金思黒閃、紅禍に臨す

 妓楼の中は、存外見通しが効いた。まだ日が高い時間帯であるせいか、窓や隙間から光が差し込んでいて、視界は十分に明るい。


 廃墟となって三年という話だったが、聞いた話から想像していたほど建物の中は荒れていない。足を載せた床がギィッと重く軋んだが、床も天井も抜けている箇所はないようだった。そのことに油断して自分達が最初の穴を開けないように注意しなければならないのかもしれない。


「大きな店だったんだな」


 中へ足を進めながら室内を見回した紅殷こういんは、ひそめた声の中に感嘆を混ぜた。


「一階のこのだだっ広い空間って、宴会をやるための部屋なんだろ? 妓女をたくさん侍らせてさ、酒池肉林やるための」

「またあなたは……どこでそんな知識を仕入れてきたんです?」

「最近読んだ書で」


 声の調子を変えないまま晶蘭しょうらんに答える。それに返ってきたのは呆れを隠していない溜め息だった。


玉仙宮ぎょくせんぐうでそんな書物が流通していると国師が知ったら、卒倒なされますよ」

「安心しろよ、玉仙宮で流行ってるんじゃなくて、市井で流行ってるだけだから」


 紅殷としては本気で晶蘭を安心させるために答えたつもりだったのに、晶蘭からはさらに溜め息がこぼれる。それでも周囲を警戒する鋭い眼光と剣の柄にかけられた手が緩むことがないのは流石さすがだなと、紅殷はこんな時なのに感心してしまった。


「何だよ蘭蘭、俺達みたいな人間が世間の流行りすたりに触れるのは重要なことなんだぞー?」

「蘭蘭言うな!」


 紅殷の軽口をピシャリと封じた晶蘭は、グルリと視線を巡らせると紅殷で視線を止める。その視線の意味を理解している紅殷は、軽く肩をすくめると晶蘭が問いを発するよりも早く口を開いた。


「この階にこれといった異常は感じられない。お前は?」

「私も特には。何かあるとしたら上ですか」

「だな。元々噂になってるのも『二階の露台』だ」


 言葉を発しながら紅殷はスッと表情を改めた。不意に紅殷が見せた真面目な表情にも、晶蘭は生真面目な表情を変えない。


「その噂で気になってる部分がある。が、今はそのことについて言及したくない」


『思うことがあるのだが、この場では言えない』と言外に含ませた言葉に、晶蘭はまばたきひとつで答えた。それを『是』と受け取った紅殷はあごを上げるとさらに問いを投げる。


「晶蘭、現状でお前は上に何かを感じているか?」


 その問いに、晶蘭が一瞬気を研ぎ澄ますように視線を伏せた。紅殷はそんな晶蘭の様子をつぶさに観察する。


 晶蘭が視線を伏せたのはわずかな間だけだった。再び晶蘭の視線が紅殷に向けられた瞬間、紅殷はヒラリと片手を上げる。


「お前の様子から、大体は分かった。答えなくていい」


 問うていながら答えるなと言う紅殷に、晶蘭は再び瞬きで『是』と応じた。紅殷が晶蘭の思うところを察しているように、晶蘭も紅殷の一見するとチグハグな言動の意図を理解してくれているのだろう。


 紅殷はピンと張り詰めた表情を崩さないまま、店の奥へ視線を投げた。


「じゃ、行こうか」


 紅殷の視線の先……入口から見て正面奥にあたる場所に、二階へ続く階段が伸びている。今なお華やかで堂々とした造りは、実用と装飾を兼ねた造作だったのだろう。


 声がはらむ緊張にそぐわない軽やかな紅殷の言葉に、晶蘭は無言のまま動いた。


 キシリとも床板を軋ませない足運びで階段下まで移動した晶蘭は、不意に腰を落とすと足元に落ちていた布切れを拾う。恐らく幽鬼ゆうき見物に繰り出してきた客が落としていった上着だろう。この妓楼が打ち捨てられた時に残された物だと考えるには新しく、また妓楼という場所には似つかわしくない地味な色合いだった。


 腰を上げた晶蘭は、衣を手にしたまま紅殷を振り返る。しばらくその衣に視線を落として晶蘭が意図するところをうかがった紅殷は、数拍してから視線を上げて晶蘭に頷いた。


 ──特にこれといって異変は感じない。ただの衣だから、何かに使いたいなら使っても大丈夫だ。


 視線だけでそれを伝える紅殷に首肯を返した晶蘭は、小さく丸めた衣を左手に持ち、足音を忍ばせたままゆっくりと階段を上っていく。


 キシ、キシ、と、微かな音が廃墟の空気に溶け込んでいく。それを紅殷は階段下で聞いていた。見上げた視線の先では、腰を落としながら階段を一歩一歩進む晶蘭がしきりに頭上を気にしている。


 そんな晶蘭の動きが、途中でピタリと止まった。


 ──……? 何かあったのか?


