辞すること莫かれ 更に坐して一曲を弾くを

金舞黒閃 天告の時

 シャリンッ、シャリンッ、と、微かな音が響く。その度にこぼれ落ちる燐光が周囲の瘴気しょうきを祓い、紅殷こういんが歩みを進めた後ろには陰の気の中に一本の道ができあがる。


 本来、女性の髪を彩る金歩揺きんほようは、揺らすことも、音を鳴らすこともさせるべき物ではないという。


 だが金簪きんさん仙君せんくんだけは、そのかんざしを揺らして歩くことを求められた。


 呪具である簪が奏でる音は、それそのものが祓いとなる。こぼれ落ちる燐光は、それそのものが陰を退ける。


 わざを振るわずとも、その一挙手一投足、その在り様だけで奈落を浄土と化す、ヒトの中に生まれ落ちた退魔の貴仙。


 それが玉仙宮ぎょくせんぐうが誇る『金簪仙君』であるらしい。


 ──そんな御大層なもんでもないけども。


 今宵も己を形作る輪郭が周囲の空気に溶けて自分と世界が等張になっていく感覚を味わいながら、紅殷は心の片隅で小さく呟いた自分自身に苦笑をこぼした。


 自身がこぼす燐光のおかげで、視界はいつになく明るかった。闇が祓われると同時に周囲の空気も浄化されているのか、陰の気のただ中にいながら吸い込む空気は玉仙宮の奥殿と変わらないくらいに澄んでいる。


 ──周囲がそう信じて、それが救いになるならば、少しでもその憧れに近い存在ではありたい。


 妓楼の前に立った紅殷は、前回と同じようにその場から二階の露台を見上げた。紅殷の気配を感じ取って警戒しているのか、あるいは前回と同じくたまたまなのか、今宵の露台も今のところしんと静まり返って何かが動く気配はない。聞く者の心を惹きつけてやまない琵琶の音も、今は聞こえてこなかった。


 紅殷はしばらく露台を見つめてから、傍らに立つ晶蘭しょうらんに視線を向ける。紅殷と同じように露台を見上げていた晶蘭は、視線に気付くと顔を動かさないまま視線だけで紅殷に応えた。


「蘭、いいな?」


 退魔の現場で相方を愛称で呼ぶのは、相手取る妖魔奇怪にこちらの名を握られないようにするためだ。そんな事情があるから、普段はその女の名のような略され方に必ず眉をひそめる晶蘭が、退魔の現場ではすんなりとその呼び名を受け入れる。


 今宵も晶蘭は紅殷の呼びかけに表情を崩さないまま、わずかな視線の動きだけで『是』と答えた。その答えを受けた紅殷もコクリと一度晶蘭に頷き返す。


 顔を正面に向けた紅殷は、普段帯に吊るしている手鈴を左手に、懐に入れて持ち運んでいる扇を右手に構えた。伸ばした腕が交差するように前へ構え、意識をふたつの呪具に集中させる。


 紅殷がその業を振るう時、本来ならばチマチマとした仕込みは必要ない。前回宿屋でわざわざ金簪を使って術の展開範囲を固定したのは、結界の展開範囲が小規模かつ、必要になる力もごくわずかだったからだ。


「『祓え』」


 範囲が広大で強力な力を必要とする時ほど、加減が必要ないから大雑把な振るい方でも許される。


 一言、呪歌とも言えない言葉を紡ぎながら紅殷は左右へ腕を振り抜いた。たったそれだけで世界は紅殷の意志と力に応え、大地の底から霊気を湧き立たせる。


 淀んだ空気の中に、突如風が湧き上がった。まるで地の底から地上の空気を吹き飛ばさんがごとく生まれた突風は、まばゆい黄金の燐光をはらみながら停滞していた瘴気をことごとく駆逐していく。


 遅れてリンッと手鈴が音を鳴らした時、周囲の空気は神々しささえ感じられるほどに浄化されていた。紅殷が適当な範囲で展開した結界は、妓楼を囲い込むように結界壁を展開している。宿屋で晶蘭に浄化を施した時と同じ結界が、建物一棟を完全に囲い込む規模で顕現していた。


 ──俺の力が馬鹿みたいに強いせいで、これくらいの規模で展開する方が実は楽なんだよな。


 そんな他事を一瞬だけ考えてから、紅殷はタンッと前へ踏み出した。金歩揺を激しく揺らしながら突進する紅殷に遅れることなく、晶蘭もその後に続く。


 ──こっから先は時間との勝負!


