背信-3

 厳かに鳴り響く鐘の音に、リアトリスは目を覚ました。部屋の中には、鎧戸の隙間から漏れる細い光が差し込んでいて、その中で仄かに細かい埃が舞っている。気だるい体に鞭を打ち、リアトリスは思い切ってベッドから抜け出した。隣の上段から、フロックスの鳥の巣のような頭が見える。

「早く起きろよ」

 そう声をかけ、寝間着から教会から支給された白い装束へと手早く着替えてから、リアトリスは寝室から回廊に出た。壁の代わりに、装飾が施された円柱が延々と並ぶだけの回廊は、朝一番ということもあって、ひどく冷え込んでいた。足元から漂ってくる冷気は、布団の中で温まっていた身体を、少しずつ確実に冷やしていく。

 手を擦り合わせながら、彼が向かった先はペンブルックシア修道院の裏庭であり、そこには古い井戸が一つあった。木製のたらいや桶に冷たい水を流し込んで、すでに見知った討伐隊の何人かが身支度を整えている。突如吹き付けた強い風に、あちこちから小さな悲鳴があがった。ラウエルは、王国を両断するように聳えるザカライア山脈の中にあり、特に気候の変動などを受けやすい土地であった。上に一枚、何か引っかけて来なかったことを後悔しながら、痺れるような冷たい水で、リアトリスは素早く洗顔を済ませた。


 ペンブルックシア修道院から聖ナサニエル大聖堂へ向かう集団の中に、リアトリスも混じっていた。今日は週末で、聖ナサニエル大聖堂の周辺には、礼拝に訪れたラウエルの住民の姿が多くいた。昨晩とは打って変わり、ライリー像の付近はいつも通り賑わっている。動物の毛を織り込んだ防寒具を身に付けて、顔を切り裂くように冷たい風に顔を顰めている人だかりを、リアトリスはさっと見渡してみたが、そこに昨日見た人物らしき姿はない。

 大聖堂の最奥には、四体の巨大な英雄像が鎮座しており、その背後のステンドグラスから差し込む太陽の光に照らし出され、なんとも言えない神秘性を纏っていた。会衆席の最前列には、すでに修道士や修道女が腰を下ろしており、そこから数列間を開けた後方は、一般参列者でほとんどが埋まっている。不自然に開けられていた数列に、静寂を保ったまま討伐隊の面々が腰を下ろしてから、ほどなくして講壇にピッチャー司祭が立ち、静謐な空気の中で厳かに集会が執り行われた。

 ピッチャー司祭が祈りの言葉を紡いでいく。それが終わると、今度は教典に記された英雄の伝承を語り出す。彼はとても静かな低い声で、ゆっくりと教典の一部を朗読していた。彼が教典の内容を語る時に使う言葉は難しく、普段聞き慣れない言葉や複雑な言い回しも、よく繰り返されていた。いつも隣に座る友人は、朝が弱いことも相まってこの段階で舟を漕いでしまう。

 ひとしきり朗読を終えたところで、次にピッチャー司祭はそこまでの話を、一つ一つ分かりやすく解説し始めた。これもまた、集会で毎回のように行われるものだ。

「太古の昔。飢饉や戦、流行り病などで、人が次々と亡くなってしまった時代。今では、魔物と呼ばれるようになった魔性のものたちは、驚異的な速さで増えていきました。魔物がいかにして産まれ、そして、何故人だけを襲うのか……それは、今もなお解明されていません」

 魔物はそれまで何をしていたとしても、人間を視界に捉えた途端、襲い掛かってくる性質を持っていた。それは、特に力の弱い個体であるほどに顕著だった。そうした魔物の性質や、いつから存在していたのかなどといったものは、学者の中でも日々研究や調査、論争などが繰り広げられているが、いずれにしてもはっきりとした答えは出ていない。

