第3話
白い寝台の上、白いシーツをかけられ、横たわる女。実際に目にしたことはないけれど、解剖される前のご遺体とはこんな感じだろうか。あごを上げ、目を閉じ思った。汗ばんだこぶしに嫌悪感を持ったわけではないだろうが、彼女は僕のシャツの袖口を引っ張った。全ては目が物語っていた。輝く瞳。美しいものを見たときの光だ。詩人が描いたとしか思えないような画。傍らの遺物に目を遣る。おこがましいことに、今は亡き絵描きに僕は勝てると慢心していたのだ。その展覧会で、波立つような感受性に感化された僕は、いつものように図録を買って帰った。右手には、重量感の固まりのような図録、左手には華奢な彼女の右手があった。
翌日、彼女は約束どおりにやってきた。淡いベージュのスプリングコートの下には、青い花柄のワンピースをまとっている。コートの上から掴んだ手首が軋む。空いているほうの肩に一眼レフをひっかけて行く。高まる鼓動を抑えきれず、自然と歩幅も大きく早足になる。彼女は幾度となく足をもつれさせた。その度に、焦る心を落ち着かせようと、振り向き彼女に微笑みを与えた。すると、彼女もわずかに口角を上げるのだった。
彼女は、女神だ。僕らは、出会うべくして、出会った。
野暮な意匠の制服。浮かび上がる白いうなじ。君はいつだって、遠くばかりを見ていた。夜も明けきらぬうちに、しんしんと降り積もる雪。一切は彼女の奥深くに積もって、浸潤して、清純な世界は崩壊していった。清潔な彼女には、触れるものすべてががん細胞に他ならなかった。どうせ壊れていく運命ならば、この手で壊していきたいと思った。
古くは神社の関係者が多く住んだあたり。視界には、白い壁が広がる。
スプリングコートを脱ぎ、手をだらんとさせる。白い壁にもたれかかった彼女は、まさに一輪の花だ。即座に、薄い布きれから、葉が侵食し壁を覆っていくさまが容易に想像できた。気だるげな、それでいて射すようなまなざしからは薫るようだ。もはや当たり前に一体化した壁から手荒く彼女をむしりとる。坂道を下り、工場地跡に入る。
古ぼけた埃くさい室内に花を放る。大きな窓から射し込む光の中、埃が舞うのを見ていた。彼女は髪をかきあげた。放り出していた足を寄せる。しばらく抱え込んでいた足を、片方は床に倒し、組んでみせた。スカートをたぐりよせて、白い腿を露にしている。これは、彼女の癖だ。一見、はしたないようでいて、彼女のそれは神聖な儀式のようでもあった。自身の白い手足から、美しさに呆けていた僕へと視線が移る。さあ、好きにしなさいという合図だ。緊張した面持ちで、一歩ずつ近づいていくと、あごに手を伸ばされた。印象的な目が伏せられるとまつげの長さが際立つ。反対に、きつく結ばれた口元が解けていく。開いた唇に、舌をもぐりこませる。花瓶に花をいけるように、君には僕をいけよう。
形が良いと褒められた後頭部。僕の癖毛に、白い指を絡ませる。思春期の頃から気にし始めた癖毛が、彼女の細い指に纏わりついている。背徳感に思わず、口元に力が入る。顔を離すと、血液と唾液が混じったのを手で拭っていた。僕は舌の上で、彼女の血を味わっていた。まさか初めてのキスで唇を噛み切られるとは思わなかったと、彼女は独白した。その言葉に、改めて僕は顔を赤らめて目をそらした。目尻には、涙まで込み上げてきた。ふうと、彼女は溜息を吐くと、僕からカメラを奪った。初めて記念と称して、情けない顔を撮影されてしまった。
今や、完全に主従は逆転してしまって、今度は彼女が僕の手を引く番だ。火照った顔を冷ますには、ちょうどいい空気の中、歩いて行く。鼻歌まじりで、ごきげんの彼女はさあて、どこで君を押し倒そうかななどと気恥ずかしいことを平気で口にしている。そこで、ああ、だからかと合点がいった。実は、昨日、展覧会の帰り際に、彼女に着てくる服を指定したように、彼女も僕に同じことをしてきたのだ。彼女と僕の服装は、ちょうどあべこべで僕は白いシャツにチノパン、それに青いジャケットを着てくるように指定されていたのだ。さて、そうなると、僕の服装が映える場所というのは、ここらへんでは一体どこなのだろうか。日も落ちてきて、肌寒くなってきたのに、彼女は僕から青いジャケットを奪うと、既に羽織っていた自分のスプリングコートの上からジャケットを更に着込んだ。果たして、僕はクローバーの群れの中へと落とされた。シロツメクサみたいだねと彼女は嘯いていたが、こんなに大きなシロツメクサがあったものだろうか。眼鏡のレンズには、橙色が写っていて、彼女の嬉々とした表情が心地良かった。僕がくしゃみを三回ほどしたところで撮影会はお開きになった。
夜風に吹かれながら帰る道すがら、普段は無表情がちな彼女の中に確かに紛れ込む悪巧みしたようなそんな表情がたまらなく惹かれるのだなと思った。そして、今度こそは僕が彼女を押し倒した写真を撮ってやろうと心に決めた。
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