 階段の中程よりもわずかに上。段はまだ残っている。あと一段でも上がれば、腰を落とした晶蘭の頭が階上に出るかといった位置だ。


 足を止めた晶蘭は、改めて階上の気配を探っているようだった。表情がかき消えた真剣な横顔が階下に控えた紅殷からでも窺える。


 呼吸を、ひとつ、ふたつ。


 その間を置いてから、不意を衝くかのように晶蘭は手にしていた衣をバッと頭上に投げ上げた。大きく広がった衣が一瞬、階上から降り注ぐ光をさえぎる。


「っ!?」


 だが次の瞬間、大きく広がっていた衣はどこからともなく響いた鋭い風切り音とともに階段上から消えた。何かに跳ね飛ばされるように奥へ吹き飛ばされたようだが、紅殷の目にはそれが何であったのかまでは分からない。


 紅殷は思わず息を詰めた。想像以上に荒っぽい事態に、自身の眉間にしわが寄ったのが分かる。


 ──晶蘭の反応からして、何かはあると思ってたけども……。さすがにここまでは予想外だったな。


 階段の途中に身をひそめたまま動かない晶蘭は、緊張はしているが殺気や闘気といったものは纏っていない。その様子から考えるならば、恐らく今のは襲撃ではなく罠だ。


 ──幽鬼修祓の現場に罠、ねぇ……


 玉仙宮で漏れ聞こえてきた以上にこの一件がきな臭いことは、ここまで来る道中でも分かってはいた。だがこれは紅殷達が覚悟していた以上に根が深いのかもしれない。死者や魔怪まかいからは感じられない、生身の人間からしか生じないきな臭さが、今の時点で随所からプンプンしている。


 ──これは気を引き締めていかないとな。


 緊張を強める紅殷の視線の先で、晶蘭が紅殷を振り返った。紅殷と視線を合わせた晶蘭は、手振りで紅殷の足元を示す。紅殷が示された先へ視線を投げれば、空の酒甕さかかめがいくつか転がっていた。


 晶蘭が何をしたいのか察した紅殷は、腕に四つの酒甕を抱えるとトントンッと階段を駆け上がる。晶蘭が腰を落とした段の一段下で足を止めて晶蘭を見上げると、晶蘭は階上に注意を向けたまま紅殷へ右手を差し伸べた。そんな晶蘭の手の上に、紅殷は無言のまま酒甕を載せる。


 片手に載る大きさで中身は空でも、分厚い酒甕は片手で支えるには少し重い。その重みを物ともせず右手だけでしっかりと酒甕を受け取った晶蘭は、数度重さを確かめるように手の中で酒甕を弾ませると、そのままポーンッと高く酒甕を放り投げた。まるで鞠が跳ねるかのように、二人の頭上を今度は酒甕が舞う。


 その影に、再び風切り音が迫った。だが襲いかかった『何か』は重みのある酒甕を吹き飛ばすことはできず、逆に酒甕に突き刺さって捕らわれると晶蘭の手元まで落ちてくる。


 ──さすが蘭蘭。


 晶蘭の機転を褒め称えながら、紅殷も一緒になって晶蘭の手元を覗き込む。さらにそこにあった『何か』の正体に、紅殷は思わず晶蘭の表情を窺った。


 ──小刀? いや、飛刀か?


 酒甕の側面に深々と突き立てられていたのは、柳葉飛刀と呼ばれる投擲用の小剣だった。薄刃の刃物をどれだけの力で打ったのか、飛刀は酒甕の側面を貫通して内側に切っ先をのぞかせている。


 ──人力で打ち出してるなら、よっぽどの達人じゃなきゃこんな真似はできない。そんな人間が近場にいれば、晶蘭が絶対に相手に気付く。


 やはり罠だ。それも簡単な仕掛けではない。これだけの威力で柳葉飛刀を打ち出せる罠だ。手の込んだ物が設置されているのだろうと、門外漢の紅殷でも想像がつく。


 ──でもここって、直近で民間の巫覡ふげきが修祓を執り行った現場なんだよな?


