故きを温ねて新しきを知らば

汝が力は誰が為に有らん

 玉仙宮ぎょくせんぐうは、国と皇帝一族を守護するために置かれた、巫覡ふげきつどう宮である。


 場所としては王城の内、集団としては三省六部とは完全に独立した地位にある。おさは代々『玉仙国師』を名乗り、玉仙宮に集う巫覡達に修行をつけ、有事の際はそのわざもって国と皇帝を守ることを責務としている。


 そう、玉仙宮の長は、あくまで『玉仙国師』なのだ。


 当代は例外的に『筆頭巫覡』と呼ばれる金簪きんさん仙君せんくんが存在していてそちらにばかり注目が集まっているが、地位で言えば金簪仙君よりも玉仙国師の方が上である。そんな相手がさらに師匠であり養父であるともなれば、逆らえる余地など微塵も残されていない。


 というわけで、せめてもの反抗として紅殷こういんは修行を放棄して寝台の中に引きこもっていた。


「殿下、そろそろご起床を……」

「……さい晶蘭しょうらんをここに召せ」

「先程も申し上げました。采武官も自室にて蟄居を命じられております」

「采晶蘭をここに召せ」

「ですから、采武官は殿下との接触を禁じられておりまして……」

「采晶蘭が来ないなら、私もここから出ない。下がれ」

「しかし」

「下がれと言っている」

「では朝食だけでも……」

「聞こえなかったのか? 下がれと言っている」


 紅殷が頑なに言い張ると、近習はようやく頭を下げて退出していった。


 恐らく向こうは、寝台に垂らされた薄絹の内側からでも案外室内の様子が分かることに気付いていない。そうでなければあんなに分かりやすく『やれやれ、仕方がないですね』と言わんばかりの表情を浮かべるはずがないのだから。


 ──いや、案外分かってても変わらないかもな。


 室内から完全に人の気配が消えたことを確かめ、紅殷は広い寝台に大の字になるように手足を広げた。ぼんやりと寝台の天井を眺めていると、差し込む光と薄絹が作る影が微かな風にユラユラと揺れているのが分かる。


 ──晶蘭、今頃何してっかな……


 せめて日課の鍛錬くらいは許されているといいのだが。紅殷の我が儘に巻き込まれてしまっただけで、晶蘭自身に否はないのだから。


 そんなことを考えながら、紅殷はぼんやりと天井を眺め続ける。


 強制送還から一夜が明けた。国師への怒りが鎮火した今は、虚しさが紅殷の胸を埋めている。


 巫覡の修行道場でもある玉仙宮では、常に清浄な気が保たれている。玉仙国師や金簪仙君の御所が置かれた奥殿ともなれば、幾重にも結界が張り巡らされ、いかなる不浄の存在をも許さないという気構えが見て取れた。


 華美でこそないが格調高く整えられた宮内の様と相まって、玉仙宮の内部は外部から『まるで神仙の世界を体現したかのような』と言い表されているらしい。


 だが紅殷に言わせれば、こんなものはただのハリボテだ。清く澄んで動きがない玉仙宮の中よりも、ゴチャゴチャと無秩序に清濁が混ぜ合わざり、その中から常に生命を弾けさせている市井の方が、紅殷の目には余程美しく思える。


 ──……所詮しょせんここじゃ、俺自身だって『置物』だ。


 この美しいだけで虚しい世界の空気に身をひたしていると、どんどん心が削り取られていくような気がした。サリサリと『紅殷』という存在に中心からヤスリがかけられていって、最後には『金簪仙君』という外側の輪郭部分だけが残されるのではないかと、そんな妄想が頭にこびりついて離れてくれない。


 ──実際、ここに詰めた人間は、それでもいいんだろうな。


 玉仙宮の奥深く。


 そこに『金簪仙君』という形をしたモノが座していさえすれば、たとえ中身が空っぽであっても、その伽藍洞がらんどうの中に得体の知れない『何か』が入り込んでいても、きっと誰も気になどしないのだろう。だから紅殷が度々変わり身の幻影を残してお忍びに出ていても、数日程度の不在ならば誰も気付かない。


