1-4

 大量に流し込んだアスピリンが効いてきても、マンセマの左脚はしつこく強張ったままだった。それでも、温かい湯にじっくり浸かってもみほぐせば楽になってくるだろうというカミエルの主張に乗せられて、マンセマは丁重に風呂に入れられ、ベッドに寝かされて念入りなマッサージを受けていた。

 隣の部屋からは映画らしき物音が低く小さく聞こえてくる。その音を聞くともなしに聞きながら、マンセマは今晩何度目ともしれない文句をカミエルにぶつけた。

「でもよお。いくらなんでもあれはやりすぎだぜ。店の前まで飛んでくるなんて」

「だが、その脚では帰るのもひと苦労だろう。今朝の様子ではとても仕事どころではなかったぞ」

 カミエルもカミエルで今晩何度目ともしれない答えを返す。マンセマはこれまた言い飽きた文句を次の手に選んで投げつけた。

「けどよお、お前も見ただろ……エスパルサの爺さん、目えかっぴらいて『Dios mio!おお、神よ!』って言ってたんだぜ? さすがにやりすぎだぜ、一応ただの昔馴染みってことにしてあるんだから、その辺のことも考えてくれよ」

「だが、歩けない君を背負うことは私の役目ではないか。私が君をこうしたのだから、これは私が負うべき枷なのだ」

 カミエルはそう答えると同時にマンセマの肩を軽く叩き、起き上がるよう伝えた。マンセマは頭をかきながらベッドに座り、左脚を曲げ伸ばしして満更でもなさそうに頷く。カミエルはようやく安心したのか、ほっと顔を緩ませてマンセマの隣に腰掛けた。

 隣の部屋からは相変わらずおぼろげに映画の音が聞こえてくる——いつの間にか始まっていた男女の卑猥な芝居をマンセマがぼんやり聞いている横でカミエルはさっさと布団に潜り込み、ふいと顔を背けてしまった。

「なんだ? 気になるのか?」

 マンセマがその顔を覗き込むと、カミエルは寝返りを打って天井を見上げた。

「姦通を推奨するようなものは望ましくない。あれは人々に悪しき道を示して惑わせようとしている」

「まあなあ。性欲ってやつを煽るのが目的の映画だろうし……ていうかお前、あれが気になるってことはもしかして」

 マンセマはからかうようににやりと笑ったが、カミエルは眉間にしわを寄せたまま表情を変えない。言葉すら発さないカミエルにマンセマは大人しく諦めて、自身も布団に体を預けることにした。

「……まあ、そうだろうな。俺たちああいうのとは無縁だからな」

「天使の私には、な。悪魔の君は違うのではないか?」

「それが俺たち悪魔にも縁がないんだよなあ。人間の女と繋がることもあるけど、あれって本気で盛ってるわけじゃないんだぜ。とりあえず硬くして、あとはなんか出たように思わせて元に戻してるだけだ」

 両手を頭の下に入れてひょうひょうと語るマンセマに、カミエルは驚きと意外さ、それに嫌悪感の入り混じった眼差しを向けた。

「だが、悪魔は人間の女と交わって孕ませると。そうすることを好むと聞いたぞ」

「そんなのひと握りのモノ好きだけだ。けっこう面倒くさいし、俺は嫌いだね」

「……ということは、君には経験があるのか」

 カミエルが思考にふけるようにぽつりと呟いた。マンセマが怪訝に思ってその整った顔をまじまじと見つめると、カミエルは神妙な面持ちのままマンセマを見つめ返してきた。

「なんだよ。大昔に一回だけ、人に言われて仕方なく――」


「仕方なく、か。随分楽しそうにしていたと記憶しているが?」

 言い返そうとしたマンセマを遮って、ふいに誰かが割り込んできた。二人が揃って跳ね起き、声のした方に顔を向けると、灰色のコートに黒い帽子をかぶった男が一人、寝室の戸枠にもたれかかっている。ぞわりと肌を舐めるような口調に、カミエルは本能的に身を固くする――この喋り方はまさしく悪魔のもの、人々を蠱惑し堕落せしめんとする者の声だ。

 一方のマンセマは、男に気付くなり顔色を変えてベッドから飛び降り、その場に跪いた。

「ベリアル様⁉ どうしてここに……」

 珍しく慌てふためくマンセマに、ベリアルと呼ばれた闖入者はふっと口の端を持ち上げた。コートの下には黒のスリーピースのスーツ、ベルベット色のストールを首にかけ、彫りの深い顔と相まっていかにも色男といった雰囲気だ。この悪魔が自分と同じ金髪碧眼であることにカミエルは少なからぬ憤りを感じた――ベリアルは己の創造主たる神を裏切ったばかりか、神より授かった容貌を利用して人々を堕落へと導く下劣な輩になり果てたのだ。