「蘭!」


 妓楼に踏み込むと同時に上げた『後ろは任せた!』という意味を込めた呼びかけに、晶蘭は剣を抜くことで応えた。


 さらに晶蘭はクルリと背後を振り返ると、闇の中から繰り出された剣撃を抜き身の剣で弾く。シャリンッという涼やかな音はまるで水晶でできた鈴を打ち鳴らしているかのようだった。


 しかしその奥から響くしゃがれた声は、その美しさをかき消してなお余りあるほどに邪気に満ちている。


嫋嫋じょうじょうねえさんの店に何をするっ!!」


 声の主はくだんの少女……蝶娘じょうじょうだった。


 紅殷の浄祓によってどこもかしこも光に満ちあふれた中、わずかにこごった闇の中からにじみ出るように姿を現した蝶娘は、紅衣の両袖の中に隠した刃を交互に振りかぶりながら晶蘭に襲い掛かる。


 ヒトから外れた身のこなしも、黄色く濁った目と歯を剥きながら叫び声を上げる様も、もはやヒトよりも猿に近い。その様子だけで、蝶娘はヒトの姿を保っていながらも、すでにヒトであることをやめてしまっているのだとありありと分かってしまった。


 ──まずは一人。


 蝶娘は己のあねであった嫋嫋に、そして嫋嫋を縛っているこの妓楼に執着している。紅殷が初手で派手に浄祓呪を展開したのは、手っ取り早く蝶娘と、あわよくばその後ろにいるかい糸影しえいをこの場に引きずり出すためだ。


 ──でもこいつらを相手にする前に、まずは嫋嫋あっちを何とかしてやんねぇと!


「邪魔をするなっ! 邪魔をするなっ! 邪魔をするやつは……っ!!」

「っ!!」


 二階へ続く階段に向かって一直線に駆けていた紅殷は、一度背後を振り返ると手鈴を打ち鳴らした。リンッと大音声で響いた音は蝶娘の声を打ち消すだけではなく、直接衝撃波となって蝶娘に襲いかかる。


「蘭っ! そいつに言葉を紡がせるなっ!」


 蝶娘が繰る言葉は、一音一音が強力な呪詛だ。巫覡ふげきである紅殷でも本能的に『聞いたらマズい』と感じる声で直接的な怨嗟の言葉をぶつけられたら、徒人ただびとである晶蘭などひとたまりもない。


 そんな即効性致死毒のごとき言葉を回避したいならば、そもそも言葉を発させないのが一番手っ取り早くて確実だ。他の人間ならばそれも難しいだろうが、徒人ではあっても『ただの人』ではない晶蘭ならばそれができる。


 紅殷の指示の意図を察した晶蘭は、手鈴の音に弾かれて後ろへ下がった蝶娘との間合いを自ら詰めた。ヒトであることをやめているはずである蝶娘よりも俊敏な動きで蝶娘に肉薄した晶蘭は、息をつく間も与えない素早さで剣を振るう。晶蘭が扱う剣よりも振りが早い飛刀を両手に備えているはずの蝶娘が、防戦を強いられて歯を食いしばった。


 ──そっちは任せたぞ、蘭!


 その攻防の行く末を確かめることをせず、紅殷は一人階段を駆け上がる。


 バタバタと響く足音を隠すことなく二階へ上がれば、前回と同じ場所で嫋嫋は琵琶を抱えていた。ただ紅殷が展開した結界と霊気を吸い上げて意識が明瞭になっているのか、嫋嫋は生きた人間であるかのように不安を顔に滲ませてキョロキョロと周囲に視線を走らせている。


 そんな嫋嫋が、突如姿を現した紅殷に視線を向け、次の瞬間ハッと息を呑んだ。


「その、お姿は……」

「あれ? 知ってた?」


 前回と同じ場所で足を止めた紅殷は、あえて素の『紅殷』の口調と表情で嫋嫋に笑みかけた。親しげな空気に拍子抜けしたのか、嫋嫋は琵琶を抱きしめたまま困惑を表すかのように目をしばたたかせる。


「俺が何者であるか知っているなら、俺が何のためにここへ来たのかも、貴女あなたは分かるね?」


『金簪仙君』の名からは想像もつかない親しみのある言葉と表情に毒気を抜かれていた嫋嫋だったが、さすがにその言葉にはハッと我に返ったようだった。警戒と躊躇ためらいを浮かべた嫋嫋は、右腕でギュッと琵琶を抱きしめると左の指先で耳飾りに触れる。


 ──意識は明瞭。敵意なし。状況把握もできている。


『交渉の余地アリ』と判断した紅殷は、一度扇を閉じると両手を肩の高さまで上げた。それぞれに手鈴と扇は握られたままだが、その仕草は『敵意はないよ』と示すものだ。


「貴女がなぜここに留まっているのか、理由は何となく分かってる。大切な人が迎えに来てくれるから、待ってるんだよな?」


 嫋嫋が口を開くよりも先に、紅殷は言葉を紡いだ。紅殷がそんなことを言い出すとは思っていなかったのか、嫋嫋はソロリと息をつきながら紅殷に戻した眼差しに疑問を込めた。


「その大切な人が貴女に『一緒に新たな場所へ行こう』って言ってくれたら、貴女はどうしたい?」


 そんな嫋嫋に柔らかく笑みかけたまま、紅殷は続けて問いを投げる。しばらくポカンと紅殷を見上げて問いを噛み締めていた嫋嫋は、数回呼吸を繰り返すとジワリと瞳に涙を溜めた。