 巫覡は幽鬼の祟りによって殺されたという話だった。奏上してきたさい賀恵がけい自身がその現場を目撃していたのだから、そこに間違いはないだろう。さすがに犀賀恵が人死を前に我を忘れていたとしても、この罠にかかって巫覡と弟子達が死んでいたならば、現場を片付けた誰かが必ず違和感を抱いて犀賀恵に伝えるはずだ。


 犀賀恵が依頼した修祓によって出た死傷者は、この罠によって生み出されたわけではない。ならば先の修祓の際には、この罠は設置されていなかったということか。


 片手を顎に添えて考えを転がした紅殷は、窺うように晶蘭を見やる。


 対して晶蘭は飛刀が突き刺さった酒甕を足元へ置くと、もう一度注意を階上へ向け直した。さらに新しい酒甕を紅殷から受け取り、同じように頭上へ放り投げる。だがもうあの風切り音は響かず、酒甕は無傷のまま晶蘭の腕の中に返ってきた。


 ──罠はさっきので終わりってことか?


 紅殷が視線で問いかけると、ようやく晶蘭が紅殷へ視線を向けた。


 紅殷の視線をきちんと受け止めた晶蘭は、チョイチョイッと指先だけで紅殷へ何かを訴える。その意図を『隣に並べ。でも前へは出るな』と解釈した紅殷は、晶蘭の隣に並び、ソロリと階上へ視線を忍び込ませた。


 妓楼の二階も、一階と同じく保存状態はかなり良かった。キッチリ掃除をして内装を整えれば、すぐにでも営業を再開できそうな雰囲気まである。


 だがその光景の中にいくつかそぐわない代物を見つけた紅殷は、口をつぐんだままツイッと目を細めた。


 ──驚くほどに罠だらけじゃね?


 階段を上りきった先には、奥の壁までまっすぐに廊が伸びている。左右に並んだ扉はねやとして使われていた小部屋へ続くものだろう。空間が細かく仕切られている分、採光は階下よりも悪い。だが階段がくだんの露台を背に負う形になっているのか、階段から奥へ続く廊は光が入って明るかった。


 その光の中に、キラリと走る光の筋が見える。


 それも一筋ではなく何本も。ヒョコリと頭をのぞかせた紅殷の視線の高さに張られた糸は、罠に気付かないまま階段を上がり、廊を進んでいれば、ちょうど通行人の足首に引っかかる場所に位置している。


 紅殷はチラリと隣の晶蘭を見やった。


 その視線を遮るかのように間にゴトリと空の酒甕を置いた晶蘭は、そのまま床の上を滑らせるように力強く酒甕を押し出す。ほこりが積もった床の上を飛ぶように滑った酒甕は、張り巡らされた糸を気持ち良いくらい勢いよく片っ端から断ち切っていった。


 酒甕はそのまま奥の壁に叩き付けられて割れる。


 同時に、廊を横切る形で幾重にも風切り音がこだました。


「うおっ!?」


『風切り音』と言うよりも『暴風音』と言った方が正しい音に、紅殷は思わず声を上げながら頭を引っ込める。対して晶蘭はこうなることが予測できていたのか、変わることなく冷静に事態を観察していた。


 突如吹き荒れた飛刀の嵐は、ひと呼吸の間に止まる。紅殷が頭を引っ込めたまま再び満ちた静寂に耳を澄ませていると、晶蘭は一仕事終えた顔でパンパンッと手を払いながらゆっくりと腰を上げた。


 そんな晶蘭の様子から『ひとまず危難は去った』と判断した紅殷も、恐る恐る顔を上げて廊の先を見やる。


 目を凝らさなくても十分見える視界には、先程までとは打って変わって実に『廃墟らしい廃墟』が広がっていた。


「うっわ……」


 紅殷達から見て左から右へ飛刀の嵐が駆け抜けたせいで、右側の壁が穴だらけになっていた。もはや『壁』と呼ぶよりも『壁の残骸を纏った柱達』と表現した方が正しい状態なのかもしれない。これ以上何か仕掛けが発動したら、恐らく柱もへし折られる。


