断ずることなかれ その行の不要を

 その『一座』は、夕暮れとともに現れるという。


璃琳りりんねえさんの証言通りなら、そろそろだな」


 人気ひとけもはけた、市の外れ。


閑月かんげつの辻』と呼ばれる四ツ辻の角に植えられた柳の下に、紅殷こういん晶蘭しょうらんは身をひそめていた。


「確実にここに現れるのですか?」

「周期的に確率は高い。念のために筮竹ぜいちくも振ってみたけど、占の結果もこの辻を示した」

「借り物の筮竹であっても、あなたの卜占ぼくせんの腕は確かですからね」

「専門じゃねぇんだけどな」


 玉仙宮ぎょくせんぐうで卜占の名手といえば、紅殷の師であり育ての親でもある玉仙国師だ。名手に仕込まれたおかげで紅殷もある程度は各種卜占を扱えるが、紅殷にお呼びがかかるのは祈祷や修祓の現場がほとんどなので、紅殷が卜占の腕を振るうことは滅多にない。


「こんなぶっつけ本番で筮竹を振るはめになるなら、もうちょい真面目に勉強しとくんだった」

「安心してください。あなたがしてくれた運勢占いが外れたことはほとんどありませんよ」

「いや、蘭蘭、お前な……。俺が遊びと練習を兼ねてやった易と今回のことを同列にされんのは……」


『そもそもあれは、「今日の蘭蘭の運勢が良いものでありますように」っていうはふりが入ってて、さらにお前がそれを現実にしようと頑張ってくれるから外れないのであってだな』と呆れやら恥ずかしさやらを言い訳にしようと紅殷はモニョモニョと言葉を続ける。


 だがその全てが声に乗るよりも、一際陰の気が強い風がユルリと二人の髪を揺らす方がわずかに早い。


「……来た」


 スッと瞳をすがめた紅殷は、パチンッと指を鳴らしながら辻の対角へ視線を投げる。一瞬で組み上げられた隠身おんみの術が二人の体を取り巻き、術の発動を示す黄金の燐光が紅殷の視界を舞った。


 その光を透かして見た、向こう側。


 先程まで確実に人気がなかった場所に、いつの間にか男が一人立っていた。


『私が屑箱しょうそう雑技団を知ったのは、ひと月前くらいだったわ。買い出しを頼まれた時のことだったんだけども……』


 その日、璃琳は店主に頼まれ、女給仲間とともに厨房見習いを護衛に連れて買い出しに出かけていた。ついでに市の外れに住む店主の縁者へ食料を届けていたのもあって、夕暮れに差し掛かった刻限に閑月の辻を通過することになったという。


 市の住人達に『閑月の辻』と呼ばれている四ツ角は、特に何てことのない辻でありながら、昔から『ヒトならざるモノが現れる』と度々噂になる場所だった。市の繁華な場所からも人家が集まる場所からも少しずつ離れていて、なぜかそこだけ人通りが極端に少ない陰気な場所であるからなのかもしれない。


『そんな刻限にいわくつきの場所を通るのは危ないって、みんな分かってはいたの。でも早くお店に帰りたくて、一番の近道がそこだったから……。三人で行動していたし、早く通り抜けてしまえば何もないはずだって、みんなで話し合って閑月の辻を通ることにしたのよ』


 最初に男の存在に気付いたのは、連れの女給だったという。『璃琳姐さん、見て』という声につられて璃琳が辻の角に目を向けると、辻の角に立った男が足元で人形を遊ばせていた。


 それが人形であると分かったのは、ただの人にしては小さすぎたからだ。頭の先が男の膝下くらいまでしかないのに、スラリとした体躯は成人のものだった。


 そんな明らかにパッと見て人形だと分かるモノが、まるで生きているかのように男の足元で美しく舞っていた。フワリと広がる紅の装束から、その人形が花嫁人形だと分かったという。


【ねぇ、璃琳姐さん。あれ、もしかして屑箱雑技団じゃないかしら?】

【屑箱雑技団?】

【そう。絡繰人形がまるで生きてるみたいに芸を見せるのよ】


 女給仲間は近所の知り合いからその存在を聞いたのだという。


 日によって違う辻に立ち、絡繰人形で芸を見せる大道芸人。現れる辻はまちまちだが、芸を始めるのは必ず夕刻に差し掛かってから。絡繰人形があまりにも生々しく動くことと、芸が始まる時間帯が夕刻ということで不気味がられているが、みな口を揃えて『絡繰を操る腕は見事だった』と評するのだという。