 ──そういえば、言葉が交わせる幽鬼って、みんな呼吸してるんだよな。


 存在が希薄で意思も薄れかけた幽鬼は皆、己がすがった執着を追うばかりで呼吸を忘れている。


 だがこうして世界と自分との輪郭が明瞭になれば。生きた人間と変わらない鮮やかな心を取り戻せば、彼らは文字通りに息を吹き返すのだ。


「会わせて、いただけるのですか……っ!?」


 こぼれる涙をそのままに紅殷を見上げた嫋嫋は、涙に震える声を絞り出した。耳飾りに縋っていた左の指先が、今度は降り注ぐ月光を手繰り寄せるかのように紅殷へ伸ばされる。


「わたくし……っ、わたくし、ずっとお待ちしていて……っ! でも、ずっとずっと、お会いすることができなくて……っ!!」

「ちゃんと呼べるかどうかは、君達の絆次第だ」


 紅殷は両腕を翻すと手鈴と扇を構えた。チリンッと小さく響いた手鈴の音に叩かれたかのように、嫋嫋はハッと手を引っ込める。


「貴女に与える機会は一度だけだ。だから、願いなさい」


『金簪仙君』として命じる紅殷の声に表情を引き締めた嫋嫋は、己の指先で涙を拭うとギュッと琵琶を握りしめた。それからさらにハッと何かに気付いたような表情を見せた嫋嫋は、握りしめていた琵琶を構えると両の指を弦の上で躍らせる。


 震える指が、琵琶を歌わせた。


 暁恨ぎょうこん想歌そうかをつま弾いていた時よりも、指がもつれているせいか紡ぐ音色はどこかつたない。


 だが明るく芯の強さを感じさせる曲は、哀切だけに満ちた曲よりも深く深く人の心に食い込んでいく。


 その音色の美しさに一瞬目をみはった紅殷は、次の瞬間笑みを浮かべていた。


 ──こりゃたまげた。嫋嫋姐さんの琵琶の真価は、あんなもんじゃなかったのか。


 嫋嫋から、愛する男への精一杯の呼びかけ。『ここへ来てほしい』『私は今でも貴方あなたを待っている』と訴える音色は、声を振り絞って泣き叫ぶよりもずっとずっと強く率直に呼びかける相手に届くだろう。何せ今、当事者でない紅殷の魂魄までもが、琵琶の音色に触れて、こんなにも震えているのだから。


 嫋嫋当人も、言っていた。『偽りしかないこの場所で、わたくし達は互いに交わす楽の音こそがまことだった』と。


 ──これに応えなかったら、男がすたるぜ、旦那……!


 一瞬だけ『紅殷』としての笑みを翻してから、紅殷は手鈴を打ち鳴らした。


 燐光を振り撒く導きの音色は、冥府と地上の境界を引くかのように水平に。招きの扇は下方の冥府から天上へ御霊みたまを掬い上げるかのように垂直に。


 それぞれに意志を込めて手鈴を歌わせ、扇を舞わせながら、紅殷は凜と世界に命じた。


「遠き地に御座おわします 泰山たいざんの神に願いたてまつる」


 紅殷が紡ぐ呪歌に共鳴して、リンッリリンッと手鈴が力強く歌う。紅殷を中心に巡る燐光はもはや中天の太陽よりもまばゆいことだろう。


 降霊に必要な情報は、蔵書室に入り浸っている間に調べ上げた。故人の御霊に呼びかけるために必要なえにしも、最強の存在モノが目の前に揃っている。


 だから後は、呼び出される側の甲斐性と、巫覡としての紅殷の腕次第。


 そして紅殷の腕は、間違いなくこの芙颯ふそう最高峰だ。


庚寅こういんの年 三月十日に川を渡りし御霊 すい李淵りえんを今しばしこの世にお戻し願う」


 願いを込め、えにしの糸を手繰り寄せる心地で手鈴を打ち鳴らす。


 さらに招きの扇をユルリと動かしかけた、その瞬間。


 紅殷は耳ではなく意識の端で、微かな笛の音を聞いた。


「あ……あぁ……っ!」


 こんだけの存在である嫋嫋には、その音色が紅殷よりもはっきりと聞き取れたのだろう。ギュッと眉間にシワを寄せ、縋るように琵琶をつま弾いていた嫋嫋は、ハッと顔を上げると顔をクシャクシャにして笑う。


「李淵様……李淵様っ!」


 笛の音は一気に音量を増すとパッと紅殷の眼前で弾けた。その衝撃に思わず紅殷が目をつむった瞬間、ガタリと琵琶が床に落ちる音が紅殷の耳を叩く。


「李淵様っ、お待ちしておりました……っ!!」


 紅殷は慌てて目を開いた。


 だがそこにあったのは嬉しそうに腕を伸ばす嫋嫋だけで、嫋嫋が喜色に潤んだ瞳で見上げる先に何があるのか、紅殷には分からなかった。かろうじて人影のようなもやが嫋嫋の前を漂っているのが分かるが、紅殷の見鬼けんきの才をもってしても、それが正しく帥李淵であるのかを判別することはできない。


 この結果をなかば予想していた紅殷は、切なさに目を細めた。


 ──やっぱり、嫋嫋姐さんの想い人であった帥李淵は……


 魔怪に襲われて命を落とした人間は、魂魄を傷付けられ、稀に魂の根本から存在を失うことがある。そうなってしまうと新しい生を得ることはおろか、無事に楽土へ渡ることも難しい。


