1-3
翌朝、マンセマは左脚を引きずりながらグローサリーストアにやって来た。体重を預けるように扉を押して中に入ると、すぐさまスペイン訛りの怒鳴り声がマンセマを襲う。
「遅刻だぞ、マンセマ!」
マンセマは気だるげに頭をかいて、カウンターに座る初老の男を見やった。褐色の肌は彼がプエルトリコ島からやって来たことの証明のようなものだ――カミエルが(マンセマに言わせれば)たいして金にならない仕事をしている傍らで、マンセマは二人分の生活費を稼ぐべくこの店で働いている。とはいえ、悪魔の性で客にちょっかいを出しては店主のこの老人、カルロス・エスパルサに叱られることも多いのだが。
「爺ちゃん、今日ばっかりは見逃してくれよ。脚が痛くてほとんど歩けねえんだよ」
マンセマは間延びした声でそう言いつつ、カウンターの端に置いてある椅子まで這うように移動してずるずると座った。ピンと突っ張った左脚をさすっていると、カルロスがフンと鼻を鳴らす。マンセマは思わず食ってかかりそうになったが、喧嘩腰をぐっとこらえて代わりにアスピリンはあるかと聞いた。
「なあ爺ちゃん、重いモンは持てねえけどさ、ここに座って悪ガキどもの相手するぐらいならできるぜ。薬代だって出すんだし、今日のところは勘弁してくれよ」
ちょっと眉を下げて見上げるように頼めば、カルロスはじとりとマンセマを睨んでから唸るように
「一割引だ」
と言った。
「ありがてえ。恩に着るぜ」
マンセマは待ってましたとばかりに十ドル札を放り出すと、左脚を引きずって地下の倉庫へと降りていった。
その実、カルロスの店は繁盛しているとは言いがたい。店の地下には見劣りがしない程度に新しく仕入れた品々に混ざって諸々の期限が切れた古い商品がずらりと陳列されている——マンセマはその中から期限切れ寸前のアスピリンと賞味期限に去年の日付が印字されているコーラを選ぶと、また脚を引きずってえっちらおっちら階段を上っていった。
戻るとカルロスが陳列棚を掃除しているところだった。呻きながら元の椅子に座り込むマンセマを一瞥してカルロスは眉を跳ね上げた。
「本当に大丈夫なのか? 俺より時間がかかってるじゃないか」
「大丈夫だ。これ飲んで大人しく座っときゃ明日には治ってる」
豪快にコーラの栓を開け、瓶の中にアスピリンを半分ほど投入しながらマンセマは答える。恐ろしい勢いで泡を噴き上げるコーラをがぶ飲みするマンセマを、カルロスは呆れたように見つめている。
「……お前さん、さすがにそれは不摂生が過ぎるんじゃないか」
「大丈夫だ、死にやしねえよ。俺はそこらの人間よりよっぽど頑丈なんだ」
ひらりと手を振って答えると、マンセマは残りをぐいと飲み干して手の甲で口を拭った。
「あー生き返った! ありがとうよ爺ちゃん!」
「まったく、そんなに頑丈なんならなんでまた脚なんかやっちまったんだい。まだ若いってのに大変だろう」
「それとこれとはちょっと話が違うんだな」
相変わらずじっとり睨んでくるカルロスに、マンセマはにやりと笑いかける。
「ただ話すと長くなるからなあ。また今度教えてやるよ」
そう言って片目を瞑ったマンセマにカルロスはため息で答えた。
賞味期限切れのコーラやアスピリンがマンセマの体に何の害も与えないことはたしかだ。特にアスピリンはいつまで経っても消えなかった痛みを取ってくれた奇蹟にも等しい。そもそも、骨折程度の怪我は天使や悪魔にとってはかすり傷と同じくらい問題にならないのだ。身体のどこかが不自由ということもまず起こり得ないが、そんなマンセマが脚を引きずっている原因はカミエルだった。