【直接見られるなんて運がいいわ! ねぇ、璃琳姐さん、ちょっと見物していきましょうよ!】


 女給仲間は璃琳が止めるよりも早く男の方へ近寄っていってしまったので、なし崩しで璃琳と厨房見習いも足を止めることになった。


 だが璃琳は本音を言うと、とにかく早くその場から離れたくて仕方がなかった。


『何と言うか……男の存在に気付いてから、背筋がゾワゾワしていたのよ。風邪の引き始めみたいに、嫌な感じがして……』


 絡繰が見せる芸は、確かに見事だった。どこにも操り糸が見えず、男もただ腰の後ろで手を組んで立っているだけに見えるのに、花嫁人形はまるで生きているかのように優美に踊り続ける。


 そう、


 璃琳には、なぜかそんな確信があった。そのことにザッと全身の血が凍りつくような心地がした。


『不気味だったのは、絡繰人形だけじゃなかったの。それ以上に、そこにいた男が、私には気持ち悪いというか、薄気味悪く感じられて……』


 璃琳達が足を止めたからなのか、それまで人形に視線を向けていた男は、顔を上げるとニヤリと笑った。


 バサバサの振り乱された髪は、砂埃と脂にまみれて白っぽく見えた。暗色の衣は裾や袖がボロボロになっていて、身なりだけで言えば大道芸人よりも乞食に近い。


 だが璃琳が薄気味悪さを感じたのは、その身なりではなく、男の目であったという。


『変なたとえになるんだけど……死人に、地獄の底から笑いかけられたような……そんな気分になったの』


 男に笑みかけられた瞬間、璃琳の呼吸は凍りついた。なぜそんな反応をしたのか、理由は自分でも分からない。


 ただ、ここにいてはいけない、と。コイツには関わってはいけない、と。


 強烈に叫ぶ本能が命じるまま、次の瞬間璃琳は連れの女給と厨房見習いの手を取ってその場から脱兎の勢いで逃げ出していた。


 ──璃琳姐さんは、勘が鋭いからな。


 恐らく璃琳が感じていたモノのを目にした紅殷は、無言のまま瞳を剣呑に狭める。


 ──確かにこりゃ『三十六計逃げるにかず』って判断が正しいや。


 今、紅殷の目に映る世界では、この辻がまるごと瘴気の海に沈んでいた。瘴気の中心にいるのは、紅殷達の対角に陣取った男と、いつの間にかその足元に姿を現した花嫁人形だ。花嫁人形がフワリ、フワリと優雅に袖を翻すたびに、辻を満たした瘴気がねっとりと重くなっていく。


 ──この中に晶蘭を突っ込ませるのは危険すぎる。


 濃すぎる瘴気は晶蘭の視界にまで映り込んでいるのか、顔をしかめた晶蘭が息を詰めたのが分かった。それでも晶蘭はいつでも突撃命令に応えらるれるようにつかに被せた右手を剣から離そうとはしない。


 ──何者なんだ、この傀儡師くぐつし


 紅殷は警戒心を乗せた視線を男に据え続ける。


 その瞬間、フワリと男が顔を上げた。まるで紅殷の視線を辿るかのように顔を動かした男は、紅殷と視線を絡めるとニタリと笑う。


 隠身の術を見透かして、男は紅殷の視線を絡め取る。


 絡め取って、己が生み出した瘴気の海の中へ、紅殷達を引きずり出す。


「そこにいらっしゃることは、存じておりますよ」


 まるで地獄の泥を釜で煮詰めたかのような、そんなドロリと暗く不快な声だった。


 その声を紅殷が『聞いた』瞬間、紅殷が展開していた結界はパンッと弾けて消える。


「『金簪きんさん仙君せんくんしゅう紅殷様、『黒衣こくい剣神けんしんさい晶蘭様」


 ──俺の結界が、こんな簡単に突破された……!?


 それだけではない。相手はすでにこちらが何者であるかを知っている。


 紅殷は結界を破られてもあえて声を発しなかった。呼びかけられた名に応えてしまえば、それが己の名であると肯定してしまうことになる。腕のある巫覡ふげきに名を握られることは、命を握られることに等しい。


 警戒もあらわに、紅殷は男を無言のまま睨みつける。そんな紅殷の様子に、男はクツクツと笑ったようだった。


「まさかこんなに早くおいでになられるとは。あと数人は巫覡ふげきの命が必要かと思っておりましたが」


 男はユラリと右腕を上げると、フワリと紅殷の方へ振った。


「手間が省けましたな」

「っ!!」


 男の語尾にキンッと鋭い金属音が重なった。ハッと目をみはれば、いつの間にか紅殷をかばうように晶蘭が前に出ている。


 晶蘭の剣と火花を散らしているのは、どこからともなく現れた新たな絡繰人形だった。巫覡を思わせる装束を纏った初老の人形の手には、人形の身の丈には大きすぎる剣が握られている。恐らく妓楼の絡繰に仕込まれていた飛刀と同じ刃だ。


 ──こいつの狙いは、俺ってことかっ!?