 そう、采晶蘭という幼馴染を除けば。


「……」


 ぼんやりとそんなことを思った紅殷は、額に左手の甲を乗せながら小さく呟いた。


「なぁ、蘭蘭」


 我ながら情けない声が出たなと思った。


 それでも言葉は止まらない。


「お前がいないと、つまんねぇよ」


 そうでありながら、こぼれ出てきた言葉は虚勢にまみれている。


「お前に見つけてもらえないと、『紅殷』が消えちまいそうだよ、蘭蘭」


 小さく呟きながら、ゆるゆると瞼を閉じる。


 その眼裏まなうらに、今でも鮮やかに思い出せる光景がよぎった。




  ※  ※  ※




コウっ!」


 温かい春の午後のことだった。


 修祓現場から玉仙宮に戻った直後だった。齢八つに届かない幼子でありながら、すでに紅殷は現場に投入されていて、かつ大人顔負けの腕を振るう一端の巫覡だった。


 その日は玉仙宮が扱う案件にしては珍しく荒事を伴う現場で、多数の怪我人が出ていた。仲間を迎えに出てきた人間が怪我人に肩を貸し、三々五々に人が散っていく様を、紅殷は誰にも迎え入れてもらえないまま、ただ独り無言で見つめていた。


 迎えに出てきた人間は、誰も紅殷など目に入っていなかった。目の前に怪我をしている親しい同朋がいれば、皆そちらに目を奪われる。


 別に今回に限った話ではない。たとえ普段どれだけ皆に敬われ、注目を集めていようとも、玉仙宮で紅殷は独りぼっちだ。


 皆が見ているのは『当代皇帝第三皇子』という肩書きや、類稀たぐいまれなその素質だけ。現場が片付けば、そして何かに気を取られれば、紅殷の存在など彼らの眼中から消え失せる。修祓を簡単に終わらせ、自己治癒術に優れているおかげで手入れの手間がない、ありがたい宝器のような存在なのだろう。


 ──まるで、便利道具か、強大な武器か。


 あるいは縁起物か厄除け人形。


 同じだけの効能があれば、ここにいるのが紅殷でなくとも、誰も構わない。


 諦観とも言えるその感覚は、すでに紅殷の中に染み付いていた。


 だから紅殷はその日も、誰にも迎え入れてもらうことなく、独りで己の御所へ戻るべく身を翻したのだ。 


 ──私は、ここで、独りぼっち。


 いや、きっと。玉仙宮ここの中だけでなく、広い世界へ解き放たれたとしても。


 きっと自分は、果てしなく独りなのだろう。


 そのことを、紅殷はすでにその歳にして覚っていた。実の父母でさえ持て余した存在だ。まだ人の世の役に立つだけマシなのだろうと、皮肉ることなく心底本気で思っていた。


「紅! 待って!」


 だからこそ。


 そんな風に呼びかけられていた相手が自分自身であったのだと、まったく気付くことができなかった。


「待ってったら……待ってください! えっと、殿下!?」


 若干疑問形なのが気になったが、ひとまずこの玉仙宮で『殿下』と呼びかけられる存在は自分しかいない。


 ああ、呼ばれていたのは自分だったのか、と思いながら足を止めて振り返ると、そこにいたのは自分とそう歳も変わらないだろうと思われる少年だった。暗色の衣に武具を纏うのは護衛武官の証だ。


 そういえば今日初陣を迎える護衛武官がいると、誰かが話しているのを耳にしたような気がした。それがこいつなのだろうか。初陣であったとしても、自分とそう歳も変わらないだろう幼い身で戦場へ出されるとはと、紅殷は自分を棚に上げて考えていたような気がする。


 それをよく覚えていないのは、追いついた少年がいきなり紅殷の腕を掴み、予想もしていなかった言葉を発したからだった。


「ケガしてただろ? 手当てもまだなのに、どこへ行こうとするの?」


 一瞬、こいつは何を言っているのかと思った。


 ケガ? ケガなどしていない。確かに修祓中に多少の傷は負ったが、それらはもう己が操る治癒術で完璧に治っている。痛みもなければ、手当ての必要もない。そんなこと、玉仙宮に身を置く人間ならば誰しもが『当たり前のこと』として知っているはずのことだ。


