金は問い、黒は述べる 汝、何を見たるかと

「話を耳にした当初から、違和感はあったんだ」


 廃墟街の向かいの坊の一角にある、宿屋の二階の部屋だった。


 日が傾くよりも早く宿屋に入ったおかげで、『表通りに面していて二人部屋。できれば角部屋が望ましい』というままな注文はすんなり叶えることができた。


 その部屋の中を壁に沿って歩きながら、紅殷こういんはつらつらと己の所感を語っている。


 そんな紅殷に、晶蘭しょうらんが言葉を向けた。


「妓女が亡くなったのが三年半前。それからたたりと思わしき現象が続き、三年前に妓楼は廃墟となった。しかし露台で紅のたもとが舞うようになったと言われているのは最近のこと。目撃されるようになった時期に開きがあることには、確かに違和感がありますよね」

「んー、それもあるんだけども」


 角まで到達した紅殷は、手に握った二本のかんざしのうち一本を床板に刺して固定する。ちなみに紅殷が今手にしている金の鎖が揺れる簪は、先程まで晶蘭の帯を彩っていた物だ。


「衣の色が紅ってはっきり分かってたってことも、そもそもその目撃情報があったってことも、不思議だなって思ってたんだよな」

「どういうことですか?」

「だってさ蘭蘭、目撃情報が出た場所は坊一区画まるっと廃墟になってたんだぜ? で、幽鬼が出るのは基本的に夜って相場が決まってんじゃん?」


 手の中に残った最後の簪をクルクルともてあそびながら、紅殷は反対側の角に向かって再び歩を進め始める。『蘭蘭』とまた女児のような愛称を呼ばれた晶蘭はキュッと眉間にシワを寄せたが、紅殷は『蘭蘭言うな!』というお決まりの台詞せりふが飛び出るよりも先に言葉を継いだ。


「誰がそんな時間にあんな場所にいんのかって話もそうだし、周囲一体に光源なんて一切ない夜の廃墟街で、どうやって二階の露台に舞う衣の色を判別するんだって話じゃねぇか?」

「度胸試しに訪れた人間が目撃していたと考えれば、違和感はないと思いますが」

「蘭蘭、一般人はそこまで夜目が利くわけじゃねぇのよ」


 紅殷は一度足を止めると、呆れた顔で晶蘭を振り返った。だが晶蘭は何に呆れられているの理解できていないのか、キョトンと首を傾げている。


 ──あー……晶蘭って、こういうとこあるよなぁ……


 妖魔奇怪の動きが活性化するのは日が沈んでからだ。修祓に臨む巫覡ふげきも、自然と夜間に現場に駆り出されることが多くなる。


 相手にこちらの存在を覚らせないように、現場では松明などの光源を持たず、夜陰に乗じて行動する場面が多い。ゆえに巫覡は自然と目が鍛えられて夜目が利くようになっていく。


 晶蘭の場合は、そこに武人として研ぎ澄まされた鋭い感覚も合わさっている。紅殷は純粋な夜目に加えて霊脈を活性化させることで昼間と同じくらい闇を見透かしているが、晶蘭の場合は夜目とその感覚だけで紅殷と同じくらい物が見えている節さえある。おまけに根っからの武人で無自覚な努力の天才である晶蘭は、自分ができることは周囲も当たり前にできていることなのだろうとごく平然と思っているから厄介だ。


 ──お前のその自分をおごらないところ、俺は大好きだけどさ。いつかそんなお前に嫉妬した誰かにお前が刺されそうな気がして怖いんだよな。


 まあ晶蘭の腕前ならば、仮に誰かが差しに来ても相手が返り討ちにあうことも明白ではあるのだが。


 紅殷は横道にれた思考を引き戻すと、いまいち納得できていなさそうな晶蘭にも違和感が伝わるように言葉を付け足した。


「衣の色がはっきりと見えるような状況だったら、色に関する部分だけがうわさになってるのも不自然だと思わないか? 『誰がその赤い袂の衣を着て舞っていたのか』っていう部分だって、噂になってていいはずだろ?」

