背信-5
リアトリスは一度ペンブルックシア修道院へ戻ったあと、食堂でいつものように静かな夕食を終え、寝室や沐浴に向かう仲間について行きながら、頃合いを見てその団体から離れた。普段は、討伐隊が使うと良い顔をされない、大聖堂へ繋がる回廊を抜け、身廊を横切って外に出た。司祭館は聖ナサニエル大聖堂から少し離れているものの、同じ敷地内に建てられている。
館といっても、貴族諸侯の暮らすような豪華なものではなく、部屋数は市民の家と比べれば多いが、それも修道士などが集まるための部屋や管理事務を行う部屋など、いわゆる仕事部屋といったものが多く、司祭自体の個人部屋は数えるほどもなかった。
司祭館の質素な玄関口を越えた先の、古い階段を上がった二階の突き当たり。そこがピッチャー司祭の個室だった。置いてある家具は、木目がはっきりと見える小さな執務用の机と椅子、そしてチェストが一つのみ。黒い暖炉の中には薪がくべられ、室内を赤々と照らしている。
時折薪が爆ぜる音がする中で、リアトリスはようやく口を開いた。
「これは、憶測でしかないのですが……」
そう前置きして、ピッチャー司祭の時間をそう取らせないため、あらかじめ簡潔に纏めておいた内容を語る。
ラウエルの町は、教会の守りが働いているため、魔物は外から侵入することは出来ない。教会の姿勢からも、内側からそれらを手引きすることは無いに等しい。そう考えると、今回の失踪事件は魔物ではなく、人の手で行われたものであり、そして必ず集会があった日の夜に人が失踪するというのなら、
「これがただの思い過ごしならそれに越したことはないのです。この失踪事件には、少なからず教会の人間が、関わっているのではないかと、そう思って仕方がないのです」
リアトリスはその場に膝を付くと、手を合わせてピッチャー司祭に頭を垂れる。
「司祭様。私はとても罪深い人間です。身内を疑ってしまったのです。どうか、客観的なご意見をお聞かせください。そして、背負ったこの咎をお許しください」
暖炉の火が馳せている。くべられた薪が少しずつ変色し、音を立てながら赤い炎の中に崩れていく。しばらく返答を待っていたが、一向にピッチャー司祭からは何の反応もなく、リアトリスは瞼を開き、ピッチャー司祭を見上げた。彼はひどく狼狽していた。暖炉から漏れる炎に照らされたピッチャー司祭の顔色は、血の気が失せたように青ざめていて、老化による皮膚のたるみから下がった、瞼の内側に見える灰色の瞳には、動揺の色が走っている。
しばらくして、ようやくピッチャー司祭が重たい唇を開いた。
「おまえは、いつも素直で実直で……悪く言えば愚直だ。小さな頃から私を慕い、疑わぬその姿勢はずっと変わらない。そんなおまえを、私は愛しく思っている」
その声音はどこか嬉しそうで、それていて憐れむような雰囲気を纏わせている。彼の話は、リアトリスの話とは、全く関連が無さそうなものだった。戸惑うリアトリスの手を取り、ピッチャー司祭は立ち上がらせた。
「私は今、心からおまえを案じている」
その声は小刻みに震えていた。
「さあ、立ちなさい。そして、早くこの館から出ていきなさい」
「司祭様、それは一体どういう……」
不意に地面が激しく揺れ、リアトリスは転倒しかけたピッチャー司祭を受け止める。天上の隅から、砂のようなものが零れ落ちていて、どこからか軋むような不気味な音が響いていた。背筋が凍るような怖気は、リアトリスにとって感じ慣れたもので、思わず顔を顰めてしまう。この独特の嫌な気配のもとは想像に難くない。いつも使用している銃は、ペンブルックシア修道院の武器庫に片付けて来ている。
「ああ、もう時間がない。早く逃げなければ……」
「司祭様、早くこちらへ……」
ピッチャー司祭の手を引き、部屋を出ようとした矢先。突如その足元から、何かが飛び出してきた。黒く長い何かが、凄まじい勢いで立ち上がっている。何が起こったか理解が進むよりも前に、眼前に巨大な頭が降りた。四本の長く赤黒い触覚が、不気味に動き回っている。鋭利な刃物のような顎肢が、小刻みに動いている。節ごとに対で生えた鍵爪のような脚が、音を立てて蠢いていた。それが巨大な百足だと認識したところで、凄まじい速度で襲い掛かってきた百足に圧し潰されるように、リアトリスは砕かれた床板ごと階下に落下してしまう。音を立てながら、背中や腕といった身体のあちこちに、硬い木片や木組みがぶつかる衝撃を感じた。頭上から半ば叫ぶような、ピッチャー司祭の声がする。
星が回るような煌めきと暗闇が、交互に視界を飛び交ううちに、リアトリスの視界は完全な暗闇で閉ざされてしまった。
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