金黒、噂を聞きて現地を訪う

 廃墟と化した元妓楼の中から、夜な夜な琵琶びわの音が響くのだという。それだけでも十分恐ろしいというのに、最近はその音色に合わせてフワリと二階の露台に紅の衣のたもとが舞うようになった。


「妓楼が廃墟となったのは、約三年前。その半年前に、看板娘であった妓女が首を吊って亡くなっています」

「蘭蘭、お前、何だかんだ言いながら事前に調べてきてくれてるんじゃん」

「どうせあなたが首を突っ込むと思っていたので。……というか、蘭蘭言うな!」


 首を吊った妓女というのは、容貌の美しさもさることながら、琵琶の名手として界隈では有名であった。


 その妓女が幽鬼であっても往年の琵琶が聞けるならと願ったかつての客や、ひとつ話の種に悲劇の妓女の幽鬼を眺めに行くかという酔客達で、妓女が亡くなった直後はその妓楼にひっきりなしに客が訪れたという。


 だがその内、誰もそんな真似はしなくなった。


 幽鬼目当てで妓楼を訪れた者達が、次々と原因不明の病にかかったからだ。中には死に至った者もいたらしい。


「腹痛、続いて高熱と頭痛。熱が引くまで持ち堪えれば助かる見込みもあるが、持ち堪えられなければそのままポックリ」


 同じ病はやがて客だけではなく妓楼の関係者達にも広がっていき、妓女が首を吊って半年後、ついに生き残った妓楼関係者は楼を打ち捨てて逃げ出した。後には看板が掛かったままの元妓楼の廃墟だけが残された。


 それでもなお、妓楼の中からは夜な夜な物悲しい琵琶の音が響き続けているらしい。


 それらを妓女のたたりであると恐れた人々は、以降なるべくその元妓楼に近付かないようにしてきた。周囲一帯は元々ちょっとした花街としてにぎわっていたが、問題の妓楼が廃墟と化した頃には客が寄り付かなくなり、やがて周囲の店も次々と看板をおろして街から去っていったという。


 妓女が首を吊ってから街が捨てられるまで、一年程度のことだった。


 その後は酔狂者が度々度胸試しに訪れるような魔怪の名所と化しているらしいが、いまだに祟りによる死者が出ているような有り様らしい。そのせいか野盗や浮浪者さえも住み着かず、くだんの坊の中は羅城の内とは思えないほどすさんでいるという噂だ。


 だが数ヶ月前、不意に事情が変わった。


「とある豪商が、廃墟街となっていた周囲一帯の土地をまとめて買い上げたそうです。具体的には坊まるごと一区画分」

「俺、その辺りのことよく分かってねぇんだけど、そんなことってできるもんなんだな。屋敷を一軒買うのとはまた話が違うだろうに」

「私も詳しいことは分かりませんが、できてしまったから今こんなことになっているのでしょうね」

「そりゃそうだ」


『商売筋にも官僚筋にも、相当な額の金子が積まれたのでしょうね』という晶蘭しょうらんの言葉に、紅殷こういんは『そうだなー』と気のない声を上げた。


 あまりに巨額な金子が動くとその背後にまた新たな闇がうごめくのは世の常なのだが、その闇は紅殷と晶蘭の管轄外だ。だがその闇の中から怨念やら人死やらが発生すると途端に紅殷達も巻き込まれることになるから、なるべくならそういう意味でも世間は平和であってほしいと願っている紅殷である。


玉仙宮ぎょくせんぐうに度々嘆願しに来ていたのも、恐らくその豪商の関係者でしょう」


 一瞬だけ遠い目になった辺り、晶蘭も似たようなことを考えていたのだろう。だが晶蘭は軽く頭を振って意識を切り替えると説明の言葉を続けた。


「豪商の名はさい賀恵がけい。商売は色々と手広くやっているようですが、主になっているのは高利貸しのようですね」


 犀賀恵は廃墟街と化していた坊ひとつを丸ごと買い上げ、再建することを思いついたらしい。大地主兼商家元締としてその街での商いの全てを掌握し、もうけを吸い取ろうという算段だろう。


 確かにその廃墟街は都に巡らされた羅城の正門である慶陳門けいちんもんのすぐ近くに位置している。元々花街が発展したのも、慶陳門を行き来する旅人達に需要があったからだ。