「確かに。言われてみればそうですね」


 晶蘭から納得の言葉を引き出した紅殷は、ひとつ頷くと歩みを再開させる。シャラシャラと簪を鳴らしながら最後の角まで行き着いた紅殷は、手の中に残った最後の簪を先程と同じように床板の角に刺して固定した。振り返って他の四隅を見やれば、全て同じように金の簪が突き立てられている。


「つまりあなたは話を聞いた当初から、この一件がただの修祓では終わらないと予測できていたのですか?」


 己が成した下準備に不備がないか確認した紅殷は、小さく笑みを閃かせながら晶蘭へ歩み寄った。


 そんな紅殷に対し、部屋の中心に立った晶蘭はとがめるような視線を向ける。そこに本気の怒気が宿っていることを察した紅殷は、晶蘭をなだめるように軽く両手を上げながら微苦笑を浮かべた。


「こういう事件ほど、俺が直々にさばいた方がもつれなくていいと思わないか?」

「ですから、貴方あなた様は少し御身の立場というものをですね」

「はいはい、お前には苦労かけっぱなしで申し訳ないと思ってるよ」

「そういう点ではなく……!」


 晶蘭の凛々しい眉がさらにキッと吊り上がる。『本当に分かっていないんですか!?』とお小言が繰り出される気配を察知した紅殷は、今度はあえて高らかに足音を鳴らしながら晶蘭の前で足を止めた。そのまま無言でじっと晶蘭を見上げれば、無言の圧にひとまず晶蘭は口を閉じる。


 ──分かってんよ。お前が純粋に俺の身代を心配してくれてるのは。


 その心に、紅殷はいつだって心の底から感謝している。紅殷を『紅殷』として心配してくれるのは、幼馴染にして相棒である晶蘭と、育ての親である玉仙ぎょくせん国師くらいしかいないだろうから。


 だからこそ。そうやって大切にしてくれる人がいてくれると知っているからこそ。


 紅殷はそんな大切な人達が、少しでも善い世界に生きていてほしいと願っている。


「ひとまず、祓うぞ」


 その思いを再び噛み締めながら、紅殷は意図的に顔から表情を掻き消した。スッとなめらかに滑った右手は、帯から手鈴を抜き取っている。


 たったそれだけで、部屋を満たす空気が変わった。ピンと張り詰めた空気におびえるかのように、部屋の四隅に立てられた簪の金鎖が微かに揺れて小さく音を鳴らす。


 何か言いたそうな顔をしていた晶蘭は、深呼吸ひとつで言葉を飲み込むとスッとその場に膝をついた。両手を重ね合わせてこうべを垂れる晶蘭を静かに見つめてから、紅殷はスッと手鈴を構える。


 紅殷の腰にある間はコトリとも音を鳴らさなった手鈴は、紅殷が意思を持って触れた瞬間、黄金の燐光と澄んだ音色を響かせた。


 その音色に共鳴するかのように、部屋の四隅に立てられた簪がシャンッと高らかに金鎖を鳴らす。


「『謹製きんせいたてまつる』」


 紅殷が凜と声を張った瞬間、金簪からこぼれ落ちた光が互いを結びつけるように走り、部屋の壁に沿わせるように光の壁を立ち上げた。世界から隔離された部屋の中に紅殷からこぼれ落ちた黄金の光があふれる。その光に触発されたかのように、ひと呼吸ついた後には部屋中の空気が朝日を注ぎ込まれたかのようにまばゆく光り輝いていた。


「『この穢れを祓い清め 浄土蓬莱の光を請わん』」


 その空気を腹にまで落とし込み、紅殷は朗々と修祓の呪歌を歌い上げた。


「『神咒しんじゅ浄祓呪じょうばつじゅ 急急如律令』!」


 結びの言葉を受け、神器の手鈴がリンッとひとりでに力強く音を打ち鳴らす。


 その瞬間、パンッと空気が弾けた。


「……ふーっ」


 同時に、息苦しいほどに渦巻いていた黄金の燐光も弾けて消える。後には壁に沿って展開された結界だけが残された。


 紅殷は構えを解くと、いまだに頭を垂れている晶蘭を見つめる。ただ見つめるだけではなく右から顔を眺め、さらに反対側から覗き込み、もう一度上からまじまじと全身を見下ろした。