 なぜ肉体だけではなく魂魄までもが傷を負うのか、その詳しい理屈は分かっていない。恐らく魔怪はヒトの魂魄を捕食する性質があるから、獣が肉を引き千切って喰らうように、魔怪も魂魄に牙を立てるのだろうと言われている。


 ──蝶娘に襲われて死んだということを、隠蔽されていたのか。


 嫋嫋には身請け話が決まっていた。客と娼妓という線引を超えて嫋嫋と想い合っていた帥李淵の存在は、店にとっても邪魔だったのだろう。


 だから帥李淵の死は蝶娘の仕業には数えられず、その死は嫋嫋に伏せられた。戸部の記録と、帥李淵が所属していた宮廷楽部の記録には、帥李淵の死因は『突然の病』とされている。


 身請け人が寄越した花轎かきょうあらがって嫋嫋がこの場所で帥李淵のために必死に琵琶を奏でていた時、帥李淵はすでにこの世にいなかったのだ。


 ──それでもあんたは、最後にちゃんと甲斐性見せてくれたな。安心したぜ、帥の旦那。あんたの粘り勝ちだよ。


 帥李淵が不可解な死を遂げたと知った瞬間、紅殷は真っ先に蝶娘と灰糸影の存在を思い浮かべた。もしかしたら紅殷の腕を以てしても呼び戻せないのではないかと、不安がぎりもした。


 だがいざ紅殷が御霊に呼びかけてみれば、紅殷が招くよりも早く帥李淵の御霊は動きを見せた。魂がその根本から引き裂かれて存在を失いかけていても、それでも消せない本物の想いがそこにはあったのだろう。


 ──真だったのは、楽の音だけじゃなかったな、嫋嫋姐さん。


 紅殷はそっと目を閉じると、勝手にあふれ出る笑みをそっと噛み締めた。


 帥李淵は、存在を失いかけた今の状態でもいまだに気概があふれている。あれならばきっと、嫋嫋を楽土へ導くことができるだろう。向こうで二人、また楽の音を重ね合わせることができるだろう。


 ──せめてあちらでは、同じ蓮の上で、末永き幸せを。


 紅殷はまぶたを上げると、強い意志とともに二人の幽鬼を見据えた。


 場に満ちた霊気を吸い上げたためなのか、靄のようだった帥李淵はうっすらと輪郭を取り戻していた。そんな帥李淵に向かって嫋嫋は嬉しそうに耳飾りを示して笑っている。


 紅殷の視線に気付くのは、どうやら帥李淵の方が早かったようだった。嫋嫋の体を受け止めたまま少し紅殷の方を振り返った帥李淵は、嫋嫋に気付かれないようにそっと頭を下げる。姿が透けている上に輪郭も曖昧なせいで帥李淵の詳しい面立ちを推しはかることはできないが、うっすらとだけ見えている彼の口元が柔らかく綻んでいることだけは何となく分かった。


 その表情が見れただけで、ああ出しゃばってきて良かったなと、心底本気で思えた。


 ──後は頼んだぜ、帥の旦那。


 紅殷は内心だけで送別の言葉を呟くと、柔らかく手鈴を鳴らす。


 その瞬間、二人の足元から燃え上がるかのように黄金の燐光があふれ返った。まるで嫋嫋に絡みつく足枷を燃やし尽くすかのように、黄金の燐光はまばゆさを増していく。


「金簪仙君!」


 そこでようやく嫋嫋は己に訪れた変化に気付いたのだろう。男の胸に縋ったままハッと顔を上げた嫋嫋は、慌てて紅殷へ視線を巡らせると一瞬言葉に詰まったかのように紅殷を見つめた。


 最期の最後の瞬間に何と言うべきなのか、きっと嫋嫋自身も迷ったのだろう。たった一瞬の間に、感情が迷子になったかのように嫋嫋はいくつもの表情を浮かべた。


 だが彼女はすぐに、大輪の花が開くようなまばゆい笑みを見せる。


 満月の光を一身に集めた月下美人のような、静かに光り輝く幸せな笑みだった。


「ありがとう!」


 その言葉に、紅殷が言葉を返すことはなかった。紅殷が口を開くよりも先に、彼女の姿はパッと崩れて、帥李淵とともに黄金の燐光の海の中に溶けて消えていったから。


 だから紅殷は彼女達がいた場所を見つめて、小さく手鈴を鳴らした。


 二人がいた場所からゆったりと空へと還っていく燐光に向かって、小さな笑みとともにささやく。


「こちらこそ」


 救われてくれて、ありがとう。輪廻の中に還る道を選んでくれて、ありがとう。


 そんな思いを込めて、紅殷は最後にもう一度、葬送の一打を打ち鳴らす。


 その一打は同時に、次に対処すべき案件へ意識を切り替える合図でもあった。


「あ……あああああああっ!!」


 それを急かすかのように、突如階下から悲痛な絶叫が轟く。悲痛でありながらどこか獣じみたその咆哮は、蝶娘が上げたものに間違いない。


 ──蝶娘は嫋嫋に執着していた。


 今の蝶娘の全ては嫋嫋のためにあったと言っても過言ではない。そんな蝶娘が嫋嫋の消滅に気付かないはずがないとは思っていた。


「姐さん……! 嫋嫋姐さんっ!! あああああ姐さんっ!! 姐さんっ!!」


 紅殷は意図して表情をかき消してから階下へ身を翻した。一歩一歩、気を引き締めるように階段を降っていけば、一階の広間の中央にうずくまって慟哭の声を上げる蝶娘と油断なく剣を構えた晶蘭の姿が目に入る。


