
告発された者がどうなるのか、リアトリスは知っている。それが聖職者であった場合、神職を解かれたうえで、裁判へとかけられる。裁判はやがて異端審問へと移るのだが、異端審問とはそれが事実であれ無実であれ、どちらにしても死刑確定の名ばかりの裁判だった。聞いた話では、異端審問で有罪が確定した罪人は、俗世の貴族たちに引き取られ、甚振られ、娯楽として処刑されるという。
リアトリスはピッチャー司祭に、多大な恩義があった。しかし、それでも彼の犯行というものは、到底目を瞑ることが出来ないものだった。
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