背信-4

 その夜のことだ。

 ふっと意識が浮上し、リアトリスは目を覚ました。微かに地面が揺れている。それは、集会のときと似たような揺れで、すぐに治まった。窓に嵌め込んだ鎧戸が、小刻みに音を立てて揺れている。地すべりが起こるかもしれないと思うと、ほんの少し不安にもなった。部屋の中は真っ暗で、寝る前はまだ火が灯っていた燭台も、すでに消えてしまったようだ。冷たい空気が満ちた部屋の中で、鼻先が凍り付くように冷たくなっているのを感じた。鐘の音が鳴るのはまだ先だと、リアトリスは温かい布団の中に頭まで潜り込んで、もう一度目を閉じる。そして、同室で眠っていたはずのフロックスが消えたということを知ったのは、朝を迎えてからのことだった。

 失踪事件は修道士や信徒だけではなく、とうとう討伐隊の人間にまで被害が出てしまったことは、ペンブルックシア修道院に戦慄を走らせた。何か気付いたことはないか聞かれても、リアトリスには何も答えることが出来ない。朝になって目を覚ましたとき、すでにフロックスの姿はなく、その後朝の祈りや朝食の時間を迎えても、ペンブルックシア修道院のどこにも彼の痕跡を見つけることは出来なかった。

 フロックスの失踪に後ろ髪を引かれながらも、やらなければならない仕事は山積みで、町の巡回やラウエルに近付く小さな魔物を追い払い、時には討伐し、住民が使う共同の井戸や屋根の修繕、雨が降った日には、氾濫を起こしそうな川の堤防の舗装など、奉仕活動に狩り出されるうちに、フロックスの失踪から五日が経過していた。擦れ違った隊長や副隊長の顔ぶれに、それとなく調査の進捗などを尋ねてみたが、険しい表情と濁した口ぶりから、あまり進展がないことは見て取れた。

 ペンブルックシア修道院の回廊を歩きながら、リアトリスは一人思考を巡らせていた。何か気付いたことはないか。何かこれまでになかったことはないか。うろうろと修道院内を歩き、雪や霜で白く凍り付いた中庭に出たところで、リアトリスは「あっ」と足を止めた。赤い髪の見慣れない男が脳裏を過ぎる。暗く冷たい緑の目が蘇った。

 ラウエルは四英雄しえいゆうの一人であるライリーが生涯を終えた地ということもあって、王国四大都市の一つとして名を馳せていた。危険を承知で町を飛び出し、巡行や巡礼に訪れようとする者も跡を絶たない。特に、来月には健国祭を迎えようとするこの時期には、近隣の町村から聖ナサニエル大聖堂に向かおうとする者が多くなり、護衛を引き連れて、ラウエルを訪れる行商人の数も増えている。その混乱に乗じて、人攫いが闊歩している。リアトリスは最初にそう思った。

 一週間ごとに一人ずつ消えているのなら、今もその人攫いはラウエルにいるのではないか。少なくともこの失踪事件には、あの見覚えのない赤い髪の男も絡んでいるのではないか。

 そこまで考えたところで、リアトリスは我に返った。建国祭が行われるのは、年の瀬も迫る真冬の真っただ中で、人が俄かに溢れ出すのは決まってその前月からだ。失踪事件は、更に三か月も前から始まっている。「たらればで考えてどうする」と、自身に呆れたところでリアトリスははたと気付いた。

 仮に人攫いが町にいたとして、その蛮行が繰り返されていたとして、誰にも見られずに人を攫い、何処かに隠すことは可能なのかという疑問が浮かび上がる。夜間で光源がほとんど無く、鐘の音もあって出歩く人間がほぼいないとはいえ、町に接近する魔物の危険性や、反社会的な犯罪行為の防止のため、討伐隊の誰かが毎日のように、ラウエルの中を必ず夜通し巡回している。子どもであれば、大きな袋にでも入れてしまえば多少誤魔化せるだろうが、報告にあがっている失踪者は、成人や成人間近の人間ばかりだ。そんな大きな人間一人を、全ての見張りの目を掻い潜って、どこかに連れ出すだなんてことは不可能だ。

 それなら——と、リアトリスは次に浮かんできた嫌な疑念と向き合わざるを得なくなる。

決まって、集会があった日の夜に誰かがいなくなるのなら、それは教会の人間の仕業ではないだろうか、と。


 夕闇が迫る頃。町周辺に近付いていた魔物を追い払った帰りに、リアトリスはペンブルックシア修道院へ戻ろうとする仲間と別れ、聖ナサニエル大聖堂へと再び足を運んだ。最奥に鎮座する四体の英雄像の前に膝を付くと、傍らに銃を置いて、最後に手を合わせて祈りを捧げる。彼が願うのは、フロックスを含めた行方不明者の安全だった。一刻も早く、彼らが見つかることを強く願う。しばらくそうしていると、不意に肩に手を置かれた。振り向けばピッチャー司祭が立っている。

「……司祭様」

「おまえはいつも熱心だね」

 大聖堂の中は夕闇の明かりが差し込み、ピッチャー司祭の服を、血潮のように赤く染め上げていた。閉会の時刻なのか、他には誰もいない。リアトリスは銃を取って慌てて立ち上がった。それを見たピッチャー司祭が、「そう慌てなくても良い」と静かに言う。

「まだ少し時間はあるのだから。それよりも、随分と険しい顔をしていたが、失踪者のことが気がかりかね」

「……同僚が消えてから五日経っています」

「もう、そうなるか」

「これまでに失踪した人の、消息も情報も、未だ何一つ……」

 リアトリスは言葉を区切り、改めて「司祭様」と呼びかけた。

「どうしたね」

 ピッチャー司祭が緩やかに首を傾けた。リアトリスは碧色の瞳を、まっすぐ彼に向けた。

「司祭様はいつも正しくて、公平な判断を下すお方だと思っています。ですから、この考えが正しいのかどうか、そして抱いてしまった罪を聞いていただきたいのです」

「それは、今日中でなければいけないことなのかね」

「なるべく早い方が……」

 リアトリスがそう言うと、ピッチャー司祭は逡巡するように虚空に視線を走らせた。それからほどなくして、そっとリアトリスに耳打ちをする。

「では今晩。第二の鐘が鳴る前に、司祭館しさいかんへ来なさい」


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