「どうして蝶娘置いていくの? 嫋嫋姐さんは蝶娘の姐さんなのに。蝶娘だけの姐さんであるはずなのにっ!!」


 魂の底から上がる怨嗟の声と、声に引きずられるように生み出される瘴気に、紅殷はスッと瞳をすがめた。


 ──これは灰糸影の介入がなくても、堕ちるべくして堕ちていたたぐいの人間だな。


 今回の一件に関わった故人の記録は、なるべく頭に入れてきた。嫋嫋のことも、帥李淵のことも、この蝶娘のこともだ。


 ──嫋嫋によって引き上げられ、嫋嫋のために生かされていた子供……だったんだよな。


 この幼子は、嫋嫋の世話をさせるために妓楼が買い付けた元孤児であったらしい。記録にはそれ以上に詳しいいわれは記されていなかったが、花街ではよくあることだ。そしてそういった生まれの子供は、大抵『商品』である時代も『所有物』になってからも大切にはされない。


 そんな世界の中で、嫋嫋だけが幼子を憐れんだ。


 幼い身の上でありながら人買いにさらわれ、この花街まで流れてきた幼子。彼女を憐れんだ嫋嫋は、自分と読みを揃えた『蝶娘』という名を幼子に与え、血の繋がりのある本物の妹であるかのように幼子のことを可愛がった。蝶娘も嫋嫋によく懐き、二人は本当の姉妹のように仲睦まじく過ごしていたという。


 だが店の人間は、徐々に蝶娘の異常さに気付き始める。


 嫋嫋は娼妓だ。嫋嫋自身が店に買われた身である以上、客を取らなければならない。看板娘であった嫋嫋は、その分身の回りの世話をする人間も他の娼妓達より多く与えられていた。嫋嫋の周囲には世話役、客と類を問わず、たくさんの人間が行き交っていた。


 それは嫋嫋の立場から考えれば、当たり前のことであったはずだ。


 だが蝶娘は、その全てを嫌がった。嫋嫋の周りに自分以外の存在があることを許せなかった。癇癪を引き起こしては『嫋嫋姐さんの傍にいるのは自分だけでいい!』と暴れ回ったのだ。


 嫋嫋が蝶娘を可愛がっていたこともあり、最初は店側も多めに見ていたらしい。嫋嫋も嫋嫋で蝶娘の言い分を受け入れ、自分の世話を蝶娘だけに任せるなど、蝶娘の癇癪に気を使っていたらしい。


 だがある日、蝶娘は取り返しのつかない大事件を起こす。


 ──蝶娘を嫋嫋の部屋から遠ざけようとした客が気に入らず、客に手を上げた。


 嫋嫋の太客であった高官の腕に蝶娘が噛み付き、深手を負わせてしまった。客の腕の肉を噛み千切り、口周りをベッタリ鮮血で汚しながらケラケラと笑った蝶娘の姿に、さしもの嫋嫋も蝶娘を恐れるようになったという。


 かくして蝶娘は『幼子のなりをした魔怪であった』とされ、折檻用の地下座敷牢に放り込まれた。蝶娘はその中からひたすら怨嗟の念と嫋嫋への思慕を叫んだらしいが、店側は恐怖と嫌悪から見向きもしなかったらしい。


 客は恐怖と妓楼が積んだ金によって口を閉ざし、事件は金の力と厳しい箝口令で闇に葬られた。


 その後、嫋嫋は帥李淵は出会い、さらにその後に身請け話が決まる。


 そして嫋嫋は首を吊り、やがて妓楼も廃墟と化した。


 ──記録にある分には、それだけの記載しかない。だけど多分、話はそれだけじゃなかったんだ。


 店側が蝶娘の存在を隠蔽したせいで、蝶娘が座敷牢に幽閉されてからの記録は残されていない。


 ただ、当時祟りの修祓のために玉仙宮から派遣されていた巫覡は、妓楼の関係者から綿密に聞き取りを行い、できる限り蝶娘の当時の様子を書き記してくれていた。


 巫覡は『襲撃者の執念が凄まじく、解決よりも退避・静観が得策。手を出さない限り、こちらも痛手は負わない』と最終的に妓楼関係者を見捨てる判断を降した。


 だが同時にその巫覡は『事の真相は魔怪に堕ちた蝶娘と、蝶娘を焚き付けた灰糸影による連続殺人事件である』というところまでは見抜けていたらしい。残された報告書から、紅殷はそう読み取った。


 ──むしろそこまで見抜けていたからこそ、我が身と玉仙宮を守るために身を引いたのか。


 その巫覡の書付にいわく。


『蝶娘は幽閉される前から魔怪堕ちしていた可能性が高い。幽閉後、餓死させるべく誰も牢に立ち寄らなかったというのに、長い間生存が確認されている。その最期を確認した者もいない。自力で外へ逃亡している可能性が高い』