 都と外を行き来する旅人達を相手に商売をするには立地が良く、幽鬼の噂が回りに回ったおかげで土地代も安い。賀恵の目のつけどころは間違ってはいなかった。


 後は幽鬼を祓うだけ。修祓を大々的に行なえば、幽鬼はもう退けられたという喧伝にもなる。


 そう考えた賀恵は、高名な巫覡ふげきを雇い、金を惜しむことなく派手に修祓の儀を執り行った。


「まぁ、そこで『無事に修祓は終わりました』って平和に話が終わってれば、俺達が出てくるまでもない話だったんだろうけど」


 紅殷は動かしていた足を止めると、溜め息とともに腕を組みながら目の前の廃墟街を見上げた。


「残念ながら、年単位で怪異を起こし続けている幽鬼が、そんな簡単に退けられるわけがないんだよなぁ」


 まだ昼過ぎだというのに、街の景色はどこか陰って見えた。人気ひとけはなく、風が吹いているはずなのに空気はよどんでいる。明らかに気の巡りが悪い。ここまで陰が澱んだ中に常人が迷い込めば、一日とたずに体調を崩すことになるだろう。


 この近辺には野盗や浮浪者も寄り付かないという話だったが、恐らくその原因は幽鬼の噂を受けたからではなく、この陰気に耐えることができないせいだ。それくらいこの廃墟街は、坊門をくぐってすぐの地点から強烈な陰気が澱んでいる。


「これ、幽鬼の件がなくても放置しといていい状態じゃねぇだろ」

「確かに、私でも空気が悪いことが分かりますね」

「どうしてここまでのことになってるのに誰も気付いてなかったんだ? この規模で土地が陰に傾いてると、都全体に影響が出てそうなもんなのに」


 玉仙宮では、都の地脈の監視もしている。陽が栄えれば人もモノも活気づき、陰が栄えれば人もモノも衰退していく。陰は極まれば死や疫病、気鬱や動乱、魔怪を招くことになるから、特に注視して観察しているはずだ。


 ──気付かれないように、誰かが細工をしていた? それとも、誰かに買収された玉仙宮の内通者が情報を握り潰していた?


が必要ですか」


 片手を顎に添えて考え込んだ紅殷に晶蘭が声を落とす。頭半分背が高い晶蘭を見上げると、晶蘭は常の厳しい表情をさらに固くして紅殷に視線を注いでいた。


 自分も似たりよったりな顔をしているんだろうなと考えながら、紅殷は口を開く。


「まだ分からないってのが正直な感想だな。誰かがこの土地に細工をしてたのか、玉仙宮の怠慢なのか。その怠慢も故意なのか過失なのか、今の状況じゃ分かんねぇから」


 ただ、事態は当初思っていたよりも深刻だ。やはり色んな意味で自分が出しゃばって正解だったなと考えながら、紅殷は意図してヘラッとした笑みを晶蘭に向ける。


「玉仙宮の人間は引きこもりばっかだからな。案外『龍盤に異常が出てなかったから気付かなかった』っていうアホみたいなことが原因かもしんねぇし」


『ここで考え込んでても仕方がねぇよな』という紅殷の意図を察した晶蘭は、小さく肩をすくめながら軽く息をついた。その後に続いた晶蘭の声からは、先程までの固さが抜けている。


「その『アホみたいなこと』が真実であったなら?」

「俺直々に担当官を指導する」

「どちらにしろ、何かをやるならやるで、実行前に私に一報ください。何事にも下準備が必要ですから」

「ん」


 晶蘭の言葉にあえて軽く応えた紅殷は、グルリと一度周囲に視線を巡らせてから改めて晶蘭を見据えた。纏う空気を改めた紅殷に、晶蘭の表情がスッと真剣味を帯びる。


「さて晶蘭。今のお前には何が見えている?」


 巫覡としての紅殷の問いかけを受けた晶蘭は、紅殷に答える前にもう一度グルリと周囲へ視線を巡らせた。その動きは問いを発する前の紅殷の動きによく似ている。


「廃墟街です。人の気配はありません」


 最後に紅殷へ視線を戻した晶蘭は、聞きようによっては当たり前とも思える言葉を、至極真剣に口にした。


「空気が澱んでいて心境的に息苦しいですが、体が本当に息苦しいわけではないと思います。瘴気の類は、私の目には見えません。あなたはどうですか?」


 晶蘭からの言葉に真剣に耳を傾けていた紅殷は、晶蘭からの問い返しに頷くと同じ固さで言葉を発した。


「俺にも廃墟街が見えてる。人の気配は俺も感じてない。具体的な幽鬼の気配も、今のところは感じてないな。陰の気が強いせいか景色は陰って見えるけど、視界をさえぎられるほど瘴気が具現化しているわけでもない。放置できるギリギリ限界って感じだ」


