1-6
「おい、起きんか坊主!」
乱暴な大声と拳がまどろんでいたマンセマを襲う。マンセマはギャッと呻いて飛び起きると、後頭部を押さえて
「何すんだよ爺ちゃん!」
と怒鳴り返した。
ここはマンセマが働くグローサリーストア、拳骨の主はもちろん店主のカルロス・エスパルサだ。ついさっきまで腕を枕にカウンターに突っ伏していたマンセマは、大あくびをしながら今までは感じることのなかった腕の痺れに顔をしかめた。
「なんなんだ今日のお前のその態度は! 朝からずっと隙あらば居眠りしおって、クビになりたいのか!」
「仕方ねえだろ、昨日は寝れなかったんだからよお……ぅあ~っ、ねみい……」
「寝るな、馬鹿者!」
カルロスに怒鳴られて、再びカウンターに突っ伏そうとしていたマンセマは渋々体を起こした。
カミエルとマンセマが力を奪われてただの人間にされてしまったのはどうやら本当らしかった、というのも、二人はザドキエルとベリアルが去ったあと、夜通しで何が変わったのか試していたのだ。たとえば紙で切った指に傷がいつまで残るか。飲み食いしたものが本当に時間を置けば排出されるのか。酒を飲んだら酔えるのか。あるいは、体のある部分を刺激したら本当に反応が起こるのか。
最後の疑問に関してはカミエルは試すことを断固として拒否し、代わりに今までずっと使ってきた神の剣を持ち上げることにした。しかし、このせいで二人は力を失ったことを痛感した――カミエルが柄を握っても剣はかつての威光を放たないどころか、カミエルは剣を持ち上げることすらできなくなっていたのだ。マンセマが刃を撫でても、指が少し深く切れただけで骨の髄まで焼き尽くされるような激痛には襲われなかった。二人は揃って驚愕し、絶望した。ザドキエルとベリアルが揃って現れたことといい、天国と地獄は本気で二人の関係を咎めているのだ。
だが、まさかこのことをカルロスに打ち明けるわけにもいかない。マンセマはもう一度大あくびをしながら伸びをすると、スツールから滑り降りて店の裏に足を向けた。
「おいマンセマ、話は終わっちゃいないぞ。どこに行くつもりだ」
険しい顔で問い詰めるカルロスに、マンセマはひらりと手を振って答えた。
「どこって、便所ぐらい行かせてくれよ。……あークソ、どっちだったっけか……」
「階段を降りて右だ。便所の場所ぐらい覚えとけ」
階段の降り口でぼやいたマンセマに、カルロスがぶっきらぼうに告げる。マンセマは「ありがとよ」と答えると、左脚が許す限りの速さで急いで階段を降りていった。
悪魔の方が人間に混ざって行動する分、人間の営みを実際に体験していることが多い。マンセマも飲食や酒宴の経験はあったが、そこで摂取したものが自分の体から出ることはなかったのだ。おかげで昨晩あれこれ試したときはひどい失態をしでかしたし、その気持ち悪さが今でも腰の周りに残っている。
「……けど、俺はまだ平気だけど、カミエルの奴は苦労しそうだよな」
用を足しながら、ふと昨晩ガムを噛んでいたカミエルの顔を思い出す――これほどまでにガムをまずそうに噛む人がいるのだろうかというほどのしかめっ面でカミエルはガムを咀嚼し、五回ほど噛んだところで早々に出してしまったのだ。あのときは散々からかって笑い飛ばしたものの、他のものを口にしても反応が微妙だったところを見るとトイレで失敗するよりも日常生活では苦労しそうだ。
ぼんやり考えていると、急に不自然な音とともに靴に温かい液体が染みた。マンセマは慌てて手元を見て「げえっ!」と叫び、それから盛大にため息をついた。
***
カミエルにとって、昼の休憩を誰かと一緒に取るのは初めてのことだった。たとえその相手が毎日のように顔を突き合わせ、山のような業務を手分けしてこなしているエイブ・ピーターソンでも、この緊張はザドキエルが来たときよりもずっと激しいものだ。
一方のエイブからすれば、見たことがないほど神妙な顔付きでサンドイッチを咀嚼するカミエルは思わず大丈夫かと聞きたくなるようなものだった。それも味には定評のある店のものだというのに、まさか口に合わないのだろうか。いや、そもそも、カミエルのこの反応は初めてスシを食べたときの自分と近いのではないか。だがアメリカはニューヨークという場所に住んでいて、サンドイッチをたったの一度も食べたことがない人なんているのだろうか?
