背信-6
深淵に滑り落ちていたリアトリスの意識が、湖面に浮かぶ泡のように不意に浮上した。混濁する意識の中、熱を帯びた激しい痛みを覚えて反射的に頭に手をやれば、嫌な温かさとともにぬるりと掌が濡れた。意識を取り戻したことを理解した身体が、至るところの痛みを訴えてくる。恐らく、落ちてきたときに開いたと思われる穴から、細く頼りない明かりが見える。その細々とした灯りは弱過ぎて、ここまで届かない。
司祭館で遭遇した、巨大な百足の記憶を遡りながら、立ち上がろうとしたリアトリスは、何か重たいものを引き摺るような音が、前方から響いてくることに気付いた。時々硬いものを引っかくような、耳障りな音も聞こえてくる。未だはっきりと覚醒しない頭を働かせ、よろめきながら、壁に手をつきながら、なんとか立ち上がった時。ざらりと手にくっつくような硬い質感のそれが、壁ではないことに気付いた。状況が良いわけではけっしてない。押し迫る殺気を痛いほどに感じて、半ば転ぶように、咄嗟に駆けだしたリアトリスの背後で、何かが衝突する轟音が響いた。その衝撃で地が大きく揺れ、足を取られて転倒してしまう。頭上からぱらぱらと落ちてくるものは、小さな砂や小石だ。立ち上がろうとした瞬間、何かが足に噛み付いてきて怖気を感じた。鋭利なものが、ゆっくりと左足に突き刺さっていく感覚と共に、そこを中心として今度は全体に熱を帯びていく。暗がりの中ではよく分からないが、今襲い掛かってきているのは、あの巨大な百足なのだとリアトリスは感付いた。いくら引き抜こうと引っ張っても、相手はがっちりと牙を突き立てていて抜けそうにない。そこで、噛み付いている頭を自由の効く右足で、何度も力いっぱい蹴り続けて、ようやく引き剥がすことに成功した。今のうちに距離を取らなければと、激しい痛みを覚え始めた足を引き摺りながら、立ち上がったリアトリスは、とにかくここから出なければと動き出す。しかし、明かりも届かない見通しの悪い界の中で、出口を探すことは容易ではない。壁を手で伝いながら、扉らしいものや壁の切れ目を探してみるが、ここは想像しているよりも広いようで、なかなか見当たらない。
銃が手元にないことは、強い恐怖を抱かせるには充分過ぎる理由だった。武器が無ければ、例えどれほど魔物の知識や戦闘の心得があろうと、人は一方的に蹂躙されるだけの、脆く弱い獲物でしかない。リアトリス自身、これまで何度も凄惨な現場や遺体を目にしてきた。魔物は一思いに人間を殺すことは稀で、その多くは面白おかしく甚振り、嬲り殺している。
重い風邪を引いたときのような寒気を感じた。手足が小刻みに震え始め、視界が回るような感覚に陥った。激しい眩暈は吐き気を伴わせる。息苦しささえ感じた。次々と波のように押し寄せる悪心に、喉が開いたような感覚ののち、とうとう溜まらずその場に吐いてしまう。饐えた臭いが立ち込めて、息を整える間もなくまたその場に吐いてしまう。鼻がつんと痛み、胃液なのか鼻水なのか分からないが、何か液体が流れているのが分かった。
足に力が入らず、そのまま崩れてしまいそうになるのを、リアトリスは気力だけを頼りに、なんとか防いでいた。状況は悪化の一途を辿っている。よろめきながら進んでいたリアトリスは、何かに躓いて派手に転んだ。何かが砕け、割れる音がした。立たなければ、立たなければと気持ちばかりが焦って、四肢に思うように力が入らない。冬場ということを除いても手の指先は痺れが強く、硬い床に触れていても感覚がよく分からない。
