嫋嫋たるや、月仙の宴

 周囲が闇に沈めば街もまた寝静まるものだが、廃墟街というものは生きている街が寝静まるのとはまた違う独特の静寂に包まれるものだ。


 むしろ廃墟街は、夜の闇に沈んでからの方が妙な気配をはらんで騒がしい。


「……ひとまず今、周囲に俺達以外の気配はなさそうだな」

「はい。そのようですね」


 月が明るいおかげで、視界は思ったよりも開けていた。


 もっとも、紅殷こういんの視界は昼間よりも濃度を増した瘴気のせいで、かなり陰ってはいるのだが。


 ──霊脈を活性化させるっていう裏技を使ってても、これじゃあなぁ……


 意味などないと分かっていながらも、無意識のうちに上がった手が、目の前に漂う煙を払うかのようにパタパタと揺れていた。その仕草としかめっ面で紅殷が置かれた状況を理解したのか、晶蘭しょうらんはより一層表情を引き締める。


「二階で良いですか?」

「あぁ。不測の事態があったら、適宜てきぎ頼む」

うけたまわりました」


 短く手筈てはずを確認した二人は、改めて目の前の妓楼を見上げた。


 まだ日があるうちに一度訪れた妓楼は、昼間に訪れた時と変わらずしんと静まり返っている。昼間に紅殷達が暴れたせいなのか、それとも他に要因があるのか、今のところ琵琶の音が聞こえることもなければ、くだんの露台にそれらしき影が舞うこともない。


「……さて」


 街一区画がまるごと廃墟になっているおかげで、坊門は開いたまま、巡回の衛士の姿さえなかった。そのおかげで誰にも見咎められずにすんなりと入り込むことができたが、ここから先もすんなり行かせてもらえるかどうかは状況と紅殷達の手腕にかかっている。


 紅殷はチラリと晶蘭を見上げるとスッと左手を差し出した。その手に応えて伸ばされた晶蘭の右手が軽く紅殷の右手とぶつかり、パチンッと軽やかな音が鳴る。


 その瞬間、パッと二人の間に黄金の燐光が散った。キラキラと漂った燐光は霧のように二人の体にまとわりつく。この燐光が消えない間は……隠身おんみの術が効いている間は、二人の姿は幽鬼から見えなくなっているはずだ。


 ──ま、ただのヒトが見る分にはバッチリ見えてるわけだけど。


 むしろ今回はその方がいいのかもしれない。何せ闇に潜んでいるモノが幽鬼なのか、それよりも性質たちの悪い人間なのか、判断がついていない状況だ。ヒトと幽鬼で相手の反応が変われば、正体を見分ける基準になる。


 紅殷はもう一度二階の露台を見上げてから、スッと背筋を正した。


 表情をかき消した紅殷が姿勢を正しただけで、周囲の空気はかしこまるかのように緊張を帯びる。その緊張が漂う瘴気までをも追いやっているのか、紅殷の視界からスルリと瘴気の霧が消えた。


 世界と自分を隔てる輪郭が曖昧にぼやけて、自分という存在が世界と同化していくような心地がした。


 その状態のまま、息をひとつ、ふたつ。


 晴れた視界でひたと前を見据え、紅殷は気品が漂う挙措で妓楼の入口へ続く階段に足をかけた。


 先程までとは打って変わり、まるで宙を滑るかのように歩く紅殷の姿は、周囲から見ればまるで天仙が玉殿を進むかのように見えることだろう。紅殷からハラハラと絶えることなく舞い落ちる燐光が、その神々しさに拍車をかけている。


 昼は晶蘭と並んでくぐった表口を、今回は紅殷が晶蘭を従える形で先にくぐった。衣の裾をわずかに揺らすだけでスルリ、スルリと進む紅殷は、そのまま真っ直ぐに二階へ繋がる階段を登る。


 その歩みを後ろに従った晶蘭は止めなかった。腰の剣に片手を添えた晶蘭は、まるで紅殷の影であるかのようにただ静かに紅殷の後ろに従う。


 昼間はあれだけ軋んだ床が、今はコトリとも音を鳴らさなかった。そのことにさえ今の紅殷の心は疑問を呈さない。


 心は、風が凪いだ湖のように静かだった。鏡のように凪いだ心をどこか別の場所から眺めるような心地で、紅殷はただ意識を引っ張られるがままにフワリ、フワリと雲を踏むように歩を進める。