「……どうしました、神父」
一口をやっとのことで飲み込んだカミエルが地を這うような声で尋ねる。エイブは地獄の土でも食わされたのかと聞きたい気持ちをぐっとこらえ、代わりに心配を満面に湛えた顔でこう言った。
「いや、何か心配事でもあるのかなと思ってね。僕でよければ相談に乗るけど」
カミエルはしかめっ面のままサンドイッチとエイブを見比べ、紙のカップのコーヒーを啜ってさらに顔をしかめた。
「……何も」
「そんなわけないだろう」
エイブが即座に言い返す。
「ちょっとコーヒーが苦くて」
「コーヒーなんだから苦いもんだよ。ねえカミエル、今日はなんだか様子が変だよ? 言いにくいことなら僕も無理にとは言わないけど、言って気が楽になるなら言った方が良い」
エイブに言われて、カミエルは食べかけのサンドイッチに目を落とした。そして口を開きかけたが、まさか自分は本当は天使で、悪魔のマンセマとの同居がばれて天国と地獄の両方から怒りを買い、つい昨晩人間にされたところだなんてとても言えたものではない。結局そのまま口を閉じたカミエルにエイブはさらに声をかけようとしたが、二人の会話は乱暴なノックの音に遮られた。
どうぞ、とエイブが何気ない声で答えた途端、ノックの主は分厚い戸を外す勢いでドアを開けた。足音も荒く入ってきたのは、黒髪を肩と眉の上できっちり切り揃えた十代後半の娘だ。
「やあ、イライザ。学校はどうしたんだい?」
「そんなもん抜けてきたに決まってるでしょ。それより神父さま、アリスから聞いたわよ。私を今度のコンサートから外すってどういうこと⁉︎」
アリスというのはイライザの同級生で、この教会の聖歌隊の一員だ。先日の礼拝で毎年恒例のチャリティコンサートの告知をしたときに、エイブはふと欠席のイライザを探す素振りを見せて「今年はオルガンは無しかなあ」とぼやいたのだが、どうやらそれを耳ざとく聞きつけたアリスがイライザにそのことを話したらしい。
「ええと、まだ決めてはいないんだけど、この間君がコンサートどころじゃないって言ってたからどうしようかなとは思ってるよ」
気圧されつつも、エイブはのらりくらりと答えてみせる。それが余計にイライザを逆撫でしたのか、彼女はあどけなさの残る顔を凶悪に歪ませてエイブに詰め寄った。
「だからってあのアホに聞こえるところでそれ言う⁉︎ あいつ私が出ないって、サボるつもりだって学校じゅうに言いふらしてるのよ⁉︎ 今私の名誉がどうなってると思ってんの! ガタ落ちよ! ジュリアードの推薦も取られて皆勤賞のコンサートもサボるとか言われて! どうしてくれるのよ⁉︎」
それはアリスに非があるだろうとカミエルは思ったが、言わないことにした。特にイライザが激怒しているときは、余計な口を挟むと話が余計にややこしくなるからだ。
それに、彼女の扱いにかけてはこの教会ではエイブが一番上手いのだ。エイブは顔色ひとつ変えずに「イライザ」と静かに呼びかけた。
「気持ちは分かるけど、君自身の名誉にこだわりすぎてはいけないよ。君が一番最初にこの教会のオルガンを弾いたとき、自分が何と言ったか覚えているかい?」
「……こんなに清らかな音を聞いたのは初めてだ、って。他のどんな楽器も、ここのオルガンに比べたらただの雑音製造機だって言ったわ」
諌められたイライザは語気を少しだけ弱める。エイブはこの隙を突いてさらに尋ねた。
「じゃあ、僕はその理由を何だと言った?」
「私が神と向き合っていたから。神様のための楽器で神様に聞かせるために演奏したから、今までで一番清らかな音が出たって、あなた言ったわ」
今やイライザからは完全に怒気は失せていた——見事なものだと思いつつ、カミエルはどうも居心地が悪いらしい胃袋をさすった。昨晩あれこれ試したときにはこんなことはなかったのに、一体どうしたというのだろう。
「そう。良い音を出す楽器――名器っていうんだっけ? そういう楽器はたくさんあるかもしれないけど、最終的にどんな音を出すかは君の心次第だと思うんだ。だから君の心が神に向かっているときは一番純粋な音が出る。分かるね?」
エイブに諭されて、イライザは部屋に入ってきたときとは打って変わって素直な面持ちでこくりと頷いた。
そのとき、横で見ていたカミエルの胃袋が急に収縮した。次の瞬間には喉の奥が締まり、何が起きているのか分からないままにカミエルはサンドイッチとコーヒーだったものを足元にぶちまけていた。
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