 玉仙国師の愛弟子は、金龍の化身。ヒトの身で生まれておきながら、ヒトの器に納まりきらなかったモノ。


 誰よりも強い力を持つモノならば、守る必要も治す必要もない。


「でもさ、ケガすれば痛いってことは、みんなと一緒だろ?」


 だというのに目の前の少年は、心底不思議そうに首を傾げた。


「紅だって、同じ人間だろ? だったら『ケガをすれば痛い』なんて、当たり前のことじゃないか」


 傷を負えば痛い。治っても時々ズキズキする。自分は鍛錬でよくケガをするから知っている。


 痛いならば手当てをしなければ。たとえ傷そのものは消えていたとしても、手当てをおこたればその痛みはずっと先々まで引きずることになる。


「それに、体の傷はすぐに癒えても、心の傷はすぐに癒えないだろ?」


 紅殷の腕を取ったまま、少年は真っ直ぐにそう言った。紅殷はなぜかその真っ直ぐな視線を受け止められなくて、逃げるようにうつむいたことを覚えている。


「私は、心に傷なんて」

「え? 痛いとか、怖いとか、紅は思わなかったのか?」

「……別に」

「すごいな! 俺は紅よりふたつも年上なのに、痛くて怖くて仕方がなかった!」


 初陣なのだから、当たり前だ。対して紅殷はもうすでに何度も現場に出ていて、切り札として扱われているような存在なのだ。そんな自分がこれしきのことで音を上げてどうする。


 ──それに、私が何を思ったって……


「紅だって、俺と一緒なのに。紅はすごいな!」


 独りぼっちで。同じヒトとして扱われない。


 そんな自分の情けない泣き言なんて、きっとこぼしたところで誰も聞いてくれない。あいつらは、自分に都合のいい言葉しか聞き取れない。きっと笑顔でなかったことにされる。


 そう考えていたはずだった。どんな言葉を向けられても、冷笑とともに切り捨てるつもりだった。


 そう思っていたはずなのに、向けられた言葉に無防備に目を丸くしてしまったのは、あまりにもその言葉が温かかったからだ。


 まるで同じヒトに言葉を向けているかのように……まるで自分と紅殷が同じ立場にあるかのように、相手が血の通った言葉を紅殷に向けてくれたからだった。


「でもさ。やっぱケガをした瞬間ってのは、当たり前に痛いだろ?」


 その驚きに顔を跳ね上げた紅殷は、少年の真っ直ぐな視線に射すくめられて、思わず素直に頷いてしまった。


 そんな紅殷に、少年は心配そうにひそめていた眉をパッと開くと、ニコニコと笑って頷き返す。


「だよな。だったらやっぱり『痛かった』ってのは、誰かに伝えとかなきゃ! イヤなことがあったんだって、みんなに知ってもらわなきゃ!」


 そう言った少年は、改めて紅殷の手を取ると紅殷が独りで来た道を引き返すように走り始めた。その勢いに引きずられるように走り出しながら、紅殷は裏返った声を上げる。


「つ、伝えるって、誰に」

「ケガを見てくれるのは、医官の先生だろ?」

「い、医官は今、たくさんの怪我人を見ていて忙しい。それに、私のケガは治っている!」

「じゃあ玉仙国師のところだ!」

「国師は修祓報告を聞くのに忙しいはず……」

「でもそれって、後からでも大丈夫だろ?」


 少年は紅殷の手を引いて走りながら、心底分からないといった顔で首を傾げた。少なくない負傷者が出た修祓の報告よりも、もう治ってしまった紅殷のケガが痛かったのだという話の方が重要であると信じて疑っていない顔だった。


「紅の気持ちを知ってもらう方が、大事に決まってる」


 名も知らない少年は、迷いなくそう断じてくれた。その時初めて紅殷は、誰かに『紅殷』として扱ってもらった。


「……っ」


 そこから生まれる気持ちが何なのか分からなかった。分からないまま、紅殷は気付いた時には泣いていた。手を引く少年がしばらく気付かなかったくらいに、走りながら静かに泣いていた。


 嗚咽おえつさえこぼさず泣いていた紅殷にしばらくしてから気付いた少年は、ギョッと目をみはるとオロオロと紅殷を気遣ってくれた。それにさらに心がグチャグチャになって、紅殷は物心ついてから初めて声を上げて号泣した。そんな紅殷を投げ出すことなく、人を呼ぶこともなく、少年はただただ不器用に紅殷の背中をさすりながら、ずっと傍にいてくれた。


