第一編

背信-1

 かの者の諭しに聞き従へ。

 心に宿る光を捨てばならぬ。絶えず襲ふ悩みは、魂をかしづく料。

 魔性のものに、心を許さばならぬ。甘言の耳を傾ければ、すぐさま身も心も食ひ尽くさる。

 その道を歩いてはならぬ。踏み入れてはならぬ。

 奪われるは己が命。


《現代語訳》

 その方の教えを聞き、従いなさい。

 心に宿っている希望を捨ててはならない。絶えず襲う苦しみとは、魂を育てるためのもの。

 魔性のものに、心を許してはならない。甘い言葉に耳を傾ければ、すぐに身も心も食らい尽くされる。

 その道を歩いてはならない。踏み入れてはならない。

 奪われるのは、おまえ自身だ。

                    『ルーク正教教典 一〇三四頁、箴言』



 その静寂に包まれた森の中で、リアトリスは耳を劈く銃声の音を聞いた。

 鬱蒼と覆い茂る薄暗い森の中に、彼らはいた。陽は高い時間帯であったが、好きに伸び切った枝葉が頭上を覆い、その隙間を縫って差し込む光は乏しく、そのために陰気な雰囲気が漂う森だった。茂みに身を潜めたリアトリスたちが固唾を呑んで見つめる先で、大きく体制を崩しながら、地へ傾く魔物の巨体は、轟音を立てて倒れるよりも早く、塵芥のように霧散していき、やがてその場には、拳ほどの丸い玉だけが残った。薄暗い景色の中でも、その玉だけは異様なほどに美しく光り輝いており、その一辺だけぼんやりと照らされている。それが、魔力結晶と呼ばれる魔物の宝だということは、この場にいる全員が知っていた。

 張り詰めたような空気の中で、誰かがふっと吐息を漏らした。まだ少し緊張を孕んだその音を皮切りに、白い装束に身を包んだ男たちが、長時間の間身を潜めていた茂みから、ようやく立ち上がった。一人だけ目立つ青いマントを纏った副隊長のクフェアが、転がっていた玉を拾い上げる。素早く出される彼の指示を聞きながらも、リアトリスは先ほど討伐した魔物がいた場所に立った。その一帯の草花だけが茶色く変色し、乾燥していた。寂しく乾いた音を立てる花は、何気なく手を伸ばした彼が触れた途端、指先で音もなく崩れていった。

 その白い集団がラウエルに舞い戻ったのは、それから更に数時間ほど経ってからだった。同じような景色が続く高原を突き進み、岩が点在する急勾配の山道を駆け上がった先に、見慣れた石壁に囲まれた町が見えてくる。その壁の向こうには、ラウエルを代表する聖ナサニエル大聖堂の尖塔や鐘塔が顔を覗かせている。町を囲む石壁の狭間窓から、顔を出した人物がさっと奥へと引っ込んだ。それからほどなくして、重たい鉄製の門が鈍い音を立てながら、ゆっくりと開いていく。

狩人かりびと様がお戻りになったぞ!」と、誰かのはしゃぐような声が聞こえてきた。

 クフェアを筆頭に、大型の銃を携えながら、颯爽と町の中を横断するリアトリスたちは、このフラウステッド王国に根付くルーク正教——英雄教とも呼ばれている——の信徒だった。そしてルーク正教会が、王族と異なる独自の権限によって立ち上げ、そのため教会に従属する武装組織、魔物討伐専門部隊——通称として、討伐隊に身を置く集団であった。人智を越え、暴虐の限りを尽くす魔物と命を賭して戦い、人命や生活圏を護る彼ら討伐隊は、どこへ行っても人々の憧れであり、敬愛され、時に畏怖の念を向けられる、現代の英雄だった。

 太古の昔。

 飢饉や病、さらには災害や大戦などが原因で、人が次々と命を落とした時代。今日こんにち、魔物と呼ばれるようになった「魔性のもの」たちは、驚異的な速さでその数を増やしていき、人々を恐怖と絶望に突き落としていた。苦痛や絶望に喘ぎ、成す術もなく淘汰され続けた人々を希望へと導いたのが、今や王国中で信仰される宗派の祖となった、ルークと呼ばれた英雄だった。ルークは仲間や従者を引き連れ、当時名もなかったこのベネディクト半島を回り、人々を救済し、恩恵を与え、その思想や力に惹かれる者たちが少しずつ増え、やがてその規模は大軍となり、ついには人々を絶望に追いやった魔性のものたちの王を打ち倒し、フラウステッド王国を築き上げた……