「……よっし!」


 どこから見ても晶蘭に陰の気が残っていないと確かめた紅殷は、緊張を解くと満面の笑みを浮かべた。


「いいぞ、晶蘭! これで安心だ!」

「……毎度のことながら、少々過保護すぎじゃありませんか」


 紅殷から『動いて良し』という合図を受けた晶蘭は、わずかにバツが悪そうな表情を浮かべながら顔を上げる。


 対する紅殷は、間を置かず膝を上げた晶蘭を見上げてごくごく真面目に反論した。


「いくら晶蘭が陰に耐性が強いって言っても、晶蘭は巫覡じゃない。そういう意味じゃただのヒトだ。念には念を入れて、祓える時に祓って陰の気を蓄積させない方が安全だろ?」

「それは……そうですが」

「逆に耐性が強いからこそ、限界に気付かずに陰を溜めまくっていきなりぶっ倒れるってこともあるわけだし」


『そこまでヤワなつもりはないのですが』と続けられる予定だったのだろう言葉は、紅殷からの釘刺しによって止められた。


 まだ晶蘭が紅殷付になって日が浅い頃、晶蘭は一度その身に陰を溜め込みすぎて倒れたことがある。


 それまで身近に巫覡としての才を持つ者しか置いてこなかった紅殷は、己で陰を浄化できない者が修祓現場を渡り歩けば倒れるのが普通であるということも、晶蘭が常人に比べて陰への耐性が高いせいで『体調を崩す』という過程をすっ飛ばしていきなり倒れるのだということも、あの時初めて知った。しばらく高熱を出して寝込んだ晶蘭に、ただオロオロすることしかできなかったのは、紅殷にとっても酷く苦い思い出だ。


 これが紅殷が言われる側であったら『まーたまた、そんな昔の話!』と笑って受け流してしまうのだが、どこまでも生真面目な武官は幼い時分のやらかしにもバツが悪そうに口を閉じた。こうなることが分かっているから、紅殷はこの手の話題になるといつもこの話をさり気なく引き合いに出す。


 ──いつまでも昔の失敗を引き合いに出すのは、卑怯なことだとは分かってるんだけどさ。でもさ。


「お前が俺を心配してくれるように、俺にもお前を心配させてくれよな」


 苦笑を混ぜて笑みかけると、晶蘭はさらに困ったように眉をひそめた。それが照れ隠しであることも知っている紅殷は、ニヘヘッと笑って『この話はもうおしまいな!』と示すと、スッと表情を改める。


「で、あの妓楼の話なんだけども」


 その変化を受けて、晶蘭も表情を改めた。すでにそこにいるのは『紅殷の幼馴染でもある蘭蘭』ではなく、『金簪きんさん仙君せんくん専属武官・さい晶蘭』だ。


「晶蘭、お前、下から二階の気配を探った時に何を感じていた? ありのままを教えてくれ」

「はい。私が気配を探った時、二階には目ぼしい気配は何もありませんでした」


 紅殷の問いを受けた晶蘭は、ひとつ頷くとハキハキと話し始めた。竹を割ったような晶蘭の言葉には迷いも加飾も存在していない。


「ただ、気配はなくとも、違和感はありました。ならば罠が仕掛けられているのだろうと警戒した結果、あのような形に」

「お前が『気配はない』と断じるんだから、あの瞬間上にはヒトはおろか、幽鬼のたぐいもいなかったんだろうな」


 晶蘭の言葉に紅殷は迷いなく頷く。


 晶蘭の武官としての実力は折り紙付きだ。その腕前に関しては玉仙宮どころか禁軍筋にまで名が轟いているという話だし、そんな話などなくても一番身近にいる紅殷はその実力をよく知っている。