 紅殷は帯に吊るしていた手鈴を左手で取ると、右手で懐から扇を抜いた。常に持ち歩いている祓魔具に力を流し込めば、それだけで紅殷の身からパッと黄金の燐光が散る。


 紅殷はバッと扇を広げると、腕ごと扇を振り抜きながら力強く手鈴を打ち鳴らした。


「『祓え』っ!!」


 その声に応えて、世界を流れる力が逆巻く。


 ブワリと湧き起こった黄金の燐光が、闇と瘴気を駆逐する。


 だが。


「っ!」


 ──一発で祓いきれなかったっ!?


 呪歌らしい呪歌を紡いでいないとはいえ、紅殷が全力を込めた修祓だ。大抵の魔怪がいまの一撃で消し飛ぶというのに、この辻はいまだに瘴気の底から抜け出していない。確かに多少は空気が軽くなったが、ねっとりとした闇がいまだに濃く停滞している。


「あぁ、いい。大変いい力だ」


 紅殷は奥歯を噛みしめると再び手鈴と扇を構える。


 そんな紅殷を対角から見遣り、男はうっそりと笑った。


「喰らえばさぞかし美味いのでしょうなぁ。我が手と糸で操ることができれば、さぞかし美しいのでしょうなぁ」

「っ……!」


 獣のようなその笑みに、紅殷の背筋に悪寒が走る。筆頭巫覡としていくつもの修羅場をくぐり抜けてきた紅殷が、名も知らぬ傀儡師に戦慄している。


「そぅら、踊れ」


 そんな紅殷の反応に気付いているのか、男はさらにユラリ、ユラリと両腕を振った。その袖の下からポロポロとこぼれ落ちるかのように姿を現した新たな人形が、俊敏な動きで晶蘭に襲いかかる。


ランっ!」

「問題ありません! あなたは瘴気の修祓に集中してくださいっ!」


 新たに追加された三体の人形はいずれも若い男を模していた。先に現れた初老の人形と似たような装束を着付けている。腕に抱えるように所持している飛刀も同じ物だ。


 紅殷を庇うように数歩前へ出た晶蘭は、剣一本で四体の人形からの攻撃を危なげなく捌いている。だが人形を破壊できるほどの余裕はないようだった。人形達は刃がかち合った衝撃を上手く利用して、晶蘭の刃が本体に届くよりも早く間合いの外へ逃げていく。ちょこまかと素早い動きと的の小ささが相まって、晶蘭は決定打を出し損ねているようだった。


 ──何なんだよ、あの動き。


 手鈴を高らかに打ち鳴らしながら、紅殷は人形達に目を凝らす。


 ──明らかに『絡繰人形』の域を越えてる。


 滑らかで素早い動きはもはや人のものだった。いや、人以上の俊敏さは、むしろ獣に近い。まるで猿回しの曲芸でも相手にしている気分だ。


 ──猿回し?


 不意に、その言葉が引っかかった。記憶の中で何かがチカリと光って存在を主張したかのような違和感に、紅殷の意識が一瞬この場かられる。


「っ!? コウっ!!」


 その隙を、屑箱雑技団は見逃さない。


 今まで晶蘭しか標的にしていなかった人形達が、一瞬で標的を紅殷に切り替える。ヒトにも獣にもできない、まるで体に繋げられた糸を引っ張られて無理やり軌道を変えられたかのような無茶苦茶な動きで、絡繰人形達が紅殷に飛びかかる。


 叩くような晶蘭の声にハッと我に返った紅殷だったが、できることは扇と手鈴を喉元まで跳ね上げることくらいしかなかった。反射的に祓魔の燐光が渦巻くが、それが物理的な力を生み出すよりも絡繰達の刃が体に届く方が早い。