 それがこの国では知らぬ者のいない有名な英雄譚であり、戯曲として、童話として、宗教画として、様々な形を取りながら現代まで語り継がれている。

 ラウエルでは、家々が立ち並ぶ中で、花壇があちらこちらに設けられていた。冬も目前に押し迫った今は黒い土しか見えないが、春になれば一気に芽吹き、町中が色取り取りの花で包まれる。とはいっても、これはラウエルに限った話ではなく、フラウステッド王国全土に見られる特徴だった。かつてこの不毛の地は魔物で溢れ、魔物の毒気に当てられ、作物や草花が満足に育たなかったという。そのため、国を築いた英雄達が花を神聖なものとして扱い、王国中が花で覆われることを夢見ており、後世の人々が花や木々を植えた——と伝わっている。

 「おかえりなさい」という声にリアトリスは顔をあげた。聖ナサニエル大聖堂の前で、青いカズラを纏う高年の男が、穏やかな笑みを湛えながら、出迎えていた。ラウエルにおいては絶対的な指導者にして、最高の権力者。それがルーク正教会のピッチャー司祭だった。ピッチャー司祭とクフェアが手短に言葉を交わしているのを見ていると、ふとピッチャー司祭と視線が合った。彼は目が合ったことに気付くと、老化と共に垂れて下がった瞼を閉じて、朗らかな微笑を向けてきた。

 ラウエルの中心に大きく聳え建つ聖ナサニエル大聖堂は、屋根を鮮やかな青で統一し、二本の塔を擁した厳かな雰囲気で巡礼者や人々を魅了していた。この大聖堂は、ルークの仲間であり、一番の親友だったともされるライリーが、約束を結んだ精霊からその名が付けられたとされている。精霊から武運や加護を授かったライリーは、魔性の王との闘いにおいて、武神や戦神とも称されるほどの活躍をしたという。しかし太古には多数存在していた精霊は、魔性のものたちとの闘いにおいて、その身を食われて絶滅したという通説があった。宗教画にこそその姿を描かれながらも、有史以来誰一人として、精霊の姿を実際に見たことがないと言われているためだ。

 ピッチャー司祭に案内されて入った小部屋の中で、リアトリスたちは皆一様に、両膝を付いて手を合わせ、目を閉じていた。傍から見ればそれはどこか儀式めいていて、祈りを捧げているような形であったが、まさしく儀式の真っただ中であった。ピッチャー司祭が低い声で紡ぐ祈りの言葉と、唱えられる言葉の節目ごとに、小さく鳴り渡る鈴の音が、リアトリスの耳に入る。

 魔物が持つ力のことを、教会は魔力と呼んだ。その魔力には、毒気が混じっているということは、討伐隊に入隊した際に、最初に教わる基本的なことだった。魔物の毒とは、力の強い魔物ほどより濃厚であり、嘔吐や痙攣のほか意識障害などを引き起こし、最悪死に至ることもある。魔物と戦闘を繰り広げるたび、討伐隊の人間は否が応でも毒素を少しずつ吸い込み、体内に蓄積してしまう。そのため、魔物討伐が終わるたびに魔祓いを受けるのが、彼らに課せられた義務の一つであった。魔物の傍で、毒素を含んだ魔力を浴び、吸い込んだ毒素を放置し続けたことで少しずつ気が狂い、発狂した人間の話は、ルーク正教会に身を置く人間ならば、誰でも知る逸話である。

「あなた方が今後も、ライリー様のように勇敢で逞しくあるように。そして、我らがルーク様のご加護がありますように」

 しんと静まった空気の中に、溶け込むようにピッチャー司祭の声が消えていく。それから、もう少し待ってから、リアトリスは瞼を開いた。こちらを見ていたピッチャー司祭は、その人柄が滲み出ているほどの、穏やかな笑みを浮かべていた。