 怒りと警戒心が高まるにつれてカミエルの体は内側から輝きを放ち始め、右手にぐっと力がこもる。頭を下げたままそれを横目で見たマンセマは、思わず歯を食いしばった。一体何のためにベリアルが彼らのアパートに現れたのか皆目見当もつかないが、なんにせよ能天使たるカミエルが悪魔、それも堕天使のベリアルがここにいることを許すはずがない。

 さらに次の瞬間、寝室が眩いばかりの光で満たされた。マンセマとベリアルが同時に顔を覆い、カミエルもわずかに目を細めるほどの強烈な光芒の中、また別の声が朗々と響き渡った。

「お久しぶりですね。能天使カミエル」

 低く、聞く者の体を髄から震わせるような荘厳な声。光が消えたときには、寝室には純白のローブをまとった新たな人物が立っていた。叡智にあふれる女性を思わせる顔立ちだが、背の高さといいローブの袖から覗く腕や手の大きさといい、どこか女性とは断定できない部分もある。

「主天使ザドキエル」

 今度はカミエルが闖入者の名を呼んで跪く番だった。面食らってはいるものの、慌ても騒ぎもしないカミエルにマンセマは歯ぎしりしながらささやきかけた。

「おい、なんでベリアル様と主天使のヤツが揃ってうちに来るんだよ」

「分からない。だが、我らの作り主が何の理由もなく主天使ザドキエルを遣わすはずがない」

 ひそひそと早口に返したカミエルをザドキエルが咎めるように呼ぶ。カミエルは頭を垂れたまま、即座に「はい」と答えて居住まいを正した。

「我らが創造主、万物の主たる神が私を遣わした理由なら、すでに貴方の内にあります。心当たりがないとは言わせません」

 ザドキエルが淡々と告げる。が、この一言でカミエルが小刻みに震え始めたのをマンセマは見逃さなかった。

 カミエルが怖がっている――それは二人の千と九百八十数年にも及ぶ付き合いの中で初めてのことだった。

 マンセマは意を決して顔を上げ、二人の前に堂々と立つザドキエルと戸枠に寄りかかるベリアルを見据えた。途端にザドキエルから氷水のような視線が注がれたが、マンセマは唾を飲み込んだだけですぐさま口を開いた。

「ザドキエルさんよ、何をしに来たのか知らねえけど、こいつは天使の名に恥じるようなことはひとつもしちゃいねえぜ。俺はこいつを二千年近く見てきたんだ、誓ってもいい」

 そう言ってからマンセマはちらりとカミエルを盗み見た――が、カミエルは顔を伏せたままだ。

「ほう。えらくその天使を買っているのだな」

 ザドキエルの後ろからベリアルが冷たく言い放つ。マンセマは一瞬どきりとしたものの、すぐに言い返した。

「悪いですか。こいつはちゃんと俺と戦って、一本取ってるんですよ」

「だが消滅させてはいない。天使と悪魔の戦いにおいては不治の傷を負わせることなど重要ではないのですよ、悪魔マンセマ」

 ザドキエルの言葉はベリアルよりもさらに冷淡に響く。その目が自身の左脚を注視していることに気付いてマンセマはどきりとした。

「でも脚だぞ。ちょこまか逃げ回る奴を相手取るなら腕より脚をやっちまう方が実用的だろうが。俺が逃げ回れなくなってもこいつは俺をずっと見張っているし、今の俺はこいつに手綱を握られてるようなもんだ。それでもこいつが何もしてないって言うのかよ?」

 噛みつくように言い返したマンセマに、ふとカミエルが「やめろ」と小声で告げた。反論しかけたマンセマに、カミエルは沈痛な面持ちで首を横に振った。一体何を覚悟したのか、ここまで深刻な面持ちのカミエルは見たことがない。

 カミエルは深呼吸すると、かすかに震える声でザドキエルに言った。

「天誅の件で神がお怒りなのであれば、私はどんな罰でも甘んじて受けましょう」

 ザドキエルは答える代わりにわずかに眉を持ち上げ、後ろに立つベリアルに目配せした。するとベリアルが戸枠から離れ、ザドキエルの隣に並んだではないか。

 二人が困惑していると、ザドキエルが口を開いた。

「この度、天国と地獄は一人の天使と一人の悪魔、カミエルとマンセマが地上で共に暮らしているとの報告を受けて一時的に手を組むことになりました。私たちが求めるのは真実と是正です――正直に言いなさい。カミエル、マンセマ、貴方たち二人は一体どういう関係なのですか」

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