1-5
「君が噂の悪魔か」
透き通るようで重い、男とも女ともつかない声。言われた方はというと、耳に心地よく、それでいて脅しのような険しさをも孕んだその声の主を見上げて「げっ」と一言顔をしかめた。
「なんだよ。お前誰だよ」
「聞くまでもなく分かっているのでは?」
漆喰よりも白い肌、蒼天よりも青い瞳、黄金よりも美しく輝く金色の巻毛。ふわりと揺れる膝丈のローブこそありふれたローマの装いだが、それ以外は天からの贈り物としか評しようのない美しい男が、眩いばかりに威光を放つ長剣を目の前の青年にまっすぐ突きつけている。
これがマンセマとカミエルの最初の出会いだった。見目麗しくないと言えば嘘になる程度には己の顔立ちに自信を持っていたマンセマも、カミエルの美しさを前にしてはおいそれとそれを自慢できないと感じてしまう——どこからどう見ても万事休すだというのに、マンセマはそんなことをぼんやりと考えていた。
「君は皇帝の心に取り入って我が神の民に害を与えた。私は君という悪を取り除くために
青い目がマンセマを真っ直ぐ睨めつける。それはまるで射抜かれているような——自身に惜しみなく向けられる憎しみと怒りは、目の前の獲物に全神経を傾けている狩人の視線のようだ。マンセマは今までにないほど気分が高揚するのを全身で感じていた。この目を己から逸らせないためなら何でもしてやろうと、そう心に決めるほどにはカミエルが気に入っていた。
「……なぜ笑っている」
興奮が顔に出ていたのだろう、カミエルが怪訝そうに首を傾げる。見抜かれたのなら仕方がないと、マンセマは声を上げて笑った。
「そりゃ愉しいからだよ。愉しいのに笑うなってのか?」
美しい眉間にますますしわが寄るのを見てマンセマはもう一度「ハッ」と笑い声を上げる。天使は警戒を強めるように長剣を握り直し、今度は喉元ぎりぎりまで切っ先を近づけた。
「へえ。やるなあんた。さすが天使ってのはおっかねえんだな、
ひやりと冷たい殺気も喉に集まる緊張も、マンセマにはもうどうということはない。こと話術に長けている彼に興味を示したが最後、話をさせればさせるほど相手は疑心暗鬼に飲み込まれていく。このときのカミエルもまた、知らず知らずのうちに彼の罠にかかっていたのだ。とはいえマンセマはそのつもりで笑ったわけではなかったのだが、それでも死——天使や悪魔の場合は存在の消滅と同義だ——を前にしてもなお笑う悪魔に興味を持ってしまったが最後、虚勢こそ張ることはできても、もうカミエルに天誅を下すことはできない。
案の定、カミエルは剣を握ったまま一向にマンセマを貫こうとしなかった。にわかに生じた疑問がその手を止めさせ、どうにも動けなくさせたのだ。一方のマンセマとはいうと、今やすっかり困り眉のカミエルを堂々と鼻で笑った。唐突に危機が去ったのみならず、彼がこれまで誑かしてきた大勢と全く同じ反応をこの天使が示したからだ。となれば、思いがけず手中に落ちてきた獲物をどうするか——マンセマは唇をめくり上げると、天使に名はあるかと尋ねた。
「あるに決まっている。我が名はカミエル、神の名を穢す者に天誅を与える者だ」
「そうかい。でもカミエル、お前、もう俺を刺せないよなあ? だってその気ならグダグダ話し込まずにとっととやることやってるはずだもんなあ。認めろよ、否定しようたってその顔じゃ説得力がまるでないぜ」
見透かしたように言えば、カミエルは今更のように歯を食いしばる。それでも鋒がぶれることはないあたり、さすが悪魔と戦う天の戦士というだけあるが。
そしてカミエルは、自分に覚悟を決めさせるかのように鋒を悪魔の首に触れさせた。聖なる刃が皮膚を裂き、一筋の鮮血が流れ出すとともに肉が焦げたような臭気が漂い始める。
「ははっ、ようやくその気になったか。ならさっさとやれよ。ちなみに俺はマンセマってんだ、天国に帰ったらお仲間に伝えてくれよな」
虫に刺されたような傷でも、剣が天の威光をまとっている限り悪魔の体には耐えられないほどの苦痛が走る。その例にもれず、マンセマは今すぐ叫びだしたいほどの痛みを必死で堪えていた。笑みを貼りつけていようにも顔が震え、冷や汗があとからあとから目に入ってくる。これにはマンセマも覚悟を決められずにはいられなかった――ここで誅されたとて、最期に見たのが天国の造形というのは悪くない話だ。
カミエルはしばらくマンセマの喉に切っ先を埋めて逡巡していたが、結局困惑したように目を泳がせただけで力なく剣を下げてしまった。
突如解放されたマンセマは転がるようにカミエルから遠ざかり、喉をさすりながら思いきり咳き込んだ。今まで経験したことがないほどに体が震えて立っていられない。四つん這いにすらなれず、マンセマは地面に丸くなったまま、荒い呼吸と黒い巻き毛の間から呆然と立ちすくむカミエルを一瞥した。
「お前……ッ、お前、結局刺さねえのかよ、」
息も絶え絶えに言ったマンセマに、カミエルは答えることができない。カミエルは首を傾げると、「分からない」とマンセマよりも震えて弱々しい声で言った。
「だが、お前には天誅を下す。それが私に与えられた使命だから」
「お前、とんだお人好しだな。悪魔でも苦しんでりゃ見逃してやるってか? まったく天誅が聞いて呆れるぜ。お前、そんなんでどうやって俺を倒すんだよ」