 若年にありながら金簪仙君の護衛を一手に引き受ける実力者が『誰もいなかった』と断じているのだ。その点に関しては一点の疑いもなく『そうだったのだ』と信じるしかない。


 だがそうなると分からないのは、『ならばあの少女はどこから現れたのか』という点だ。


「じゃああの少女は、一体どこから現れたと考える?」


 紅殷はその問いも真っ直ぐに晶蘭へぶつけた。微かに顎を引いた晶蘭は、その問いにも淀みなく答える。


「恐らくは、向かいの廃墟の二階から飛び込んできたのでしょう」


 紅殷は少女が自分に斬りかかってきた瞬間を見ていない。対して紅殷を庇ってくれた晶蘭は少女の奇襲に気付いていた。少女が飛びかかってきた時の状況から推察しての判断なのだろう。


 しかし。


「確かに順当に考えやそうだろうけども」


 現場を思い返しながら、紅殷は眉を跳ね上げた。


「向かいったって、結構な距離があっただろ? 勢いだってすごかった。あんな小さな体でやれるもんなのか?」


 現場は二階で、階段は紅殷達が塞いでいた。外から飛び込んできたならば、確かにあの露台を備えた窓しか出入口はない。屋根が外に突き出たあの窓を通用口代わりにしようと思ったら、外壁をよじ登るか、向かいの廃墟から飛び移ってくるか、方法は二択に絞られる。


 だが妓楼の表通りは花街の本通りということもあり、道幅は目算で四丈近くあった。途中に足場にできそうな物もない。


 つまり晶蘭の言い分を信じるならば、あの少女は四丈の距離をひとっ飛びして紅殷に襲いかかったということになる。


「ただの少女ならば不可能です。ですがあの少女が少女だったとは思えません」

「まぁ、それは確かにそうだけども」

「あと考えられるとすれば、独力ではなく、何らかの仕掛けを使ったという線もありますね」

「仕掛け?」


 紅殷が晶蘭を見上げたまま小首を傾げると、晶蘭は片手をあごに添えつつ頷いた。


「最初に階段下から衣を上へ放り投げた時、柳葉飛刀が飛んできたでしょう?」

「ああ」

「あれを飛ばせる仕掛けは、あの妓楼の中からは見つかりませんでした。恐らく、向かいの店の、あの露台に面する場所に、何らかの仕掛けが用意されているはずです」

「確かにそうだな……」


 紅殷は晶蘭と同じように顎へ片手を添えると、記憶の中の光景を呼び起こした。


 少女の襲撃を受けた後、紅殷と晶蘭は揃って妓楼の中を検分している。その時に足元の糸に反応して飛刀の嵐を引き起こす仕掛けについては絡繰カラクリを見つけ出すことができた。だが初撃と二撃目の飛刀を飛ばした仕掛けは、確かに見つかっていない。


 ──飛刀を打ち出すのと同じ要領で、少女も飛ばすことは……できなくもない、か。


「あの妓楼だけじゃなくて、向かいの廃墟の検分も必要ってことだな」

「今から向かいますか?」


 考えに沈んだまま声を上げる紅殷に晶蘭が問いを向ける。


 その声に紅殷は顔を上げた。


「いや、もうじき日が傾き始める。廃墟の中で物を検分するには向かない時間帯だ」


 紅殷は窓の外へチラリと視線を投げた。


 部屋の中は紅殷が展開した結界によって光が溢れているが、外はそう時を置かないうちに西から世界が赤く染まり始める刻限だ。いくら廃墟街の向かいに立地する場所に宿を押さえていても、現場まで出向いて検分を始めればあっという間に周囲は闇に沈んでしまう。


 ──それに。


「ただの幽鬼修祓案件じゃないことは、ここまでの状況からして明白だ。下手に日のある時間帯に頻繁にあの辺りをウロついてると、こっちの身が危うい」


 己の表情に険しさが宿ったのが分かった。その変化に気付いた晶蘭も眉間にシワを刻んでいる。


 罠を仕掛けるのも、絡繰を利用するのも、魔怪まかいではない。ヒトだ。


 最初からこの一件には不審な点が多かったが、ここまでの仕込みを見た今となっては不審感よりも危機感の方が強い。


 紅殷は幽鬼修祓に関しては絶対無敵とも言える実力を誇るが、物理的な暴力に対しては並の人間と同等の対処能力しか持ち合わせていない。ヒトが悪意をもって刃を振り上げてきたならば、その対処は晶蘭が請け負うことになる。晶蘭の負担になるような状況はなるべくならば避けて通りたい。