 というのも、蝶娘は確かに地下の座敷牢に幽閉されていたはずであるのに、最後に姿を目撃されたのは地上でのことらしい。


 嫋嫋の身請けの日。身請け人の客の意向で、嫋嫋は紅衣を着せられ、嫁入りさながら派手に花街を出立することになっていた。


 そんな中、望みもしない紅衣を無理やり着させられた嫋嫋は、あの廊下の突き当たりで首を吊って死んだ。廊下の上を渡すように通ったはりに荒縄を掛け、嫋嫋が腰掛けて琵琶を爪弾いていたあの台を足場にして、嫋嫋は命を絶ったという。


 その現場の第一発見者が、蝶娘だったのではないかという話だった。


 ──座敷牢に幽閉される前か、幽閉中に魔怪堕ちしていたならば、十分にあり得る話なんだよな。


 琵琶の音色が途絶えても一向に姿を現そうとしない嫋嫋の様子を店の者が気にし始めた頃、獣の慟哭のような声が二階から響いたという。店の者が慌てて駆けつけると、嫋嫋の紅衣と揃いの紅衣に身を包み、顔にけばけばしい化粧を施した蝶娘が、天井から力なく垂れ下がった嫋嫋の亡骸にすがって泣いていた。


 予想だにしない光景に店の者がその場に凍りついていると、蝶娘は慟哭の狭間にこう叫んだという。


『ここは嫋嫋姐さんの店だっ!! 蝶娘と嫋嫋姐さんが過ごす場所だっ!! この場所から嫋嫋姐さんを奪う存在を、蝶娘はひとつも認めないっ!!』


 その怨嗟の念に叩かれて一瞬気を失ってしまった店の者が我に返った時、蝶娘の姿はすでにそこになかった。店の者は嫋嫋の自死に衝撃を受けた自分が見た幻だと思い込んだらしい。


 だがその後、地下の折檻部屋を覗いてみると、蝶娘の姿は忽然こつぜんと消えていたという。死体はおろか、そこに誰か人がいたという形跡さえ残されてはいなかったという話だ。


「……生きながらにして魔怪に身を堕とした娘よ。その情念に身を焦がし、道を踏み外した者よ」


 紅殷はゆったりと言葉を紡ぎながら階段を降りきった。だがひたすら慟哭の声を上げ続ける蝶娘に紅殷の声は届かない。


 それでも紅殷は、問いかける言葉を止めなかった。


「お前、魔怪に堕ちる前から、ヒトを殺しているな?」


 その問いに。


 ひたすら泣き叫んでいた蝶娘が、ピタリと声を止めた。


「それの何がいけない?」


 グリンッと、首だけが回って紅殷を見据えた。その動きは明らかに常軌を逸している。生物としてあり得ない角度で首を動かした少女は、感情が見えない淡々とした声で紅殷の問いに答えた。


「嫋嫋姐さんは蝶娘のモノ。蝶娘と嫋嫋姐さんの間を邪魔するモノなんて、みんな消えてしまえばいい」

「使ったのは、毒だな?」


 蝶娘の問い返しには答えず、紅殷は淡々と問いを投げ続ける。


「幼子であるお前が、自力単独で毒を入手し、人を殺して回るのは難しい」


 話を聞いた当初から、紅殷には違和感があった。


『腹痛、続いて高熱と頭痛。熱が引くまで持ち堪えれば助かる見込みもあるが、持ち堪えられなければそのままポックリ』


 たたりは『病』という形で発現していた。持ちこたえられれば生き残れる道もある。発現した者は客と、妓楼の関係者。だがその全員が死んだわけではない。


 生ぬるいのだ。


 本来、祟りというものは、発現した時点で『死は確実』と断言してもいいような代物だ。『運が良ければ回復できる』などという良心を残すようなモノが、祟りをすような魔怪と成り果てるはずがない。


 ──そんな生ぬるい祟りがあってたまるか。


 だから紅殷は、最初からこれは『祟りを装った何か』であると考えていた。


「お前に協力していた者の情報を吐け」


 ──蝶娘の後ろにいるのは灰糸影だ。灰糸影は強力なシキを欲している。


 紅殷の推測が正しいならば、元々の蝶娘は嫋嫋に酷く執着していながらも、邪魔者を殺そうという発想までは持ち合わせていなかったはずだ。


 いかに毒花が咲き乱れる花街のただ中であろうとも、こんな幼子にたやすく人が殺せるはずがない。むしろ裏の世界の影が濃い場所であるからこそ、人を殺せばどれだけ危ない橋を渡ることになるか、蝶娘には分かっていたはずだ。


 そんな蝶娘の心の掛け金を外し、毒というヒトを簡単に殺せる武器を与え、始末を手伝っていた人物。


 その黒幕こそが、恐らく灰糸影だ。


 ──人殺しは、一番手っ取り早く『ヒト』という器に陰を溜める行為だからな。


 生物の死は、陰を生む。『食べるため』『命を繋ぐため』『敵を排して生き延びるため』以外の理由で殺生が許されないのは、いつの世であろうとも『殺人は禁忌』という概念がヒトの中にはあるからだ。