四英雄しえいゆうの一人であったルーク様は、魔物が溢れ、混在とした世界を正すために、天上から遣わされた方であると、そう伝わっています。ルークとは、古い言葉で「光を運ぶ者」という意味です。フラウステッド王国の王都、ルキウスはここから取られています。先ほど、ルーク様のお言葉の中に出てきた言葉を、あなた方は覚えていますか」

 ——つるぎの如く、こはく清き心を持ち給へ。心に宿る光を、捨てばならぬ。絶えず襲ふ悩みは、魂をかしづくかて。魔性のものに、心を許さばならぬ。甘言の耳を傾ければ、すぐさま身も心も食ひ尽くさる。

 何度も聞いたこの一節は、リアトリスもすぐ思い浮かべることが出来るほど、特に有名な教典の一節だった。

「少し難しいでしょうか。分かりやすく言えば、けっして希望を捨てず、強く清らかな心を持ち続けること。襲い来る苦しみは、魂をより強く育てるためのものなのだから、例え苦しくつらいことがあっても、魔物の甘く優しい言葉に耳を貸し、心を許してはならないということ……」

 大聖堂の中は、時々誰かが咳をしたり小さく咳払いをしたりする声がする程度で、ピッチャー司祭の声だけがよく響いている。

「……魔の道に引きずられ、その道に足を踏み入れてしまえば、奪われるのはあなた方の命そのものだと、ルーク様は仰っているのです。そして魔物というものは、なにも宗教画に描かれるような、おぞましく醜悪な姿ばかりではなく、時に我々と同じ人間の姿を取る者もいます。それらは皆総じて、恐ろしいほどに美しい容姿をしているとされています。その方が、我々を欺きやすいからでしょうか。人はすぐ煩悩で溢れてしまいますから」

 くすっとした笑い声がどこかから漏れ、また咳払いの声がした。ピッチャー司祭がたおやかに笑う。

「ですから、その煩悩を消すために、こうして集会を開き、告解部屋を解放しているのです。愚か者、痴れ者とは、欲に駆られる者のことではなく、膨れあがった欲に罪悪感を抱かず、過ちを正そうとしない者のことを言うのです」

 ピッチャー司祭は、静かに教典を捲った。

「教典の中には、いくつか同じ名前が繰り返し出てきます。ルーク、オリヴィア、セス、ライリー……これらが、言わずと知れた四英雄様方のお名前となります。ライリーとは、古い言葉で「勇敢な者」という意味です。皆様も知っての通り、ラウエルは彼の名前から取られています。ライリー様はこの土地で生涯を終え、そのご遺体はスタンリー墓地に埋葬されています。スタンリー墓地は、ここからほど近い場所にありますから、良ければ行かれてみることも、お勧めします」

 スタンリー墓地の高台に、一つだけ立派な墓があることは、誰もが知っている。そこは、いつだって綺麗に清掃されており、それは墓というよりも、こぢんまりとした小さな教会のような造りとなっていた。通常は外から見ることしか出来ないが、一定の階級以上の聖職者であれば出入りすることが許されている。

「教会が建つ場所には、魔性の王の部位があります。その悪しき肉片から王が蘇ることがないように、封印という形で教会が建てられたのです。ライリー様を始め、ルーク様とともに戦った者たちは皆、いかなる異変をも見逃さぬよう、肉片が封じられた地で一生を終えたのです。そして英雄様亡きあと、その役目は我々ルーク正教会がお引き継ぎしています。この祈りは、魔物から町を護るためでもありますが、王の復活を阻むためでもあるのです。祈りとは、非常に強い意味を持ったものですから、けっして形骸化させてはならないものなのです……」

 ピッチャー司祭の言葉の途中、ほんの一瞬地面が揺れた。そう大きくはない揺れだったが、それまで静かに、彼の話に耳を傾けていた聴衆がざわめき出す。しかし、それもピッチャー司祭が投じた「落ち着きなさい」という声で、すぐに止んだ。以降揺れが起こることはなく、教典の内容が、次の章に差し掛かる頃になって、ピッチャー司祭は手にしていた分厚い教典を静かに閉じた。