「……っ!」


 闇の中でも分かる鮮烈な赤い飛沫が宙を舞う。


 だが紅殷の体に痛みが走ることはなかった。


「っ、蘭っ!?」


 正面から迫った二体は剣によって斬り伏せられた。


 だが右足元からの攻撃は晶蘭の足が。左足元からの攻撃は晶蘭の左腕が。それぞれ紅殷の代わりに攻撃を受けて血をしぶかせていた。


「……っ!!」


 それでも歯を食いしばって攻撃を耐えきった晶蘭は、右肩を引いて紅殷を後ろへ押しやると、自身は我が身をおとりにするかのようにさらに前へ出る。そんな晶蘭のことを『弱った獲物』と認識したのか、一度紅殷に狙いを定めたはずである絡繰人形が再び晶蘭へ斬りかかった。


 その、光景に。


 胸が騒ぐよりも早く。恐怖が意識を焼くよりも早く。


 紅殷の中で、プツンッと、が切れた。


「───────っ!!」


 のどから勝手にほとばしった絶叫が何と言っていたのかは、自分でも分からない。


 ただその絶叫とともに、ズルリと世界が組み替えられたことは分かった。紅殷が激情のままに力を振るえば、世界の方がことわりを曲げてひれ伏していく。


 閑月の辻は一瞬で瘴気が喰い散らかされ、黄金の奔流に塗り替えられていた。ハッと紅殷を振り返った晶蘭が目を丸くしてから焦りに顔を歪める。燐光になぶられた晶蘭の体からは、傷はおろか衣服を染めた血痕さえかき消されていた。


「紅っ!! ダメだ、そんな力の使い方をしたら……っ!!」


 すぐ目の前に晶蘭がいるはずなのに、声も伸ばされた手も酷く遠く感じた。


 ゆるく水の膜に閉じ込められたかのように意識も感覚もおぼろげなまま、紅殷は閉じた扇の先を対角に立つ男へ向ける。紅殷の強大な力に無理やり引き抜かれた地脈の霊気が、その動きに合わせて頭をもたげた。黄金の龍の形に凝った霊気に触れた瞬間、刃を握った絡繰も、花嫁装束に身を包んだ絡繰も、ヒトのように断末魔を上げながらボロボロと崩れ落ちていく。


「素晴らしい……」


 曖昧に溶けた意識を霊気の中に遊ばせながら、紅殷はヒタと男を見据えていた。もはや紅殷の体を御しているのが自分なのか、自我なき地脈の意思なのかさえ分からない。


 それでも、男が唇を大きく吊り上げて笑う様は『不快』だった。


「それがの……ヒトの規格に収まる器ではないと言われたお前の本質か、金簪仙君っ!!」


 ツイッと、その不快が吊り上げられた眉の動きに現れた。それに気付いたからなのか、晶蘭がさらに声を張り上げる。


「紅っ! 紅、私の声を聞いてくださいっ!! 紅っ!!」


 心地よいはずである声は酷く遠くて『紅殷』にかせめるには弱く、不快な声はあまりにも強く意識を逆撫でる。


 結果、意識のどこかで『マズい』と分かっていながらも、紅殷は衝動に突き動かされたまま、地脈に繋がった力をうごめかせた。


 命を降すために、腕が振り上げられる。


『何してる! こんのアホ弟子っ!!』


 だがその腕が振り下ろされるよりも、炎を連想させる橙色の燐光が目の前で炸裂する方が早かった。


『衝動のままに都の地脈を枯渇させるつもりかっ!? このド阿呆がっ!!』

「……っ!?」


 上から叩きつけられた橙色の霊力は、黄金の燐光を瞬時に吸い上げると大地に潜り込んでいく。その霊力の動きとどこからともなく響く容赦のない罵声にハッと紅殷が我に返った時には、紅殷と晶蘭を中心として地面に光で陣が描かれていた。


 ──転送陣っ!?


 その陣の意味を瞬時に理解した紅殷は、晶蘭に駆け寄るときつく腕を掴む。同時に傀儡師の男を見やれば、驚きに目を瞠っていた男がネチャリと粘度の高い笑みを浮かべた。


 そのひび割れた唇が、やけにゆったりと動いたような気がした。


『とっとと戻ってこんかい、この未熟者どもがっ!!』


 だが紅殷の耳が声を拾うよりも、陣が発動される方がわずかに早い。


 橙の燐光が再び炸裂する。その眩しさに思わず空いている腕で目元を庇った瞬間、周囲を取り巻く空気が一瞬ですり替わった。


 雑多な気配が……土のにおいや風の流れといった『世界を構築する要素』が場から排除された次の瞬間、紅殷の体は冷たい空気の中に放り出される。ふらついた体を支えてくれたのは、晶蘭の腕だった。