 紅殷の言葉に、晶蘭も紅殷が見せた緊張感と同じものを醸しながら耳を傾ける。さらに小さく頷いた晶蘭は、緊張を消さないまま確認の言葉を発した。


「つまり今のところ、私とあなたは同じ景色を見ているということですね」

「だな」


金簪きんさん仙君せんくん』の名を取る紅殷は、間違いなく名実ともに芙颯ふそうが誇る最高峰の巫覡だ。特に『見鬼けんき』と呼ばれる『視えざるモノを視る力』は巫覡の中で比べても抜きん出ている。そもそも紅殷が第三皇子でありながら玉仙宮に預けられたのも、元を正せば強すぎる見鬼の才が原因だった。


 紅殷の視界には、ヒトもヒトならざるモノも、同じように映り込む。


 逆に言えば紅殷には、。それくらい紅殷が視る世界ではヒトならざるモノが鮮やかに存在している。


 幼子の頃はそれが原因で魔怪にかどわかされそうになったことも幾度となくあったし、周囲の目には映らない……それこそ玉仙宮で修行を積む巫覡達でさえ気を付けていなければ見落としてしまいそうな幽鬼達を相手に、楽しそうにお喋りをしていたこともあった。


 成長した今は見鬼の力にさらに磨きをかけ、存在が抱えたまでをも見通すことで見分けを付けているが、それでも時折相手が幽鬼であることに気付かず、うっかり楽しく喋り込んでしまうことがある。


 そこで紅殷の『世間一般』の尺度となってくれるのが、相棒である晶蘭だ。


 晶蘭は所属こそ玉仙宮だが、巫覡ではない。巫覡としての素質だけで言えば至って凡人だ。紅殷が加護を授ければ幽鬼を視ることもできるが、平時はよほど強力な魔怪でない限り晶蘭の目には映らない。


 だからこそ晶蘭は、紅殷に『異常』を知らせる目になることができる。


 紅殷と晶蘭で見えるモノを突き合わせ、差異が生まれればその差異が幽鬼、ということだ。


 ──『晶蘭は俺に嘘をつかない』っていう大前提があって、初めて成立する方法ではあるんだけどな。


 とはいえ晶蘭が紅殷を害するような嘘をつくなど天地が引っくり返ってもあり得ないから、初めから心配したことなどないのだが。


「んー、どうすっかねぇ」

「犀賀恵が玉仙宮に上げた報告では、雇った巫覡が一度、幽鬼の浄祓に失敗しているんですよね?」


 肘を高く上げて両腕を頭の後ろで組んだ紅殷は、もう一度グルリと周囲を見回した。そんな紅殷に晶蘭が再び問いを向ける。銀の籠手が通された手を剣の柄に置いた晶蘭は、紅殷に合わせて固さを緩めた声を上げていても奥底に潜めた警戒心を決して解こうとはしない。


「らしいな」


 そんな晶蘭のことを頼もしく思いながら、紅殷は軽やかに足を進め始めた。廃墟街の奥へと歩き出した紅殷に半歩遅れる形で晶蘭が続く。


「報告に上がってる分には、執り行った修祓は一回。それを失敗したから玉仙宮へ泣きついた。……ま、でも実際にはもっと失敗してるんじゃねぇかな?」

「分かるんですか?」

「いんや。そこまで大々的なことをやっといてさ。金だって馬鹿みたいに積んだってのに、たった一回で『失敗しました。巫覡が死にました。幽鬼を怒らせてしまって、このままじゃ一族郎党祟り殺されそうです。勝手なことしてごめんなさい。謝るから助けてください』なーんて、大商人が言うわけなくね? って思ってさ」