 このまま聖ナサニエル大聖堂の中を突き切って、長い回廊を進んで行けば、集団生活を送るペンブルックシア修道院へ行けるのだが、討伐隊は揃って大聖堂の外へ出ていた。その回廊は、聖職者や修道士たちが使っており、討伐隊はそこを使用してはいけないという、暗黙の了解が行き渡っていたからだ——それでも、そうした微妙な決まりを破る者も少数いる——。そのままぞろぞろと、ペンブルックシア修道院へ向かう仲間たちと別れ、リアトリスは聖ナサニエル大聖堂の前に建つ、一体の彫像の前で足を止めた。限界まで弓を引き絞りながら、空を睨み上げる、勇ましい男の像が、ルーク正教会で日々語られる四英雄しえいゆうの一人、ライリーであることは誰でも知っている。著名な彫刻家たちは、想像を働かせながら、英雄と縁深い町や土地に像を建て、それらは各地のシンボルと化していた。昼間は、このライリー像の周辺も人が溢れて活気付いているのだが、陽も傾き、夜の帳が降りようとする今は、この場にいるのはリアトリスと、見覚えのない男の二人だけだ。ラウエルは王国の四大都市と呼ばれる英雄所縁の土地であり、その分住人の数も多かった。町の中は、ルーク正教会の聖職者や修道士たちの日々の祈りによって、魔物を寄せ付けない守りが働いている。しかし、一歩でも町の外に出ていけば、そこは魔物の領域であり、いつどこから飛び出してくるかも分からない。多くの住人が町の外に出ていくことはなく、その一生を生まれ育った町で終えることがほとんどだった。そのため、新しく産まれてくる赤ん坊を除けば、その顔ぶれはほとんど変化がなく、よそから来た人間というものは、非常に分かりやすいものだった。

「……こんばんは」

 訝しみながら、リアトリスが声を掛けてみたが、相手からの返答はなかった。空が暗くなっていて分かりにくいが、ほつれや破れといった痛みが目立つ、色褪せた古びたマントを纏う人物の様相から、彼は旅人なのだとリアトリスは予想した。魔物に生活区を破壊されることも多いこの時代、命からがら逃げ出して、受け入れてくれる場所を探しながら町村を巡り、中にはそうした者たちが集まって、小さな集落を築くこともあった。

 しかし、リアトリスは懐疑的な目付きを緩めることをしなかった。目の前の男は、マントに付いたフードを目深に被っており、その風貌はよく分からないが、古めかしい剣を携えていることは視認できていた。旅をする上で、魔物との戦闘は避けられないものだった。戦いの心得を知らない者が、その命を落とすことの方が圧倒的に多いが、行商人や羊飼い、或いは貴族の護衛など、町の外に赴く者は、どのような身分であれ、魔物を屠るための武器を持っている。数世紀前までは、剣や槍、弓などの古風なものが武器として重宝されていたが、銃が発明されて以降それらは廃れて姿を消し、今ではほとんど見かけることもない。

 遠方から攻撃出来る銃は、魔物との戦闘の危険性を極力減らせることで、今や主流となった武器だった。けっして安いものではなく、その多くはルーク正教会に卸されている。しかし、いわゆる正規ではない方法で、品質などに拘りさえしなければ、市民でも手にすることはけっして難しいものでもない。

「ライリー様の像が、珍しいですか?」

 微動だにしない男に再び声を掛けると、ようやく彼はこちらに視線を向けた。視線を向けたというよりも、長身痩躯な身体を、僅かに半身捻ったくらいだ。

「随分、熱心に見ていらっしゃったので。……よそから来た方でしょう。ライリー様の像は、ラウエルが一番大きく立派に作られています。この町が、ライリー様が最期を迎えた場所で、彼の功績を讃えるためだと、そう言われています」

 空気を揺らす、小さな音がした。リアトリスはその短い吐息の中に、はっきりとした嫌悪が混じっていることに気付く。

「ルーク正教は、魔物に怯える人々の拠り所で、彼らを護るためにあるものです。清く正しい心を持ち続けて、英雄様方を信仰していれば、けっして見放されることはありません。護ってくださるのです」

 目の前の男が鼻で笑ったような気がした。

「……あなたは、」

 ルーク正教を信じていないのですか。

 リアトリスがそう尋ねようとした時、聖ナサニエル大聖堂の鐘が厳かに鳴り響いた。

 この鐘の音は鐘衝きの役目を担う者が、毎日決まった時刻に四度鳴らしていた。日の出を告げる一度目の鐘、経済的活動や奉仕活動を開始するために、鳴らされる二度目の鐘。それから、陽暮れを告げる三度目の鐘。これは、全ての経済取引の終了を告げる合図となり、その数時間後に最後の鐘が鳴らされる。この鐘の音は夜間の外出を禁止する合図であり、それはルーク正教会の人間であっても、例外ではなかった——ただし、討伐隊は有事の際や魔物の襲撃などに備えることもあり、その限りではない——。

 ほとんどの人々は、ルーク正教会の鐘の音に管理されながら生活していた。特に、修道院は集団生活を行う場所であり、ことさら時間に関しては非常に厳格なものであった。厳しい魔物討伐を終え、帰還したばかりにも関わらず、夕食抜きというものは、なかなかつらいものがある。

 リアトリスは慌てたように、会釈をして踵を返したのだが、すぐに足を止めてもう一度男を見た。

「あなたにも、英雄様のご加護がありますように」

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