「時間が来てしまいましたから、本日のところはここまで。それでは最後に、皆で祈りの言葉を唱えましょう」

 重厚な集会は終わりを迎え、一人、また一人と大聖堂から出ていく中、リアトリスは少し様子を見てから席を立った。講壇へ近付き、「司祭様」と声を掛ける。すると、彼は想像していた通りにこやかに微笑んだ。

「こうして言葉を交わすのは、三か月ぶりかな。昨日は挨拶もできずに、すまなかったね」

 リアトリスはかぶりを振った。

「色々と仕事が重なっていて、こちらこそなかなかご挨拶に伺えず……」

「おまえが、そうして人々の役になっていることが、私はとても誇らしい」

 ピッチャー司祭は、まるで父親のような存在だった。事実、彼は全ての信徒や修道士、ラウエルの住人たちにとって、頼るべき父だった。それは、父親どころか家族という縁や繋がりを知らないリアトリスにとってもそうだった。

 とある雪の降る寒い日に、聖ナサニエル大聖堂の前で簡易な籠に横たえられ、まるで憐れな捨て犬のように、極寒の中で凍え死にそうになっていた彼を拾い上げ、聖アイゼイヤ孤児院に入院する手筈を整え、名前まで授けた人物がピッチャー司祭だった。という話を、リアトリスは子どもの頃に聞いたことがあった。拾った手前ということもあっただろうが、彼はその後何度も孤児院へと足を運んでは、そのたびにルーク正教の教えを分かりやすく紐解き、知識を授け、知恵を貸し、物事の善悪を教え、正教に沿った生き方を示した。

 ピッチャー司祭は、まさしくリアトリスにとっての恩人だった。

 リアトリスは、そのピッチャー司祭の優しい目元に深く刻まれた皺や下瞼の隈を見つけ、

「大丈夫ですか?」

 そう尋ねた。彼も高年でありけっして若くはないのだが、それでも以前よりもずっと、老け込んでしまったように思えた。

「どこかお疲れのようです。あまり、お休み出来ていないのですか」

「大丈夫、休息はきちんと取っている。ただ、少しやることが立て込んでいるだけなのだよ」

「それは……町の行方不明者の事件のことですか」

 周囲に漏れないよう、なるべく声を潜めてそう尋ねると、ピッチャー司祭の顔色がさっと変わった。優しい目元が一瞬厳しさを帯び、いつも湛えているにこやかな表情が消え失せ、見たことがないほどの凍り付いたような顔でこちらを見つめている。何か失言をしてしまっただろうかと、リアトリスが妙に緊張し始めた頃になって、ようやくピッチャー司祭は微笑んだ。

「それは、誰に聞いたのかね」

「同僚です。昨晩、帰還した際に彼から聞きました。三か月前から、たびたび町の中で行方不明者が出ているとか、ルーク正教会の人間ばかりが失踪しているとか。司祭様はお優しい方ですから、その事件で胸を痛めていらっしゃるのだと、そう思ったのですが……」

 こちらを見つめるピッチャー司祭は、どこか困ったような奇妙な笑みを浮かべていて、

「何かお手伝いできることがあれば、なんでも仰ってください」

 リアトリスがそう言うと、「おまえが気にすることはない」と、ピッチャー司祭は緩やかに首を横に振る。そして、小さな子どもを諭すように続けた。

「おまえたちは、魔物から人命や居住区を護るのが役目なのだ。町の中で起こる事件は、私たちに任せておきなさい。どうしても手に負えない状況になったとき……その時は、討伐隊の力を貸しておくれ」