 つまるところ、先程の『平和に話が終わってれば、俺達が出てくるまでもない話だった』の続きだ。


「まるで実際に聞いていたかのように語りますね。また相談窓口に忍び込んで聞き耳を立てていたんですか?」

「聞き耳だなんて人聞きが悪いなぁ、蘭蘭。向こうがやったらデカい声でまくし立ててたから、散歩中の俺にまで聞こえちまったって話じゃん?」

「『散歩』と書いて『御所を抜け出して相談窓口に忍び込み』と読ませるあなたよりマシです。……だから蘭蘭言うな!」


 にべもない晶蘭の言葉を紅殷は口笛ひとつで聞き流す。


 とはいえ、偶然あの時に紅殷が魔怪相談窓口に忍び込んでいなければこの一件に紅殷が首を突っ込むことはなく、引いては現状を紅殷が知ることもなかったのだ。ここは握り潰されていた重要案件を見つけることができたのだと、明るい方向に捉えてもらいたい紅殷である。


「何度も浄祓を失敗しているのだとしたら、少々厄介なのでは」


 何だかんだ言いながらもそのことは晶蘭も理解しているのか、表情を改めた晶蘭が声にわずかな心配を混ぜた。腕を解いた紅殷も、晶蘭を振り返る視線に鋭さを混ぜる。


「だな。怒りに囚われて言葉が通じなくなると厄介だ」


 報告によると、賀恵が市井の巫覡に頼んで大々的に行わせた浄祓は失敗に終わったらしい。幽鬼が祓えなかっただけではなく、幽鬼の怨念が巫覡へ返って、巫覡当人を含む複数人の死傷者が出たという話だ。


 人の死や大怪我は、その土地に陰を呼ぶ。浄祓の失敗とはすなわち、儀式の場となった土地にさらなる陰を呼び込んだということに他ならない。


 浄祓の失敗に加えて死者が発生しているというのは、対処を施した結果として一番最悪な形だ。今回はすでにその『最悪』の状態に陥っている。


 幸いなことに、と言っていいのか、今のところ死者は儀式を執り行った巫覡と、儀式の進行を手伝っていた弟子達だけで留まっているらしい。儀式の場に列席していた賀恵の部下が数人負傷したそうだが、賀恵とその血縁は無事であるとのことだった。だが目の前で人が死ぬ光景を見てしまった精神的な傷は深く、『近いうちに自分達もああなるのではないか』と賀恵と血縁は日々怯えて暮らしているらしい。


 ──まぁ、『幽鬼』という存在を甘く見すぎたって部分は、ある意味自業自得なわけなんだが。


 紅殷が思うに、今回の幽鬼に限って言えば、『関係者一族郎党祟りによって皆殺し』というような被害は生まれないはずだ。


 怪事が元妓楼の中でしか起きていないことから考えるに、恐らくくだんの幽鬼は自死した場所に地縛されている。場所ではなくヒトに憑くたぐいの幽鬼であったならば、被害はもっと強く出ていたはずだし、玉仙宮だってもっとその存在を危険視していただろう。


 ──だから俺的にマズいことは、祟りとかじゃなくて、修祓の失敗で幽鬼を怒らたかもしれないってことなんだよなぁ……


 幽鬼というのは、この世に強い執着を持つ死者の魂だ。すなわち、元は人間ということになる。


 人間であるならば、言葉を交わすことができる。


 実際のところ、巫覡が儀式的な手続きを踏み、根気強く語りかければ、生前と同じように幽鬼と会話をすることは可能だ。意思の疎通ができれば幽鬼が何に執着しているのか知ることができる。無念の根本を解いて執着から解放してやれば、幽鬼を魂の輪廻の中に還してやることも可能だ。


 もちろん、全ての幽鬼にそれができるというわけではない。悪鬼に堕ちた幽鬼は霊力と術を駆使して力尽くで叩き壊すことになる。


 巫覡の技量が足りずに意思の疎通が図れない場合も同様だ。中には『わざわざそんな面倒なことをする必要性などない』と最初から力業ちからわざに訴える者もいる。


 だが紅殷は、できることならば全ての御霊を輪廻の中に還してやりたいと思っている。


 無念を解いて浄化してやるのが一番後腐れがない対処法だから、という理由ももちろんある。


 だが紅殷が『対話』を大切にしている、一番の理由は。


 ──俺が視る世界では、どちらも等しくヒトだから。


 幽鬼が生身の人間と変わらないほど鮮やかに視界に映る紅殷にとっては、生きているか死んでいるかの違いだけで、幽鬼も人間もどちらも等しくヒトだ。


 困っている人間が目の前にいれば助けの手を差し伸べたくなるように、目の前に死んでも手放せない思いを抱えた幽鬼がいれば、その執着を解いて来世へ送り出す手伝いくらいはしたい。それが紅殷の偽らざる本心だ。