 ──晶蘭はもちろん強いけど、俺っていう絶対に傷付けちゃいけないお荷物を背負わせてるからな。


 紅殷は晶蘭の幼馴染だが、それ以上に主であり、護衛対象だ。


 紅殷が命じれば晶蘭はどんな無謀なことだってするし、紅殷の身を守るためならば最悪捨て身覚悟の戦闘にだって身を投じる。その事実は紅殷当人が晶蘭にどれだけの情を抱いていようが変えられない。


 玉仙宮から見れば、紅殷は国が滅びようが守り抜かなければならない存在だ。対する晶蘭は、どれだけ武芸にすぐれていようとも、所詮しょせんは使い捨てを前提にした大多数のうちの一人。げ替えが効く存在でしかないのだ。


 その事実を突き付けられるのが嫌であるならば、紅殷自身が賢く立ち回らなければならない。


 ──どれだけ俺が『晶蘭を失えない』と叫んでも、その声が届くことはない。


 人々は都合のいいように神を祀り上げるだけで、都合の悪い神の声は聞こうとしない。


 だが幸か不幸か、芙颯ふそうの民が神とあがめ奉る『金簪仙君』は、しゅう紅殷という一人の人間だ。紅殷には紅殷の心があって、思いがある。


『金簪仙君』ではなく『ただの紅殷』には、晶蘭を無傷無事で玉仙宮まで連れて帰る義務がある。『そんな些事に囚われるな』と周囲は……晶蘭当人さえもが言うだろうが、これは紅殷が『ただの紅殷』として心を守るために自分自身に課した責務だ。


 そのことに思いを馳せた瞬間、拳を握りしめた両手にグッと力がこもった。


 だが紅殷はその両手を晶蘭に気付かれる前にそっと解く。


 ──ま、こんなこと考えてるって知られたら、『そんなことを思うくらいなら、最初からこんな真似をしでかさないでください。そうすれば私もあなたも一番安全でいられるでしょうが』って怒られそうだけど。


 でもそんなことを言いつつも、晶蘭は必ず最後に『まぁ、この状況で玉仙宮を飛び出していかないなんて、あなたらしくもありませんからね』などと溜め息混じりに紅殷を肯定してくれることも、知っているから。


 だからこそ、正規任務ならいざ知らず、己の我が儘に付き合わせた結果、晶蘭を負傷させるなんてことは、絶対にあってはならない。


「動き出すのは、日が完全に沈んでからだ。向かいの廃墟の検分は、明日日が昇ってからにしよう」


 紅殷は晶蘭をひたと見据えて提案した。


 完全に日が沈み、世界の支配者がヒトから魔怪へ移り変わる時間帯になれば、そこは妖魔奇怪とヒトの間に身を置く玉仙宮の住人達が得意とする領域だ。紅殷と晶蘭の場合、下手に日中に動き回るよりも夜の闇の中を行った方が相手に対して有利に働く場面も多い。


「今宵は、くだんの妓女にお会いになられますか」

「ん。まだ話、聞けてねぇから」


 紅殷の言葉に小さく頷いて答えた晶蘭は、次いで新たな問いを投げた。万事を心得てくれている頼もしい相方に紅殷は首肯とともに短く言葉を添える。


 赤い袂の噂の元は、十中八九先程遭遇した少女だろう。ならば琵琶を奏でる妓女の幽鬼は別物だ。噂の元凶となった幽鬼に、紅殷達はまだ会えていない。


 ──そういやあの子、『ここは嫋嫋じょうじょうねえさんの店だ』とも言ってたな。


 その名前は、件の妓女と関係あるのだろうか。


「会えますかね?」


 ポツリと晶蘭が呟いた。その声にはどこか『会えるといいな』という、幼い子供が明日の遊びの約束を心待ちにしているのに近い響きが潜んでいる。


 その響きがどんな感情から生まれているのか知っている紅殷は、胸中に湧いた疑問を一旦脇に退けた。その上でニパッと晶蘭に笑いかけ、緩く拳を握った手で己の胸を叩いてみせる。