「わかりました」

 素直に顎を引くリアトリスを見て、ピッチャー司祭は暗い灰色の目を、柔らかく細めた。

「それよりも、顔をもっと見せておくれ。……しばらく見ない間に、また立派になった」

「英雄様のご加護があってこそです」

 ピッチャー司祭の言葉にリアトリスがそう返すと、彼は「そうだとも」と強く頷いた。

「その気持ちを忘れてはいけない。英雄様のご加護、ひいては英雄様方への信仰があってこそ、私たちは生かされている。信仰心の薄れは町の護りの薄れへと繋がり、そして弱った心は、魔物が付け込む隙を生み出してしまう。清く正しく、人々を率いる模範的な生き方が、私たちには求められているのだ。日々、英雄様を祈り、信仰し、感謝することが大事なのだよ」

「ごもっともです」

 頷き返したリアトリスは、ピッチャー司祭が自分の後ろに視線を向けていることに気付いた。振り向いてみたが、これといって目を引くようなものは見当たらない。すでに大聖堂の中はほとんど人がいなくなっていて、僅かに残る人々が、大聖堂内の装飾や天上に描かれた宗教画などに、感嘆の声をあげているだけだ。

「どうかされましたか?」

 リアトリスが尋ねると、ピッチャー司祭は珍しく「いや」と言葉を濁し、また妙な笑みを浮かべた。

「さて、私としてももっと話していたいのだが……そろそろ、戻らなければ」

「司祭様。貴重なお時間をありがとうございました」

 リアトリスがそう言うと、最後にピッチャー司祭は腕を広げて、緩やかに彼を抱擁した。なんとも穏やかな温もりとともに、恐らく彼が忍ばせている香や、染み付いた薬草の匂いが、ふっとリアトリスの鼻腔を掠めた。ピッチャー司祭の身体は薄く骨ばっていて、老体であることをまざまざと感じさせる。その時間はほんの僅かで、やがて大聖堂を後にするピッチャー司祭を見送り、リアトリスはゆっくりと腰を折った。

 踵を返し、聖ナサニエル大聖堂から出て行こうとしたリアトリスは、最後列の会衆席に、頭からフードをすっぽりと被った男を見た。少しの時間記憶を遡り、昨晩見た男であることに気付く。窓から差し込む光で、今日はその風貌がよく見えた。

「昨日の……昨晩、お会いした方ですよね」

 緩やかに立ち上がった男からは、相変わらず何の返答もない。

 古く傷んだマントのフードを、目深に被っていて見えにくいが、怪我でもしているのか、顔の大部分に包帯が巻かれているのが見えた。目にかかる前髪は、血潮を被ったかのような赤色で、ひどく珍しい色をしている。フードを深く被っているのが、その目立つ頭髪や顔の傷を隠すためだと納得し、それと同時に、不躾にじろじろと見てしまったことをリアトリスは恥じた。背丈はリアトリスよりも高いものの、全体的に痩せているせいで、威圧感は全くない。長い前髪の隙間から、暗い緑の瞳がこちらを見下ろしていた。

「失礼ながら、あなたは英雄教を信仰していないのかと、ちょっと思っていました」

「していない」

 それは撥ね付けるような、攻撃的な返答だった。

「でも、集会には参加していたのでしょう。ピッチャー司祭は素晴らしいお方ですし、教典のお話の説明も、教え方もとても分かりやすくて、何よりお優しい方です。だから、ラウエルの人は皆司祭様を慕っていますし、遠方からも、危険を承知でラウエルに来ることもあります。あなたは、そうではないのですか?」

 すっと空気を吸う音がした。

「彼はかく言ひき。妄信する際、畏きかはあらず」

 ぼそりと届いた言葉が、教典の一節であることをリアトリスはすぐに分かった。この言葉もまた、ピッチャー司祭はよく言っている。妄信することほど、愚かなことはない。それは、常に客観的な視野を持てという、戒めのようなものだ。

「何が言いたいのですか」

 少しむっとしたように言い返してみたものの、男はそれ以上何も言わず、ほつれて傷んだマントの裾を翻しながら、大聖堂から出て行った。



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