 ──ま、それが俺の思い上がりで、俺が綺麗事ばっかり言っていられる立場だからそう思うんだろうってことは、重々承知なんだけどな。


 それでも綺麗事を叫べる立場にいる人間が綺麗事を叫ばなければ、誰も綺麗事なんて口にできないと思うから。


 だから今日も紅殷は、綺麗事を振りかざすべく、握り潰されていく声に耳を澄まし、呼ばれてもいない現場にしゃしゃり出る。


「幽鬼だって、元々はヒトだ。明確に自分を狙って攻撃されれば自分の身を守るために反撃するのは当たり前だし、自分の領域を土足で踏み荒らされれば腹も立つ。陰を重ねることにならなくても、その後の浄祓は格段に難しくなる」


 一瞬本筋かられた意識を今に引き戻しながら、紅殷は言葉を続けた。紅殷に付き従って浄祓現場を渡り歩いている晶蘭にとっても、それは当然の摂理だ。


 紅殷の言葉に小さく頷いた晶蘭は、続けて問いを投げた。


「髪、どうしておきます?」

「んー」


 言外に『本気で行きますか?』と問われた紅殷は、視線を宙へ投げながらしばし考えを巡らせる。


 数歩進む間に出た答えは『否』だった。


「いや、まだ今はいい。噂では、幽鬼の目撃情報は夜にかたよってる。今はまだ様子見するだけのつもりだから、髪まではいい。下手に最初から本腰入れて、向こうに警戒されるのも良くないだろうし」


 紅殷が理由とともに答えると、晶蘭があからさまに顔をしかめた。思わず紅殷が顔を上げると、この上なく渋い顔になった晶蘭と視線がかち合う。


「晶蘭?」

「夜って……。まさか、泊まり込むつもりですか」

「え? 分かってただろ?」


 今更何を、と紅殷は目をしばたたかせる。対する晶蘭は『またあなたは……』とでも言わんばかりに片手で顔を覆った。


「あなた、ご自身の立場、分かっていらっしゃいます?」

「分かってるって。だからこうして出張ってきてるんだろ?」

「それは分かっているようで分かっていないと言うんです」

「えー? だって蘭蘭、俺が動くならこうなるって分かってただろー? 何だかんだ言いながら、国師にちゃんと外泊許可もらってきてるんじゃねぇのー?」

「蘭蘭言うな! 取ってませんっ!!」

「え」


 ヒラヒラと片手を振りながら晶蘭の小言を受け流していた紅殷は、万事抜かりのない相棒の予想外な言葉に思わず体ごと晶蘭を振り返った。行く手をさえぎられる形になった晶蘭は紅殷にぶつかるよりも早くピタリと足を止める。下手をしていたら紅殷を跳ね飛ばしかねなかった所業に晶蘭はますます眉を吊り上げたが、晶蘭がさらなる小言を繰り出すよりも紅殷が言葉をまくし立てる方が早かった。


「ちょっ!? じゃあどうやってお前外出してきたんだよっ!? まさかお前まで無断外出!?」

「そんなわけないでしょう。……というかあなた、自分が無断外出をしているという自覚も、それがマズいことであるという自覚もあったんですね?」


 紅殷の発言を受けた晶蘭が声に怒気を混ぜる。地の底から響くような声を向けられた紅殷は、とっさに口笛を吹くと視線を逸らした。


「……国師には、あなたの姿が見当たらないから探しに行くとだけ言ってあります。まさか最初から泊り込みの調査を予定していたなんて、さすがに思いませんでしたからね……」


 しばらく紅殷にジトッとした視線を据えていた晶蘭は、溜め息をついてから投げやりに答える。長い付き合いだ。この程度の小言で紅殷が行動を改めるわけがないと、晶蘭も最初から分かっているのだろう。