リアトリスが立ち上がるよりも早く、今度は脇腹に鋭い痛みが走った。一瞬焼かれるような熱さを感じたのち、それはすぐに激痛へと転化して、断続的に襲いかかるその痛みに紛れて、溢れるように流れ出した血を、身に纏う衣類が吸い込んで、ぴったりと肌にくっついてくるのが分かった。そしてリアトリスは、噛みついてきた百足が自身を持ち上げていることに気付く。肉を抉るように、鋭利な牙が深々と突き刺さっていくのを感じた。激痛と貧血で今にも途切れそうな意識にしがみ付きながら、どうにか抗おうとして、身を起こそうとしたところで、硬いものがぶつかり合う嫌な音を聞いた。恐怖さえ感じる浮遊感を覚えた直後、硬く冷たい床に叩き付けられ、特に強く打ち付けた脇腹を反射的に抑えながら、思わず呻いた。恐らく食い千切られてしまった患部は、焼かれているような熱を帯びていて、不快なほどに張り付いた衣類の繊維が擦れ、余計な痛みを植え付ける。出血を抑えようとする手には、絶望的なほどに力が入らない。上手く肺に空気が入っていないのか、息苦しさに喘ぐ。
その間にも風を切るような音と共に、百足が猛烈な勢いで迫ってくるのを感じた。立つことも儘ならず、這うように逃れようとするリアトリスの耳に、凄まじい轟音が飛び込んできた。間髪入れず、間に滑り込んできた何かが、甲高い音を立てて迫りくるそれを弾き返す。真っ暗な闇の中に迸った火花の中で、血潮のような赤い髪が踊っていた。続いて手持ち燭台を手にしたピッチャー司祭が、ぐるぐると回る視界に映り込んだ。
「大丈夫か! しっかりしなさい!」
大きな声で呼びかけるピッチャー司祭は、傍らに手持ち燭台を置いて、リアトリスを抱え起こした。薄く骨ばった掌を肩に感じながら、リアトリスはやっとのことで息を吐く。彼の手はひんやりとしていて、発熱を起こしたように熱さを感じていたリアトリスは、それに心地よさと安堵を覚えていた。
小さな灯りだったが、燭台の火によってようやくリアトリスは、何が起こっていたのかが分かった。眼前にいたのは、やはり司祭館で見た巨大な百足で、その頭がこちらを向いていた。自身とその百足の間に立っていたのは、古びたマントと使い込まれた剣を構えた、名も知らないあの赤い髪の男だった。ピッチャー司祭が現れた方向に視線を向ければ、鉄の扉が木っ端微塵に崩れている。
「司祭様……」
再びせり上がる吐き気に、リアトリスは咄嗟に口を手で覆った。先ほどまでのような勢いで、吐瀉物が出ることはなかったが、掌の中に生暖かい液体が零れたのが分かる。指の間を縫うようにして流れ出たものは、黄色く薄い膜のようなもので、それが自分の服だけではなく、ピッチャー司祭の白い衣にも点々と染みを生んだのを見る。服を汚してしまったことを謝罪しようにも、喘息患者のような呼吸が邪魔をして、なかなか言葉が出てこない。
「気にしなくて良い。全て、私が悪かったのだ」
そう言いながら、ピッチャー司祭が背中を摩っていた。蛙のような声と一緒に胃液を吐く。百足が苛立っているように、胴体を床や壁に打ち付けていて、そのたびに地面が揺れた。その揺れが、更に気持ち悪さを誘発する。
「もう一度、魔物の前で宣誓しろ」
頭上から降りかかったのは、冷たささえ感じるほどの声だった。しっとりと濡れた碧色の目を向けた先には、こちらを見ようともしない赤い髪の男の背中がある。何のことを言われているのか、リアトリスには分からない。
彼の言葉に返答をしたのはピッチャー司祭だった。
「……私は、約束を反故にする」
彼の言葉を聞いた男は、単身百足に躍りかかった。
状態を把握しても状況が掴み取れず、リアトリスは再び男からピッチャー司祭に視線を戻した。彼もこちらを見ていて、それからゆっくりと目を伏せる。この頃には、相変わらず寒気と吐き気は止まらないが、ほんの少しだけ口を利く余裕が生まれ、リアトリスはようやく尋ねた。
「司祭様は、あの人とお知り合いだったのですか」
長い沈黙のあと、ようやくピッチャー司祭は「三か月前のことだ」と、話し始めた。
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