「私の名前は、しゅう紅殷。『紅』という呼び名は、修祓現場で魔怪に名を握られないように使われる……愛称みたいなものだ」


 その仮の名でも滅多に呼ばれることはなく、大抵の人間は『殿下』と無機質に紅殷のことを呼ぶけれども。


「私のことは、紅殷と呼んで」


 何とか涙を引っ込めた紅殷が言葉を詰まらせながら伝えると、少年は一度目を丸くしてからニコニコと笑ってくれた。


「分かった! 俺は采晶蘭っていうんだ」

「しょう、らん?」

「ああ。現場での呼び名は『蘭』だ。でも俺も、紅殷には『晶蘭』って呼んでもらいたい」


 そう言って笑って、少年は……護衛武官見習いの晶蘭は、歳の割に固くて分厚い手で、紅殷の手をギュッと握ってくれた。




 その日の夜、紅殷は生まれて初めて師父であり養父である玉仙国師に駄々をごねた。


 今まで感情の機微さえわずかにしか見せず、周囲の言葉に従順に従ってきた紅殷が三日三晩に渡ってごねた駄々は凄まじく、その時の玉仙国師とのやり取りは後に『玉仙宮の筆頭巫覡にして筆頭問題児』に成長する紅殷の武勇伝の始まりを華々しく飾ることになる。


 結果、御学友兼専属護衛、紅殷の未来の相方候補として采晶蘭が紅殷の御所に召されたのは、紅殷と晶蘭が出会って四日後のことだった。




  ※  ※  ※




「おい、起きろ、クソ弟子」


 いつの間にか、心地よい夢に包まれていたらしい。


 春の陽だまりのように温かい夢を破ったのは、無粋にも程がある氷柱つららのように冷たくて尖った声だった。


「起床の刻限はとうの昔に過ぎてんだよ。いつから師匠よりも寝ていていい御身分になりやがったんだ、ア?」

「……繊細なオトシゴロの弟子の部屋に無断で踏み込んでんじゃねぇよ、クソ師匠」


 投げ込まれる容赦のない暴言に紅殷も暴言をもって返す。第三者に聞かれたら聞いた人間の顔面からもれなく血の気が失せるであろうやり取りだが、紅殷と玉仙国師の私的なやり取りは普段からこんな感じだ。晶蘭ならば双方の物言いに呆れの溜め息をこぼしたことだろう。


 紅殷は寝台から体を起こすことなく、額に乗せた腕をわずかに上にずらして声の方を見やる。


 かなり近い場所から聞こえるなとは思っていたが、案の定国師は紗幕のすぐ向こう側にいた。これだけ距離が近ければ、紗幕越しでも国師には紅殷の表情が見えているはずだ。


「今日の俺は寝台から出ませーん。出ないったら出ないー。俺を引きずり出したいなら晶蘭を連れてきてくださーい」

「テメェと晶蘭を一緒に置いといたら、性懲りもなくまたこっから逃亡すんだろうよ」


 その通りであるし、国師がその展開を予測しているからこそこうなっていることも分かっている。ただそのことを素直に肯定するのはしゃくに障る。


 結果、紅殷は無言のままモソリと国師に背を向けるように寝返りを打った。その反抗的な態度に国師が舌打ちをしたのが分かったから、紅殷も同じように舌打ちを返してやった。


「お前な。あのままお前にやりたい放題させてたらどうなってたか、お前だって分かってねぇわけじゃねぇだろ」


 深い溜め息の後に続いた国師の言葉にはたしなめるような色が見えた。国師も国師で一晩おいたことで苛立ちが鎮火したのだろう。血は繋がっていないのにこういうところは似てるんだよなと、紅殷は面白くない気持ちを持て余す。