 そんな紅殷の心の水鏡が、不意に微かな波紋を捉えた。


 その瞬間、紅殷の鼓膜を微かな音が震わせる。


 ──これ、は……


 あるいは、最初に震えたのは鼓膜ではなく、魂魄や心の方だったのかもしれない。


 微かな音であったのに聞いた我が身を余さず震わせる哀切に満ちたそれは、たおやかな琵琶の音だった。


 階段を登りきった紅殷は、そこで足を止めると視線を廊の突き当たりへ向ける。


 昼間の襲撃のせいで所々壁が崩れ落ちた二階は、青白い月光に満たされていた。陰の気に満ちていながら幻想的でもある景色の中を、じょう、嫋、と琵琶の物悲しい音色が揺蕩たゆたっている。


 ──暁恨ぎょうこん想歌そうか


 奏でられている曲は、紅殷にも聞き覚えがある曲だった。


 だがそれは宮殿の宴で披露されるような高尚なものではない。市井に潜り込んでいる時に、紅欄の内から漏れ聞こえてくるのを聞きかじり、市井の住人達から題を聞いて知った曲だった。


 ──物悲しくも激しい、恋の歌だ。


 惚れた男を想い、待ち続ける女の心情を歌う曲だという。紅殷にこの曲の題を教えてくれた人は、男が訪れてくれない夜を待ちぼうけて白々と明けていく空を恨んだ曲だとも、自分の元に通ってくれた男を帰さなければならないと迫るあかつきを恨む曲だとも言っていた。


 確かにその時に聞いた音色には、暁を恨む激しい気持ちが込められていた。波打つ旋律は男と自分の仲を裂こうとする朝日を再び引きずり下ろし、世界をもう一度夜の闇の中に引きずり込んでやるという激情が垣間見えた。


 だが今、この場で奏でられる、その曲の調べは。


 ──ただただひたすらに、切なく胸を打つ。


 紅殷は階段から数歩進んだ場所で足を止めた。


 そんな紅殷の視線の先、廊の突き当たりに造り付けられた地袋の上に、月光がこごるようにしてジワリと女の姿が現れた。地袋の天板に腰掛け、腕の中に琵琶を抱えた女は、紅殷達に気付いた様子もなく、嫋、嫋、と琵琶を歌わせる。


 女は琵琶に視線を落としているから、紅殷から見えているのはうつむいた横顔だけだ。だがそれでも女の容貌が美しく整っていることはよく分かる。


 纏っているのは娼妓には相応しくない婚礼用の紅衣だった。身を飾り立てる装飾品はどれも紅衣に映える豪華絢爛な物が用いられているのに、唯一結い上げられた黒髪の隙間から覗く青い輝石の耳飾りだけがどこか安っぽかった。その古ぼけた耳飾りだけが、どこか場違いに浮いて見える。


 ──何なんだろう、この違和感。


 得てしてこうした違和感は、修祓の手がかり……幽鬼が抱えた執着への糸口を示す。己が拾い上げた違和感を逃さぬよう、紅殷は女の幽鬼に視線を据えたままスッと目をすがめた。


 そんな紅殷に気付く素振りも見せず、耳飾りを微かに揺らしながら女は琵琶を奏で続ける。白い指先はユルリ、ユルリと弦の上を滑り、まるで月光を紡ぐかのように妙なる調べを生み出していた。