 ──飛んだ飛刀の数もえげつなかったけど、威力も半端なかったんだな、これ。


 罠に気付かず踏み出していたら、紅殷達の体がこの攻撃を喰らっていたということだ。むくろも残さず木っ端微塵にされていたかもしれない展開に、紅殷は思わず顔を引きらせる。


 ──仕留める気満々な仕掛けじゃねぇか。なんでこんな殺意高めな罠がこんな場所に……


 あまりに己の予想を越えた展開に紅殷は凍りつく。対する晶蘭は紅殷を残したままゆっくりと階上へ足を踏み出していた。


 相変わらず晶蘭の右手はゆるく剣の柄にかけられているが、先程まで晶蘭に張り詰めていた緊張はわずかに緩んでいる。紅殷の読みが外れていないならば、ひとまず晶蘭が感知した罠は全て解除されたのだろう。


 ──とはいえ、ここまでになってくると、罠が解除できたからってことに安心もできやしないんだけども。


 晶蘭が数歩先に進んだのを確認してから、紅殷もその場に残りの酒甕を置いてソロリと階上へ踏み出した。階下での慎重な足取りは足音を忍ばせるためのものだったが、今の忍び足は下手に踏み込んでうっかり床や壁を壊したくない気持ちの表れだ。


 おっかなびっくり歩を進めつつ、晶蘭にならう形で紅殷も室内の様子を確かめる。


 ──とはいえ、今のところ、修祓の手がかりになりそうな『気になるモノ』は見当たらないんだよな……


 嵐が過ぎ去った後の廃墟は、静寂が耳に痛いくらい静まり返っていた。相変わらず陰の気は濃いが、『濃い』というだけでヒトの気配もなければ幽鬼の気配も感じられない。


 紅殷は片手を口元に添えながら、ここまでの流れを頭の中で整理する。


 ──これはもう、ただの修祓案件じゃない。


 単純に幽鬼を祓っただけでは解決しない代物だと、覚悟してかからなければならない。ヒトの思惑が根深く入り込んだ案件は、強大な怨霊を相手にするよりも厄介だ。


 ──少なくとも、怨霊は物理的にヒトを害することはないからな。


 幽鬼というのは、死したヒトの魂であり、想いだ。他の魔怪まかいと違い、その身に実体はない。


 つまり物理的にヒトを害する仕掛けが施されているという時点で、この一件には生身の人間が関わっているということになる。ならば幽鬼の噂はただの隠しみのかと疑うこともできるが、この尋常ならざる陰の凝り方と流布している話から考えて、幽鬼の噂も完全な作り話ではないだろう。


 幽鬼がいたから、それを利用して何者かが何らかの目的のために罠を仕掛けたのか。


 あるいは、何かの目的のために、誰かが幽鬼を召喚したのか。


 ──どっちも胸クソ悪いけど、まだ前者であってもらいたいもんだな。


 後者であれば、敵側にも巫覡がついていることになる。巫覡同士の争いとなると厄介だし、何より生者の勝手な思惑のために召喚された幽鬼が哀れだ。前者の方が踏みにじられる存在はまだ少ないし、割と手早く片付けることができる。


 ──その判定をするためにも、まずは場の解析を……


 考えを纏めながら、紅殷は晶蘭の後を進む。思考のふちに意識が沈み込んだせいで、踏み出しの時に纏わりついていたおっかなびっくりはいつの間にか消えていた。


 その集中の仕方が、隙になってしまったのかもしれない。


「っ!?」


 奥壁に注意を向けていた晶蘭が、不意にハッと弾かれたように紅殷を振り返る。だが瞳を伏せて思考の淵に沈んでいる紅殷は、一瞬晶蘭のその反応を見落とした。


コウっ!!」


 鋭い声に名前を呼ばれた瞬間、紅殷の視界は深い濃紺に塞がれていた。


「っ!?」


 次いでグッと息が詰まり、足が床から離れる。


 晶蘭が己を懐に抱き込んだまますぐ横の部屋に転がり込んだのだと分かった時には、すでに晶蘭の腕は紅殷の体から離れていた。


 剣を抜いた晶蘭が紅殷を背にかばうように紅殷の体を後ろへ投げ飛ばす。紅殷が勢いを殺さず後ろ向きに一回転して足から着地した時には、鋼と鋼がぶつかり合う甲高い音が響いていた。


ランっ!?」

「抜くなっ!!」


 体を支えるために床についた手が、反射的に懐へ伸びる。


 それが気配で分かったのか、晶蘭から鋭い声が響いた。突如現れた第三者からの奇襲を危なげなく剣でいなす晶蘭の向こうでは、紅の衣が舞っている。


 ──敵襲!? さっきまで気配はなかったはずなのに……!