「プッツン切れたお前に国をメチャクチャにされてみろ。常日頃、お前が必死に守ろうとしてる民は、お前のことをどう思う?」

「……別に、どう思われてようが」

「んじゃテメェの力の暴走に巻き込まれた晶蘭に何かあったら? お前、バチボコ凹んでしばらく再起不能だろうよ」


 さらに続けられた言葉に、紅殷はムッツリと黙り込んだ。黙秘はすなわち肯定と同義だが、これ以上の妙手が今の紅殷には見つけられない。


「ついでに言やぁ、民に手のひら返されることをお前は気にしなくても、きっと晶蘭は気に病むだろうな」


 滔々とうとうと続けられる言葉に何も感じないと言えば嘘になるが、反応を示せば国師の思うツボだ。己にそう言い聞かせて紅殷はかたくなに無反応を貫く。


 だがそんな紅殷の心の内まで読めているのか、国師の言葉はすぐに無視できないものに変わった。


「そもそもお前、あの状況でゴリ押しかまして勝てると思ってたのか? 明らかに誘導されてただろうがよ。相手はお前をあの状態に誘い込むことが目的で」

「っ、状況が分かってたなら!」


 反射的に紅殷は跳ね起きていた。振り返ってギッと国師を睨みつければ、紗幕の向こうに冷めた碧玉の瞳が見える。


「何でもっと早く手を打とうとしなかったんだよっ!? あんなことになってたのに、何で放置するような真似を……っ!」

「俺が見てたのはテメェの行動であって、事件そのものじゃねぇんだよ」


 紅殷が声を荒げても、国師の声は冷めたままだった。間に挟まれた紗幕の方が、驚いたかのようにわずかに身を揺らす。


 その反応に、紅殷の中でさらに怒りが募った。


「それでも事件のヤバさは分かっただろっ!?」

「紅殷。いくら俺が玉仙宮の長で、玉仙宮を象徴する巫覡の一人であっても、守ることができる対象は有限だ。守らなければならないモノから優先して守らねぇと、いくら腕があっても足りねぇんだよ」

「……っ、数多の民よりも、俺一人の方が重いってのかよっ!?」


 淡々とさとす声が正しいことを言っているのだということは分かっていた。


 だがそれでも紅殷は引き下がれない。


 ──そんな理屈で選別してたら、見捨てられた民はどうなるんだよっ!?


 紅殷は、この目で現場を見た。救われない幽鬼を見た。その背後に黒幕がいて、何やら思惑を抱えていることを知った。


 あれを放置すれば、必ず次の被害者が生まれる。そもそもあの幽鬼と廃墟街を玉仙宮が見てみないフリをしていなければ、こんな事件はそもそも生まれなかったかもしれない。


 紅殷が動いたことで、それが分かった。紅殷が晶蘭と一緒に動けば、一連の事件は解決できる。紅殷達が出ることに問題があるならば、他の巫覡を遣わしたっていい。玉仙宮全体を見回せば、事件を解決できるだけの実力を持つ者は他にもいるはずだ。


 だが国師はそれをしようとはしなかった。


 すなわちそれは、国師がこの事件を捨て置くという判断をしたということに他ならない。


「国を守護する玉仙宮の判断がそれでいいのかよっ!?」

「ああ、間違っちゃいないね」


 紅殷は一切の容赦なく怒りを己の声に乗せる。


 だが並の巫覡ならば当てられただけで血の気を失うような怒りの波を正面から受けても、国師はその柳眉を動かすことさえしなかった。


「テメェは俺の愛弟子で、俺の親友ダチの息子だからな」


 それは国師の中に何があってもブレない芯があるからだということを、紅殷は前々から知っている。


 普段は紅殷以上に感情の起伏が激しくて、言葉も悪くてすぐに同じ土俵でギャースカ言い合いになるこの養父が、この一件を語る時だけ、どんな時でも静かな声を用いることを、知っている。


「紅殷。俺に血の繋がった家族はいねぇ。『家族』って概念を、俺は分かってねぇのかもしれねぇ。……だが俺は、お前を息子だと思って特別執着してる自覚がある。そしてあいつはそれ以上の『特別』だ」