「……ったく。勝手に飛び出して行きやがったと思ったら、なーに勝手に都の地脈をかき乱してやがんだ、このアホンダラ」


 燐光に焼かれてチカチカと明滅する視界を、必死に目をしばたたかせて立て直す。


 そんな紅殷の耳に、地の底から響くような低い声と、相反するかのように軽やかに響く衣擦れの音が届いた。その声に紅殷は晶蘭の腕にすがったまま必死に顔を上げる。


 そしてそこに『玉仙宮の白』の存在を見た。


「テメェはテメェの感情ひとつで世界を滅ぼせるんだって自覚しとけって、いっつも言ってんだろうがよ」


 高い天井から白い薄絹のとばりが幾重にも垂らされた、八角形の広場の中心だった。痛いほどに場に満ちた霊気と清涼な空気で、ここが玉仙宮の奥殿に繋がる儀式の間のひとつだと分かる。


 その広場の一辺には、上から階段が降りてきていた。


 その階段の前に、雪精が人の形を得たかのような麗人がたたずんでいる。


 雪のように白い髪は、金のこうがいかんざしによって結い上げられていても身丈を覆うほどに長く、碧玉をはめ込んだような瞳は苛烈な光を宿して上から紅殷を見下ろしていた。


 女のように美しい顔立ちはよく仙女にたとえられるらしいが、はすな言葉遣いも物騒な表情もドスの利いた声も、今は何もかもが仙女からはほど遠い。


 ちなみにこちらの下街の兄貴然とした空気の方が素だ。一歩でも玉仙宮から出れば完璧に猫を被ってみせるが、その実親しい人間には本来の性格を隠す気すら見せない。


異人いじん真君しんくん』、ばく碧秀へきしゅう


 玉仙宮の長として、『玉仙国師』の名でその存在を知られる、紅殷の師であり養父である人物がそこにいた。


「国師! あとちょっとで……っ!!」

「『あとちょっとで』何だ? ア? 国を吹っ飛ばせたか? ざっけんなよ、クソガキ」


 反射的に食ってかかった紅殷を国師は冷ややかに切り捨てる。その言葉に思わず体が前に出かけた紅殷を、晶蘭が支える腕に力を込めて必死に引き留めていた。その力にハッと我に返った紅殷は、晶蘭の腕にすがりながら必死に口を開く。


「違う! あいつが幽鬼事件の裏で糸を引いている黒幕に間違いないんだっ! あとちょっとで事件を解決できたかも……」

「それはお前の仕事じゃねぇだろ」

「でも……っ!」

「秋紅殷。俺は常々言ってるはずだ。『己の立場を忘れるな』と」


 暗に『なぜ止めた』と責める紅殷を、国師はさらにバッサリと切り捨てた。


 純白の地に金と橙の糸で刺繍が施された豪奢な巫覡装束を纏った国師は、その装束に酷く似つかない婀娜あだな立ち姿で腕を組みながら、装束にも立ち居振る舞いにもそぐわない為政者としての言葉を口にする。


「テメェが立つ場所は、現場なんかじゃねぇ。皇帝のつむじさえ見下ろす祭壇の上。お前がいなきゃなんねぇのはそこで、テメェが耳を傾けなきゃなんねぇのは天から降ってくる声だ。地面近くで泣き喚く虫どもの声じゃねぇんだよ」

「……っ!」


 その言葉に、再び怒りが意識を焼く。


 そうでありながら閑月の辻の二の舞を演じずに済んだのは、ひとえに晶蘭が紅殷を抱きとめてくれていたからだった。震える晶蘭の腕が『今は抑えて』と訴えていたからだった。


「ちったぁ頭を冷やせ。頭が冷えるまで奥殿からは出てくんな」


 その言葉は、謹慎命令に他ならない。それを一方的に叩きつけた国師は、紅殷からの反論を受け付けないまま身を翻し、カツカツと階段を登って姿を消してしまう。


「……クッソ…………!」


 無意識のうちに地脈と同期した感覚が逃げ道を探していたが、奥殿に張り巡らされた結界は逃げ出せそうな穴がどこにも見つからなかった。


 意地を張ってここでわめき続けても誰にも声は届かないだろう。もはや紅殷に残された道は『大人しく己の御所に戻る』というものしかなかった。


「〜〜〜〜〜っ!! クッソォォォオオッ!!」


 怒りを載せて、紅殷は腹の底からありったけの声を張る。


 だがそれに応える声はなく、ただ周囲に張り巡らされた帳だけが、さざめくように揺れていた。

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