「……良い曲だ」


 思わず、言葉がこぼれていた。その瞬間、パッと紅殷の周囲をたゆたっていた燐光が弾けて消える。


 それを合図にしたかのように女の指が止まり、ユルリと顔が紅殷の方へ向けられた。


 視線が、かち合う。幽鬼の瞳の中に、紅殷の姿が映り込む。


 その様を見た紅殷は、まるでここが市井の昼日中で、道端で琵琶を奏でていた妓女の演奏に通行人がたまたま足を止めたかのように、自然な笑みを浮かべて言葉を紡いだ。


貴女あなたの紡ぐ音色は、聞く人の胸を深く打つ。きっと貴女の奏でる音が、私の中にある哀愁と共鳴しているんだろうな」


 紅殷の言葉は、それまで虚ろな瞳をしていた妓女の心に確かに届いたようだった。


 ユルリと紅殷に焦点を結んだ妓女の瞳に不意に感情が宿り、それが溢れ出たかのように妓女の両目から澄んだ雫がこぼれ落ちる。


「あの御方も……そのように、わたくしの琵琶の音を、褒めてくださいました……」

「今の音は、その御方を思ってのものだったのかな?」

「はい……はい、そうで、ございます……」


 ポロポロとこぼれ落ちていく涙は、まろやかな頬を伝い、琵琶の上に落ちて弾け、月光の中に真珠の小粒を散らすように消えていく。そんな物悲しい姿までもが絵になる、月仙のような女だった。


 そんな女に微笑みかけたまま、紅殷は笑みの中に小さく切なさを混ぜる。


「その人のことを、今でも待っているのかい?」

「はい。迎えに来てくれると……わたくしの身請けまでには必ず、迎えに来てくれると……」


 女の左手が琵琶から離れ、己の耳で揺れる耳飾りに添えられた。己の身を飾る絢爛豪華な装飾品に一切興味を示さない女は、古ぼけた安物だと一目で分かるその飾りをただただ愛おしそうになぞり続ける。


「だからわたくしは、ギリギリまで出立を引き伸ばしたくて……ここで、琵琶を」


 馴染みの皆様に別れの一曲を手向けたいと望めば、それを断れる人間は誰もいないから。


 だからその一曲が終わることのないように、最後の一音を紡ぐ前に曲を歌い出しに戻して、ユルリ、ユルリと楽を奏で続ける。


「だって……だって、必ず来てくれると、最後に、わたくしの琵琶に笛を和して、誓ってくださいました……」


 名手が紡ぐ音は、己の心に嘘をつけない。言葉ではどれだけ偽りを紡げても、楽の名人達は己からあふれる音は偽れない。


 だから偽りしかないこの場所で、わたくし達は互いに交わす楽の音こそがまことだった。


 だから、信じている。ずっとずっと、信じている。


 長い時が経ってしまった今も、変わることなく。


 ──この人は。


 意識して力を解放している紅殷は、意識の一部を世界と共有している。己と世界を隔てる輪郭が酷く曖昧で、その曖昧に溶け合った部分で場に渦巻く執着の声を聞く。


 深く女の幽鬼と共鳴している紅殷には今、言葉として紡がれていない女の気持ちまでもが聞こえてしまっていた。


 だからこそ、分かる。


 ──自分がもう死んでいることも、男が迎えに来てくれなかったことも、全部承知でまだここで待っているんだ。


 女は再び左手を琵琶に添えると、嫋、嫋、と哀切の音色を紡ぎ始めた。聞く者の魂魄を誰彼構わず吸い寄せてそのまま引き千切って持って去っていきそうなその音色は、その実たった一人、恋い焦がれた男にだけ捧げられたものだ。


 ──この幽鬼は、無害だ。幽鬼ではあるけども、ヒトを害するたぐいのモノじゃない。


 幽鬼と実在にまみえ、直に言葉を交わした紅殷はそのことを実感する。


 月光が凝ったかのような女は、美しかった。姿形がというわけではなく、存在そのものが清浄で美しい。自死した幽鬼ではあるから陰の気を纏ってはいるが、人を殺した幽鬼特有の粘着くような嫌な瘴気を幽鬼からは微塵も感じない。


 ──この幽鬼は、ヒトを殺していない。


 今までに数え切れない幽鬼を視てきた紅殷だから分かる。


 この幽鬼は直接手を降すことはおろか、たたりを振り撒いて間接的にヒトを呪い殺すことさえしていないはずだ。ここまで無害な幽鬼は珍しいとさえ言ってもいい。


 ──だけどこの現場では、実際に何人ものヒトが死んでいる。


 かつての妓楼関係者の生き残りが、この建物を捨てて逃げ出さなければならなかったくらいに。坊まるごとひとつが廃墟と化すくらいに。ここでは祟りでヒトが死んでいて、さらに巫覡ふげきと弟子が直接殺されている。


 ──修祓の現場で巫覡達を殺した幽鬼は、もしかして別物なのか?