 知ってはいるが、紅殷はいつもこの言葉を、どんな顔をして聞けばいいのか分からない。


「俺はあいつから『息子を頼む』という言葉とともにテメェを預かった。そんなテメェの身の安全を、放っといても問題ない事件より優先して何が悪い」


 だから紅殷は今日も盛大に顔をしかめて、胸の内に渦巻く様々な感情を押し隠す。


「……あの方は、俺を厄介払いしたかっただけだろ」

「周囲から憎まれ、恐れられるようになる前に、お前が『正しい存在』『正義の味方』として受け入れてもらえる場所にお前を逃がした。……俺はそう解釈してるよ」


 そう語った瞬間、国師の目元がいつになく柔らかく緩んだのが分かった。その脳裏に浮かんでいるのはきっと、紅殷の血縁上の父である当代皇帝の姿なのだろう。


 ──国師って、こんな顔見せるくせに『愛してる』とは口が裂けても言わねぇんだよな。


『皇帝』だの『顔見知り』だのと呼ばれる相手を思い浮かべたにしては情がこもりすぎた顔に、紅殷は内心だけで唇を尖らせる。


 当代皇帝は即位するまで国師の専属護衛をしていたらしい。『なぜ皇帝になるような者が玉仙宮の護衛武官などをしていたのか』という話になるとかなり複雑な事情があるらしいのだが、簡単にまとめると『血筋と権力的に当代皇帝が玉座に座る可能性はほぼなかった』という話に帰結するそうだ。母親が玉仙宮の巫覡だったとか何とかで、皇帝は幼い頃から皇族というよりも玉仙宮の護衛武官として育てられたらしい。


 ──護衛武官見習いをしていた陛下が、奴隷商から逃げ出し損ねて殺されそうになってた国師を助けたって話だよな? とりあえず保護目的で玉仙宮に連れ帰ったらメッチャ素質があるって発覚して、先代国師が磨いてみたらバカみたいな宝玉だったって話だったっけ?


 白髪碧眼という人目を引く色彩は、国師が生まれながらに宿していた色であるらしい。


 国師が持つ『異人いじん真君しんくん』という二つ名は、芙颯ふそうの民とは違う色彩を宿すばく碧秀へきしゅうへ向けられる敬意と侮蔑、畏怖の象徴だ。


 そこには国師がどこの生まれともつかない卑賤の身であることを揶揄やゆする響きや、芙颯の民とは異なる色彩や整いすぎた容貌への恐れが込められている。紅殷へ手向けられた『金簪きんさん仙君せんくん』という煌びやかな名とは、つけられた経緯が真逆と言えるほどに違う名だ。


 だが国師は、その二つ名を気に入っているという。


 その理由を以前の紅殷は、恐れながら、嘲りながら、それでも己を筆頭巫覡として祀り上げる周囲への盛大な皮肉なのかと勘ぐっていた。


 だがどうやらそうではなかったらしいと、今は知っている。


 ──『玉仙宮の白銀』の由来……陛下と共に過ごした時間の証、だから。


 実力が釣り合ったこと以上に、互いに馬が合った。さらに国師が皇帝に懐いたこともあり、国師が巫覡としての頭角を現すと二人はすぐに無二の相方になったという話だ。皇帝と国師の対は『玉仙宮の白銀』と讃えられ、先代の筆頭巫覡と言えばこの一対であったらしい。


 とにかく気が合った二人は、今の紅殷と晶蘭以上につるんでは好き勝手に妖魔奇怪を蹴散らしまくったという話だ。皇帝は国師を指して『俺の白雪』と呼び、国師は皇帝を指して『私の銀閃』と呼んでいた。そんな胸焼けしそうな呼び名から『玉仙宮の白銀』という二つ名はできたという。


 しかし何やかんやあって皇帝は玉座を継ぐために王城へ連れ戻され、相方関係は解消された。


 一人玉仙宮に残された国師は巫覡として皇帝を支えることを決意し、それまで大して興味もなかった玉仙宮の覇権争いに身を投じた。素である時は気品の『き』の字もなく、豪奢な装束も書類仕事も心底嫌いな国師が『国師』を真面目に務めているのも、当人いわく全ては皇帝への『執着』によるものらしい。


「お前を息子と思ってなけりゃ、あいつはわざわざ労をってまで俺に頭を下げには来ねぇよ」


 ──ここに俺を押し込んでから一度も会いに来たことねぇ人間が、俺を愛してるとは思えねぇんだけども。


 本音を言えば、それしかない。


 紅殷にとって『陛下』は『陛下』でしかなく、記憶にある姿はどれも祭壇の上に登った自分にかしこまるべく頭を下げている姿ばかりだ。顔よりも頭に載せられた冠のてっぺんの方が見覚えがある。


 紅殷にとって『父』と呼べる存在は国師だけで、それ以上を紅殷は特に求めていない。自分の傍には晶蘭がいてくれる。ヒトとしての情を注いでくれる存在をそれ以上に求めるつもりもなかった。