口が回り始めるとマンセマは調子を取り戻していった。ようやく動きを再開した脳裏に新たな思いつきが浮かび、マンセマは満足げにほくそ笑む。
「なぜ笑う。なぜそうやって、全く面白くない場面でお前は笑うのだ?」
カミエルの口調には心底分からないという思いがにじみ出ている。マンセマは笑いながらかぶりを振ると、冷や汗で貼りついた前髪をかき上げてカミエルを真っ向から見据えた。
「お前にとっては面白くなくとも俺にとっては面白いんだよ。どうだ、俺と勝負しないか? 俺は今日限りでローマから手を引くが、代わりの場所で新しい奴を見つけてお前の民を苦しませる。俺が世界中の人間をたぶらかすか、お前がそれより先に俺に天誅とやらを下すか、どっちが早いか勝負しようぜ」
カミエルは一瞬目を丸くしたが、やがて意を決したように頷いた。
「良いだろう。必ずやお前に神の力を思い知らせてやる」
「そうなればいいがな。さ、これで話もまとまったし、用がないならもう行け。また違う場所で会おうぜ」
そう告げると、マンセマはようやく言うことを聞いた足で立ち上がってひらりと手を振った。
これがそもそもの始まりであり、今日にいたるまで天誅は下されずにいる。紆余曲折を経て休戦状態となった二人の関係は、今や腐れ縁のそれと同じになっているのだ。堂々たる天使のザドキエルは当然これが気に入らないし、ベリアルとしてもマンセマがカミエルを堕落させるでもなく、ただ天使の彼と一緒にいることが気に入らない。要するに、カミエルとマンセマの関係は天国と地獄それぞれの面子にかかわる一大事なのだ――そうは分かっていても、一体どういう関係なのかと問われ、カミエルは答えに窮してしまった。
一方のマンセマは持ち前の口さがなさであっさり答えてみせた。
「関係もなにも、俺の手綱をこいつが握ってるってさっき言っただろ。俺はこいつに四六時中見張られてんだよ」
「それは残念だ。この天使を籠絡しているくらい言ってくれると思っていたのだが」
ベリアルは芝居がかったため息を吐く。
「俺らごときが籠絡するにはもったいない傑物なんでね」
マンセマが不敵に笑って言い返せば、ザドキエルの眉が不快そうに跳ね上がった。
「悪魔マンセマ。貴方は我らの聖性を何だと思っているのです?」
苛立ちも露わにザドキエルが尋ねると、なんとマンセマを遮るようにカミエルが口を開いた。
「主天使ザドキエル。私をどうこうしようという意思は彼にはありません。彼は……彼はむしろ……」
「俺はむしろこいつが天使であることが好きだ」
マンセマが言い放つと、ザドキエルはついに嫌悪感をむき出しにし、ベリアルは「酔狂な」と聞こえよがしに呟いた。
「堕天使ベリアル。これ以上の話し合いは無用と見ましたが、いかがお考えですか?」
ザドキエルが尋ねたが、その口調からは同意を求めるという意図は読み取れない。ベリアルが他人事のように「どうぞご自由に」と答えると、ザドキエルは待ち構えていたように右手を高々と掲げた。
目もくらむような光の中に現れたのは、ザドキエルの立場の象徴である笏だ。
「能天使カミエル、悪魔マンセマ。これより天国と地獄が定めたとおりに貴方たち二人を罰します。貴方たちが悔い改め、正しき道に戻るまでこの罰は終わりません」
ザドキエルが話すそばから、マンセマは体から力が抜けていくのを感じた――隣のカミエルなど、体から発せられた光がどんどんザドキエルの笏に吸い取られていく軌道がはっきり見えている。
「貴方たち二人が悔い改めるその日まで、我々は貴方たちの力を奪い、貴方たち二人をただの人間にすることを決めました。元に戻る条件はただひとつ、今の関係を永久に解消することです。抵抗すればするほど罰は長引き、重くなっていきます――」
笏がひときわ眩い光を放ち、最後の一筋が吸い取られる。マンセマとカミエルは床につんのめると、長距離を全速力で走ったような疲労感に目を丸くした。
「分かりましたね。カミエル、マンセマ」
「……ま、待ってくれ……」
踵を返しかけたザドキエルをマンセマが呼び止める。こんな状況でも、マンセマの口は止まることがなかったのだ。
苛々と振り向いたザドキエルに、マンセマは上がった息の合間を縫うようにして問いかけた。
「ひとつだけ、聞きたいことがある……もし俺とカミエルが永遠に別れたら、そのあと俺らはどうなるんだ?」
「元の関係に戻るだけです。これまでの蜜月の記憶は消え、貴方たち二人は天使と悪魔という純粋な敵対関係に戻ります」
「じゃあ、俺たちが別れなかったら?」
なおも食い下がるマンセマに、ザドキエルは呆れとも怒りともつかないため息をつく。代わりに答えたのはベリアルだった。
「何もなければ人間としてそのまま死ぬことになるだろうが、愚かしい選択はしない方が身のためだ」
ザドキエルはベリアルがしゃべっているうちからさっさと踵を返し、ベリアルも答えるだけ答えると挨拶もせず去っていった――訪れた沈黙の中、残された二人の荒い息遣いに混じってエンドクレジットの音楽が低く小さく響いていた。
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