 懐に伸びかけた手を床に戻した紅殷は、片膝をついた状態で体勢を低く保ちながら晶蘭に躍りかかる影に目を凝らす。


 敵の全体像は晶蘭の体に隠れているから分からない。だが相手が実体を持った人型の『何か』であることは確かなようだった。背丈も身幅も晶蘭の体に隠れている上に、刃が振るわれている位置も低い。恐らく相手は幼い子供だ。


 ──紅い衣を纏った幼子……? こいつが露台で舞うっていう『紅の衣のたもと』の正体か?


「蘭! 確保できそうかっ!?」


 周囲の陰が濃すぎるせいで幼子の正体が判別できない。だが直接刃を振るってきている時点で相手が幽鬼でないことは確かだ。そしてこの瞬間に紅殷達を狙って襲撃してきたならば、この幼子は必ずこの一件に関わっている。


「っ!」


 紅殷の指示に晶蘭が腕に力を込める。クンッと器用に剣に力を伝えた晶蘭は、手首のわずかな動きで幼子の手から刃を奪い取ったようだった。


 短剣のようなものがクルクルと宙を舞い、天井に突き刺さって止まる。その隙に晶蘭は前へ踏み込んだが、相対していた相手が重さを感じさせない動きで後ろに下がる方がわずかに早い。


 後ろ向きに跳ねながら、敵は廊へ逃れた。晶蘭に続いて紅殷が廊へ駆け出た時には、紅の影が階段裏の露台の上にある。


「待てっ!!」


 晶蘭の叫びに、影はユラリと振り返った。その姿を紅殷は己の瞳に焼き付ける。


 少女だ。紅の衣を纏った少女。


 花嫁装束のように豪奢な紅の装束。顔には衣装に相応しい華やかな化粧が施されている。


 そんな姿に身を包んでいながら、少女は猿のように露台の手すりに四つ足をつき、表情のないのっぺりとした顔で晶蘭と紅殷を見据えていた。光がない瞳は焦点がどこで結ばれているのか定かでないのに、それでも少女が怨嗟の念とともに紅殷達を見据えているのが分かる。


 チャラリと、長い袖に隠された手の中で、抜き身の短剣同士が擦れて音が鳴っているのが分かった。確実に晶蘭が一本奪ったはずなのに、少女はそのたっぷりとした袖の中にまだ凶器を隠し持っているらしい。


 その少女が、威嚇するように歯を剥いた。黄色く濁った歯の隙間から、老婆のようにかすれたガラガラの声が漏れ出てくる。


「ここは、嫋嫋じょうじょうねえさんの店だ」


 聞き取りづらかったが、少女は確かにそう言った。


「邪魔をするな。邪魔をするな。邪魔をするヤツは……」


 ツイッと、先程まで刃を握っていた腕が上がる。袖から除いた手は老女のようにシワが寄り、獣のように爪が伸びていた。


 ──! マズ……っ!!


 その禍々しさに紅殷はとっさに晶蘭を押しのけて前へ出ていた。今度は紅殷が晶蘭を庇うように立ちはだかり、帯に吊るした手鈴を抜き取る。


 その瞬間、黄金の燐光がフワリと手鈴の周囲を舞った。


「邪魔をするヤツは、全員」


 その先は、音にさせなかった。


 光が、弾ける。


 今まで紅殷がどれだけ動き回ってもコトリとも音を鳴らさなかった手鈴は、紅殷に打ち鳴らされた瞬間清冽な音を炸裂させた。衝撃波と称した方が近い大音声で広がった鈴の音は、呪詛の言葉どころか少女の存在そのものをこの場から打ち祓う。


「ギャッ!!」


 手すりに乗っていた少女が、音の衝撃に弾かれて宙を舞う。


 反射的に紅殷が露台へ追いすがった時、少女の姿は跡形もなく消えていた。

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