 だが『あの御方は自分のことなど息子とは思っていない』と断じようと思っても、紅殷は『陛下』を知らなさすぎた。対する国師は陛下ではない『陛下』個人を知っている。晶蘭が『金簪仙君』ではなく『紅殷』を知っているように。


 ──向こうがどう思ってんのかは知らないけど、国師はいまだに一言じゃ収まりきらない感情を抱えてるみたいだし。


 国師はきっと『愛している』という感情や言葉を知らないわけではなくて。


 それ以上の、計り知れない感情を皇帝に向けていて、その感情と自身の生い立ちがあったからこそ紅殷を『紅殷』として養育してくれたのだろう。


 国師が言う『執着』はそういうものなのだろうと、紅殷は勝手に解釈している。


「ま、お前がどう思ってても、俺は別に構わねぇよ。俺がテメェら父子に勝手に執着して、国の命運よりテメェらの身の安全を優先してるってだけだからよ」


 そんな紅殷の複雑な内心までをも見透かしているかのように、国師は皮肉げに唇の端を吊り上げた。さらに続けられた言葉に紅殷は思わず苦言を呈す。


「仮にも国を守るためにいる『国師』が、堂々とそれを言っちゃマズいんじゃねぇの?」

「ちげぇねぇ!」


『ただし間違いなく本音だからなぁ!』と、国師はカラカラと笑った。そんな態度に紅殷はさらに何と言ったら良いのか分からない顔になる。


「てなわけだ。俺は今回、手は抜かねぇぞ」


 暗に『折れてやんねぇからな』と告げられた紅殷は、スッと剣呑に瞳をすがめた。


 国師は『現場を見て見ぬフリをしたまま紅殷を軟禁することをやめない。だからお前はそこに引きこもっていても無駄だ』と言っているのだ。そもそも国師がこの部屋に現れたのも、その宣告をするためだったのだろう。


「……晶蘭と俺の接触禁止は妥当な判断だと思います。俺が逆の立場でも、そうしたはずだ」


 紅殷は国師を見据えたまま慎重に言葉を紡いだ。


 国師に引く気がないことは嫌になるくらい分かった。国師の行動理念の真ん中に皇帝への想いと紅殷の安全があるのだ。国師としてその考え方はどうなのかという点はひとまず置いといて、国師が今回のことで紅殷に譲歩を示してくれることはまずないだろうということは理解できた。


 ならば、次に交渉すべきことは。


「ですが、晶蘭にまで蟄居を強いるのはやめていただけませんか。晶蘭から行動と鍛錬の自由を奪うことは、玉仙宮全体の不利益に繋がるはずだ」


 ──せめて晶蘭の自由は引き出さねぇと。


 要は紅殷さえ大人しくしていれば国師的には問題ないということだ。もちろん紅殷だって窮屈な生活を強いられたくはないが、紅殷の譲歩によってせめて晶蘭だけでも自由が得られるならばまだ我慢もできる。


 晶蘭が持つ肩書きは『金簪仙君専属護衛』だが、何も晶蘭は紅殷のためにしかその腕を振るわないというわけではない。有事の際、晶蘭の剣は玉仙宮全体のために振るわれる。


 禁軍の腕利き達と互角の勝負を成し、『玉仙宮の護衛武官にしておくには惜しい』と何度も引き抜きを持ちかけられている晶蘭の腕をつまらない理由で落とすなど誰の得にもならない。紅殷が願った話は、ただの我が儘などではないはずだ。


 そんな理論的な考えとともに紅殷は国師を見上げる。真っ直ぐに紅殷を見据える碧玉の瞳は凪いでいて、真正面からその視線を受け止めていても紅殷には国師の考えが読めなかった。


「……ハンッ」


 だが不意にその凪が揺らいで、碧玉の中に感情がにじむ。


「テメェらはほんっと、離して置いといても互いのことばっか気にかけてやがる」

「え?」


 国師の瞳をゆらめかせたのは、呆れと笑みだった。


 さらにその感情を顔中に広げた国師は、体を半身に捌きながら背後に置かれた文机を示す。


「晶蘭からの預かりもんだ」

「晶蘭から?」

「ここに来る前に、お前が市で暴れた詳細を聞きに部屋に顔を出したら、あいつ、よりにもよってこの俺に配達係を押し付けやがった」


 綺麗に片付けられていたはずである文机の上には、巻物や冊子がいくつか積まれていた。これだけの書をまとめて一気に押し付けられたのならば、かなり重たかったに違いない。


「さらにあいつはこう言いやがったね。『殿下と私の接触禁止は妥当な判断だと思います。ですがせめて、殿下の軟禁範囲を奥殿全体まで広げてください。叶うならば、私は奥殿には近付きません』……だとよ」