 ヒトがヒトを殺せば、これ以上ない濃度の陰を生む。殺し手の身には高濃度の陰が取り巻き、やがてそれはヒトをヒトならざるモノへ堕とす。


 嫋嫋への執着を募らせ、その感情を制御するすべを持っていなかった蝶娘は、恐らく最初から堕ちやすい性状を持ち合わせていたのだろう。


 そんな蝶娘に人殺しを重ねさせ、その陰を吸わせ続ければ……やがてその身はヒトの形をした魔怪へ堕ちる。


 ──帥李淵は蝶娘にやられて死んだのに、嫋嫋の身請け相手が無事だったのも、恐らく……


 蝶娘を決定的に堕とすために、灰糸影当人から強力な加護が与えられていたのだろう。恐らく嫋嫋の身請け話にも、灰糸影は一枚噛んでいるはずだ。


 それだけではない。


 今回、ずっと放置されていた土地をさい賀恵がけいという豪商に買い取らせたのも。犀賀恵に巫覡を雇わせ、修祓を執り行わせたのも。


 全ては、『蝶娘』という魔怪をより強力な存在に仕立て上げ、己の強力な式とするために。


 ──金簪仙君をおびき出すのと蝶娘を堕とすのと、どっちが本命だったかは知らねぇけども。


 あるいは、両取りを狙っていたのか。少なくとも『露台で舞う紅のたもと』の噂は、玉仙宮の巫覡を誘い出し、最終的に紅殷を釣るためのものだったはずだ。


「『目障りな存在など殺してしまえばいい』と、最初にお前に吹き込んだのは誰だ」

「嫋嫋姐さんは蝶娘のモノ。他の誰も関係ない。蝶娘は嫋嫋姐さんのためにしか動かない!」

「それはお前の本心で間違いない。だが、お前には協力者がいたはずだ」


 紅殷は詰問しながら手鈴を打ち鳴らす。キンッと強く響いた手鈴は、蝶娘が撒き散らす瘴気を一瞬で打ち払うと蝶娘自身にも襲いかかった。


 だがガバリと身をね起こした蝶娘は、その音を払い除けると両の袖を打ち払う。袖の中から現れたのは、鋭い爪の代わりに刃が仕込まれた猿のかいなだった。


「蝶娘は負けないっ!!」


 その腕を振り被り、蝶娘は紅殷に飛びかかる。


 その様を見た紅殷は、ただ静かにまぶたを閉じた。


 ──この御霊は、救ってやれない。


 ならば、為すべきことは。


「蝶娘はっ! 蝶娘は蝶娘は嫋嫋はっ!!」

「蘭」


 相棒を呼ぶ声は、いつになく静かに響いた。


 同時に、瞼を押し上げて、飛び掛かってくる蝶娘を真正面から見据える。


「やってくれ」


 応えの言葉はなかった。


 ただ静かに風が鳴く。


 同時に、決着はついていた。


 横合いから叩かれたかのように、蝶娘の体が軌道から逸れて横へ飛ぶ。その瞬間、ピッと蝶娘の首に朱色の線が走ったところを、紅殷は確かに見ていた。


 紅殷から十分に距離が開いてから、謀ったかのように蝶娘の首が胴体から離れる。一瞬ほとばしったかのように見えた血飛沫ちしぶきは、次の瞬間にはドロリと濃い瘴気に姿を変えていた。


 その様を冷静に見つめていた紅殷は、あふれ返った瘴気を浄化すべく手鈴を構える。


 だがそれよりも、どこからともなく飛来した白羽の矢が、斬り飛ばされた蝶娘の首をさらうように蝶娘の首に突き刺さる方がわずかに早かった。


「っ!?」


 ──ここで来るか……!


 来るとは予測していたが、この瞬間だとは思っていなかった。さらに言えば、気配を掴むこともできていなかった。


「っ!!」


 紅殷は驚愕に呑まれて咄嗟に反応が取れない。


 だが晶蘭は違った。左手で懐から飛刀を抜いた晶蘭は、首が向かう先へ迷いなく飛刀をなげうつ。それが先日、襲撃を受けた際に回収した飛刀であると紅殷が気付いた時には、低く忍び笑う声が聞こえていた。


 紅殷が展開する結界でどこもかしこも明るく照らし出されているはずなのに、その声が聞こえてくる先にだけ闇が凝っている。蝶娘の首から漏れ出た瘴気が、紅殷が地脈から引き出した霊気を食い散らかしている。


 その中心に、晶蘭が投擲した飛刀が突き刺さっている様を、紅殷は確かに見た。


 ──いや、違う。


 紅殷が闇の先を睨みつけると、ユラリと微かに瘴気が揺れて奥に潜んだ人物の輪郭が現れる。


 そこにいた人物は、伸ばした右の人差し指と中指で投げつけられた刃を止め、左手で蝶娘の首を抱えていた。長い前髪の下に垣間見える口元には、余裕の笑みが浮かんでいる。


 ──晶蘭が本気で打ち込んだ飛刀を、指先だけで止めた……!?