 言外に含まれた『仕方がないですね』という諦めから来る許容を汲み取った紅殷は、一応表面上だけ神妙な表情を浮べるとしおらしく問いかけた。


「それに対して国師は?」

「『あの馬鹿を頼む』と」

「なーんだ! それなら外泊許可が取れてるも同然じゃん!」


 だがそのしおらしさも長くは続かない。


 というよりも、しおらしさが表面上のものでしかないことはどうせ見抜かれているだろうから、浮かべているだけ無駄だ。


「あー、焦ったぁ! 俺はともかく、真面目な蘭蘭に無断外出やら無断外泊やらをさせるわけにはいかないからさぁー!」

「私の素行よりも、あなたの身の安全の方が余程問題であるはずなんですが……」

「大丈夫だって!」


 パッと表情を明るくした紅殷は後ろで手を組みながら踊るような足取りで歩みを再開させた。ついでに晶蘭を振り返り、ニシシッと笑みかけるのも忘れない。


「だって晶蘭が一緒だし!」


 その言葉にも晶蘭の眉間のしわは広がらない。むしろキュッとまた眉間の皺が深くなる。


 それでも紅殷は笑みかけることをやめなかった。


「俺にとっては、晶蘭の傍が一番安全地帯だからさ。蘭蘭兄ちゃんがいてくれるなら、幽鬼が出る廃墟にいようが、玉仙宮の奥殿にいようが大して変わりはないって!」


『嘘や世辞のたぐいじゃないぞ』という思いを込めて、紅殷は上目遣いに晶蘭を見上げる。市では交渉を有利に進めるために意図して取る仕草だが、晶蘭相手のこれは素だ。そもそも晶蘭はこれしきのことで紅殷にほだされてはくれない。


 ただ、こうして晶蘭を見上げれば、親愛と信頼は伝わるはずだと思っている。


「ただ、晶蘭が素行不良で玉仙宮を放逐されたら、俺が困るなぁって思ったからさ」


 しばらく無言で紅殷を見つめていた晶蘭は、小さく溜め息をつくと歩を進め始めた。武人である晶蘭の歩みは早くて、紅殷との間に開いた距離はあっという間に詰められる。


「……私が放逐されるよりも前に、あなたが素行不良で放逐されそうですね」


 紅殷を追い越した晶蘭の口元には淡く笑みが浮かんでいた。それをしっかり見て取った紅殷も、表情に笑みを残したまま晶蘭の隣に並ぶ。


「俺が放逐される時はお前を引き抜いて一緒に出奔する予定だから、よろしくな」

「現実問題、あなたに出奔されたら国の方が終わりそうですね」

「だよなー、実は俺も思ってた」

「しかし、それとこれとは別問題です。帰還したら国師のお説教が待ち構えているはずですから、覚悟しておいてくださいね」

「え? だって、許可……」

「私は外出の旨を報告して許可を頂いていますけど、あなたが無断外出していることに変わりはないでしょうが」

「う……蘭蘭も」

「あなたが逃げ出さないように、床に正座させられたあなたの後ろに立ち塞がることになるでしょうね」

「うぇ」

「あと、蘭蘭言うな」


 ポンポンと跳ねるように軽口を叩き合いながら、二人の足は迷うことなく廃墟街を奥へ奥へと進んでいく。


 そんな二人が、一件の店の前で揃って足を止めた。


「さて、ここっぽいな」


 表通りから一本裏に入った通り沿い。


 残された面影から察するに、恐らく花街としての本通りがここだったのだろう。元は朱色の提灯が連ねられていたのであろう軒先には、元が何かも分からなくなった細工の残骸が物悲しく揺れている。


「一際陰の気が強い。幽鬼がいるとしたらここだな」

「一目見て妓楼と分かる造り。周囲で唯一看板を降ろしていない店。名前は『月華楼げっかろう』」


 くだんの妓楼を見上げたまま、互いに所感を言い合う。


 晶蘭と考えを擦り合わせて、目の前の建物が噂の幽鬼が出る妓楼に間違いないと確定させた紅殷は、スッと姿勢を正した。その隣で晶蘭も腰の剣に右手を添える。


 呼吸は最初から揃っている。打ち合わせるまでもなく、言葉は同時に音になっていた。


「では」


 凜とした声が、重なる。


「敬意をもって」

「誠意を以て」


 決意を載せた声が、陰を祓う。


「お邪魔しますかね」

「推して参る」


 言葉は違っても、纏う響きは同じ。


 その誓約の言葉とともに、二人は妓楼の中へ足を踏み入れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る