 文机の上の書物達に視線を奪われていた紅殷は、続けられた言葉にハッと顔を跳ね上げた。だが国師はもう紅殷に視線を投げず、ヒラリと身を翻すと寝台から離れていく。


「晶蘭からの差し入れ、無駄にすんじゃねぇぞ」

「えっ!? ちょっ……師父っ!?」


 紅殷は慌てて薄絹の帳をかき分けるが、国師は紅殷に構うことなくそのまま退室してしまった。何も掴めない手を伸ばしたままポカンと口を開いた紅殷だけがその場に取り残される。


「……えぇ?」


 ──どういうことなんだ?


 晶蘭が紅殷に書物を寄越した意味も分からなければ、国師が律儀にそれを届けてくれた意味も分からない。


 だが。


 ──この局面で、晶蘭が国師を使いっ走りにしてまで、意味もなく書を送ってくるわけがない。


 紅殷は伸ばされたままになっていた手をグッと握りしめて引き寄せると、寝台からスルリと抜け出した。夜着のまま、靴も履かずに文机に歩み寄り、ひとまず一番上に置かれていた冊子を手に取る。


 ──修祓報告書?


 パラリとめくって目を通してみると、それは玉仙宮の巫覡達が解決した修祓依頼の報告書を閉じ綴ったものだった。数年前のもので、日付順に並べられた書き手もまちまちな報告書がズラリと並んでいる。


 ──これに何の意味が……


 首を傾げながらも、紅殷はサラリと書き綴られた文面に目を通す。


「……!」


 その瞬間、気になる単語が目に飛び込んできた。


『怪異を起こしていたのは、幽鬼が宿った絡繰人形』

『幽鬼が自発的に宿ったわけではなく、巫覡などの手によって魂魄を閉じ込められたようで』

『依った幽鬼は絡繰人形の体を自在に操り』


「これ……っ!」


 脳裏に蘇った光景があった。


 明らかに絡繰人形でありながら、人のように滑らかに踊っていた花嫁人形。獣のような素早さで晶蘭を翻弄した、巫覡装束の絡繰人形達。


 あれらは紅殷の力にあてられた瞬間、まるで断末魔の声を上げてはいなかっただろうか。


 同時に、耳の奥で晶蘭の溜め息混じりの声が聞こえたような気がした。


『調べ物をするために一時的に玉仙宮へ戻るという選択肢も、ナシなんですね?』


 昨日の朝、市中の宿屋の中庭で聞いた言葉だ。


 そこに今は、別の言葉が重なって聞こえる。


『なし崩しで連れ戻されてしまったのです。この際ですから、もう一度抜け出すにしても、きっちり調べ物を片付けてからの方が良いのでは?』


「……お前も、諦めてないんだな」


 その声が自分の勝手な妄想だということは分かっている。だが晶蘭がこの書をそういった意図で手配してくれたのだということは間違いないはずだ。


「お前は俺に『諦めろ』って、言わないんだな」


 誰もが聞かないフリをした。国師は聞いてくれたけれども、真っ向から否定した。


 晶蘭だけが。


 晶蘭だけが、紅殷の声を正面から受け止めて、『貴方が望むならば』と全力で力を貸してくれる。紅殷の背中を押して、同時にその背中を守ってくれる。


 その思いが、この綺麗で冷たい世界の中で、唯一紅殷の心を守り、温めてくれる。『金簪仙君』ではなくて、ただの『紅殷』であることを許してくれる。


「待ってろよ、蘭蘭」


 泣き笑いのように緩んだ顔を引き締めて、紅殷はその場にドカリと腰を落ち着けると、しっかり書物の山に向き直った。


「必ず突破口を見つけ出して、お前を迎えに行くからな」


 そんな紅殷の決意を首肯するかのように、随所に垂らされた薄絹達が微かな風に揺れていた。

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