「会えるさ! この俺に任せろ!」

「……そうですね」


 自信に溢れた紅殷の笑顔に、晶蘭も淡く微笑みを返した。フワリと浮かんだ笑みは、この実直な従者にしては珍しくふにゃりと柔らかい。


「あなたに会えれば、きっと救われる」


 晶蘭はきっと、心底本気でそう信じているのだろう。だからこそ幽鬼の心を案じ、同時にその幽鬼の在り様を憂う紅殷の心を案じて、『会えるといいな』と聞き取れる響きの、祈りに似た言葉を口にする。


 ──俺は決して、全ての幽鬼を救ってやれるわけじゃないけども。


 そのことは晶蘭とて承知のはずだ。だがそれでも晶蘭は昔から『紅殷ならば救ってくれる』と信じてくれている。


 だからなるべくそうであったらいいなと願いながら、紅殷は己のわざを振るう。


 自分を信じてくれる晶蘭を信じて、自ら前へ進む。


 ──お前が信じてくれるから、そうあってほしいと俺も願ってるよ。


「んじゃとりあえず、今晩に備えて飯と仮眠だな!」


 じんわりと心の奥底ににじむ温もりをそっと抱きしめてから、紅殷は意識を切り替えた。


 パチンッと指を弾けば、展開されていた結界はパッと燐光と化して消えていく。


 修祓のために展開していた断絶結界を防音のために密談終了まで展開していたのだが、一通り方針が決まった今はそこまで強力な結界は必要ないだろう。


 魔怪の接近を探知できる程度の結界を残し、紅殷はパンッと両手を合わせる。


「この時間帯に夕飯作ってもらえるかな? 外の飯屋に行くにしても、ちょっと時間が中途半端……」

「私が調達してきます。あなたは少しでも体を休めて今晩に備えてください」


『善は急げ』ならぬ『膳は急げ』とばかりに動き出そうとした紅殷へ晶蘭が言葉を投げる。さらにスルリと距離を詰めた晶蘭は、後ろから軽く肩に手を置いただけで足早に動き出そうとした紅殷の動きを封じた。


「え、でも晶蘭だって疲れてるだろ? 結局俺、さっきは突っ立ってるだけだったし……」

「この程度でバテるほど、ヤワな鍛え方はしていませんよ」


『知っているでしょう?』と肩をすくめた晶蘭は、そのまま後ろ向きに紅殷を引っ張ると寝台へ連行した。わったったっ、と誘導されるがまま後ろ向きに寝台へ誘導されてしまった紅殷は、最終的に寝台の端に足を取られてそのまま寝具の上へ倒れ込む。


「ちょっ……晶蘭っ!?」

「今宵、必要になるのは私の力よりもあなたの力です。あなたもあなたで力を振るっている。休んでおいて損はありません」


 いつになく強引な寝かしつけに思わずガバリと頭を上げた瞬間、分厚くて大きな手がそっと紅殷の頭に添えられた。慈しむようなその手付きに目を丸くすれば、先程以上に柔らかく笑み崩れた晶蘭と視線がかち合う。


「あなたが私を心配してくれるように、私にもあなたを心配させてください」


 紡がれた言葉は、浮かべられた笑み以上に柔らかかった。


 兄が弟を慈しむような。


『ただの紅殷』を大切に思ってくれていることが伝わる空気に、紅殷は思わず呼吸を忘れる。


「夕飯には、あなたの好きそうな物を見繕ってきます。期待していてください」


 その隙に紅殷の頭を撫でたいだけ撫で回した晶蘭は、そのまま紅殷を残して部屋から出ていってしまった。思わぬ晶蘭の『デレ』に、紅殷は寝台で固まったまま晶蘭に撫でられた頭を押さえる。


「……お前が俺を心配してくれてることなんて、日々お前からダダ漏れてんだから、骨身に染みて知ってるっつの」


 何とか照れ隠しを呟いた時には、部屋には微かに夕焼けを伝える柔らかな色味の光が差し込んでいた。

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