 ならばその正体は一体何なのか。なぜひとところに何体もの幽鬼が集まっているのか。


嫋嫋じょうじょうねえさん!」


 一瞬、紅殷の思考が己の内に沈み込む。


 だが完全に沈み込むよりも早く、鼓膜を直接ザラリと撫でるような不快な声が響いた。ハッと我に返った紅殷は、指先のわずかな動きだけで己に隠身の術をかけ直す。


 その瞬間、トンッと軽やかな足音が背後から響き、紅殷のかたわらを紅の影が疾駆していった。


「姐さん! 姐さん! 今日も琵琶を弾いてくれるのね! 蝶娘じょうじょうのために弾いてくれるのね!」


 幽鬼の前で足を止めた紅影は、その場に膝をつくと幽鬼の膝にじゃれつくように身を乗り出した。


 ──あれは、昼間の。


 小さな影は、幽鬼と揃いの……いや、それ以上にけばけばしい紅衣に身を包んだ少女だった。


 紅殷からは後ろ姿しか見えないが、昼間にこの場所で紅殷達を襲撃してきた少女に間違いない。老婆のようにしゃがれた声も、あの姿も、そうそう見間違えるものではないし、濃く纏わりついた瘴気は間違いなく昼に遭遇した時に感知したものだ。


「姐さん、姐さん、今日こそ蝶娘のために琵琶を弾いてくれるよね? あの男でも、客でも、ましてや姐さんを身請けしようなんていうあの男のためでもなく、蝶娘のためだけに弾いてくれるよね?」


 少女は幽鬼の膝に甘えながら、焦げつく寸前まで煮詰めたようなドロリと甘い感情を載せた言葉を吐いた。


 だが幽鬼の視線は一切少女には向けられていない。まるで少女の存在に気付いていないかのように、幽鬼はぼんやりと琵琶に視線を置いたまま、嫋、嫋、と琵琶を奏で続ける。


 それでも少女は気にしていないようだった。顔を上げ、恍惚とした視線を幽鬼に向けた少女は、夢見る乙女のように言葉を紡ぐ。


「姐さんをここから引き離そうとした人間は、蝶娘が全部消してあげた。姐さんの居場所であるこの店に手を出そうとした人間も、全部蝶娘が片付けてあげた。これでずっと、姐さんは蝶娘と一緒。蝶娘だけの姐さんでいてくれるよね?」


 その言葉に絡みつく情念に、ゾッと紅殷の背筋に寒気が走った。


 ──こいつだ。


 この少女は幽鬼ではない。それは昼間晶蘭がやり合ったから分かっている。


 だがこの少女は、もはやヒトでもない。


 生きながら、ヒトでありながら、ヒトの身では抱えきれない感情に身を焦がし、ヒトから身を堕とした魔怪だ。


 ──こいつが、この一件に関わる人間を殺して回っていたんだ。


「ねぇ、姐さん。蝶娘、たくさん舞の練習をしたの。姐さんの琵琶で舞うのは蝶娘だけでいいから、たくさんたくさん練習したのよ」


『ほら、見て!』と、少女は軽やかな動きで露台へ駆けるとフワリと袖を翻した。露台に飛び乗るまでの動きは猿そのものの人外の動きであったというのに、月光の中、露台で舞う少女は、そこらの妓女よりも余程優雅に、そして艶やかに紅のたもとをなびかせる。


 チャラリ、チャラリと長い袖の中から刃の音を響かせ、顔には執着に歪んだ笑みを載せながら、月光の中を魔怪に墜ちた少女は舞う。


「姐さん、姐さん。ずっと姐さんと蝶娘は一緒だからね!」


 だから姐さんは蝶娘だけを見ていて。他の誰にも余所見よそみをしないで。


「余所見なんてしたら、姐さんの視線を奪う全てを殺しちゃうんだから!」


 そう訴えながらケラケラと狂気とともに笑う少女の姿は、幽鬼の目には映っていなかった。

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