「金簪仙君、黒衣こくい剣神けんしん、ご協力に感謝申し上げます。おかげ様で良い式が手に入った」


 いまだに目をカッと見開き、ガチガチと歯を鳴らす蝶娘の首を愛おしそうに胸に抱えた灰糸影は、うっとりと熱に浮かされたかのような声を上げた。


 蝶娘の呪詛そのものだった言葉と違い、その言葉はただ聞いている分には人を害するようなものではない。だがその奥底に仕込まれた毒は、蝶娘が抱えていたもの以上に禍々しい。


「これでようやく完全な傀儡かいらいとなせる。いやはや、私もこれには手を焼いておりました。力は強いが強情でいけない」

「っ!!」


 紅殷はその言葉を打ち払うように、無音の気合とともに扇を振り抜いた。だが叩き込まれた幾重もの風刃を灰糸影は蝶娘の首を掲げるだけで相殺する。


「……っ!?」

「いずれ貴方様の魂魄ももらい受ける予定ではございますが……今宵はの処置がございますゆえ、おいとまいたしましょう」


 その光景に紅殷のみならず晶蘭までもがひるんだように動きを止める。


 灰糸影は紅殷達の反応から己の勝利を確信したのか、クッと笑みを深くすると蝶娘の首を高く掲げた。


「またいずれ、どこかで」


 ……それらの反応が二人の演技であることも、紅殷がこの展開を予想していたことにも気付かずに。


「……なーんて、させるかよっ!!」


 紅殷は右手に閉じた扇を握ったまま結印した。結んだ刀印を眼前に掲げ、場に流れる地脈とに意識を集中させる。


「『いらえ 浄華じょうか光臨こうりん縛魔陣ばくまじん』っ!!」


 紅殷の呪歌と力に応え、引き出された地脈が霊気を爆発させる。


 その瞬間、妓楼の中と言わず、廃墟と化した街全体から陰の気が吹き飛ばされた。


「な……っ!?」


 今まで瘴気のもやに隠されていた灰糸影の姿がまばゆい光の海の中に引きずり出される。


 灰糸影の手元から黄金の液体と化して溶け落ちた飛刀は、重力に逆らって蛇のようにうごめくとシュルシュルと蝶娘の首に巻き付いた。黄金の蛇が触れた部分から瘴気が浄化され、蝶娘の首はブスブスと煙を上げながら溶け落ちていく。


「ギャァァァアアアアアッ!!」


 猿の断末魔のような絶叫を、紅殷は鋭く手鈴を打ち鳴らして相殺した。その衝撃波に打たれた蝶娘の首は、黄金の蛇ともどもパンッと弾けてあっけないほど簡単に砕け散る。


 後に残ったのは驚愕に目を見開いた灰糸影と、まばゆい燐光の海だけだ。


「な……っ!?」

「この坊には、外周を囲う坊壁を利用して、街を満たした陰の気を外に漏らさないよう結界が展開されていた。三年前、この一件にあんたの影を見て手を引いた巫覡が施したものだ」


 紅殷は言葉を口にしながら一歩前へ踏み出した。逆に晶蘭は剣を構えたまま一歩後ろへ下がる。


「その結界の基盤を利用して、浄化させてもらった」


 晶蘭と同じ位置に肩を並べ、紅殷は不敵な笑みを口元に刻んだ。


「俺ってば持ち合わせてる呪力総量が馬鹿デカいせいで、普段はかなり抑えて力を振るわねぇと加減を間違えちまうのよね。これくらいの規模で力を振るう時の方が、を発揮できるんだよな」


 玉仙宮がこの廃墟街の状況に気付いていなかったのは、三年前、あえてこの件が放置されたことに加えて、外から探知されないように断絶結界が展開されていたからだ。


 宿に入る前、晶蘭とともに結界の存在を確かめた紅殷は、その結界に追加で浄祓術式を仕込んでおいた。街を囲った結界だけではなく晶蘭が回収していた飛刀にも強力な浄化術式を仕込み、いざという時はこの飛刀をつきたてて二人ともを浄祓しようという目論見だった。


 ──ま、灰糸影がそこまであっさり祓えるとは思ってなかったけどな。


 だがしかし、瘴気を利用して傀儡術を操る灰糸影の周囲からことごとく陰の気が消し飛ばされれば、灰糸影とて正面から紅殷達と相対するしかない。


 まずは蝶娘の浄祓に成功すると同時に、灰糸影の退路を潰した。付呪飛刀一本で上げた成果としてはまずまずだろう。


「『またいずれ』でも『どこかで』でもなく、『今』『ここで』決着をつけようぜ?」


 紅殷は笑みをかき消すと扇と手鈴を構える。その隣では晶蘭が油断なく剣を構え続けていた。


 玉仙宮が誇る『金黒の一対』が見せた本気の構えに、灰糸影が顔を引きらせる。


 その表情ひとつひとつを見据えたまま、今まで陰の気の奥底に潜んでいた傀儡師に、紅殷は最終宣告を叩き付けた。


「傀儡師、灰糸影。お前がもつれれさせた因果の糸は、我らが刃にて断ち切らせてもらう」

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