天使と悪魔には絶対に癒えない傷がそれぞれある——天使の場合は羽をもぎ取られた痕、悪魔の場合は天使の武器、とりわけ悪魔との戦いの最前線に立つ能天使の持つ神の剣で斬られた傷だ。この剣は急所さえ捉えれば悪魔を誅する——すなわち消滅させることができるという代物だったが、かつてマンセマの消滅を誓っていたカミエルが本当にこの剣を振りおろしたとき、なぜか左胸ではなく左脚を狙ったのだ。以来カミエルはマンセマの側を離れようとしない。
二人が同棲することになったのもこれが理由だったが、マンセマもカミエルも人間たちにはこのことは伏せている。人間たちにとっては、二人は昔馴染みのルームメイトに過ぎないのだ。
カルロスの店は別段繁盛しているわけではない。宣言どおりカウンターの椅子に陣取り、近所のおばさんや小学生、カミエルが見たら集会に誘いそうな若者たちといった常連客と世間話をしているうちにマンセマの一日は過ぎていった。何を売りつけるでもなく、頼まれたものがあればカルロスが取りに行ってマンセマがレジを打つ、そんな一日だった。
***
教会が最も美しく見える時間がいつかと聞かれたら、カミエルは決まって夕暮れ時だと答える。ステンドグラスの影が温かなオレンジを帯びて床に伸び、十字架にかけられる神の子を模した白い彫像が西陽を浴びてその陰陽をくっきりと見せつける。荘厳さと柔らかさ、美しさと温かさが同居する講堂で一人跪き、今日一日の出来事に感謝の祈りを捧げるのがカミエルの日課だった。
胸の前で手を組み、頭を垂れてカミエルは言いたいことをひとつずつ呟いていく。どんなに小さな声でも天なる神は聞いていること、その心が真摯である限り救いの手は差し伸べられることをカミエルはよく知っている。自分が救われる身分にないことは分かっていたが、やはり神と向き合うという時間の居心地の良さは何にも変えがたいものだった。それに、これは地上に降りてからの一千年間、彼が何にも惑わされずにいることの報告でもあるのだ。
ふと、カミエルは目を開けて逡巡したが、すぐに言うべきことは全部言ったと思い直して「父と子と聖霊のみ名において、アーメン」と祈りを締め括った。十字は切らなかった——本来ならば切るべきだが、文字通りの意味で天の使いたるカミエルには必要ないからだ。カミエルは立ち上がってイエス像を一瞥し、深く一礼してから踵を返した。
西陽と影と静寂に包まれた廊下に足音が高らかにこだまする。カミエルはその一画にある扉を数回叩き、返事を待ってから中に入った。
「ピーターソン神父」
「やあ、カミエル。今日もご苦労様」
エイブ・ピーターソンは角縁のメガネがよく似合う中年の紳士だ。この聖ペテロ教会の鍵を預かる彼は、神の子より天国への鍵を授かった弟子の名を教会と共有するという類い稀な偶然に恵まれていた。その上この教会には本物の天使までいるのだから、ともすればニューヨークで一番祝福された神父と言っても過言ではないだろう。
とはいえ、エイブ自身はそんなことはつゆも知らない。カミエルはそんな彼のデスクの端に年季の入った鍵束を置いた。
「講堂の見回りと施錠をしてきました。どこも問題ありません」
エイブは書きかけていた紙からちらりと顔を上げて「ありがとう」と言うと、再び目を落としてため息をつく。カミエルが何事かと尋ねると、エイブは困り果てたように眉を下げて答えた。
「いやね、今度のチャリティーコンサートなんだけど、イライザがオルガンを弾かないって言い出して」
イライザ——本名イライザ・グレイス・マクレインは、いつもミサでオルガンを弾いている高校生の娘だ。小さい頃からここに通っている彼女は、ピアノを専門的に学ぶ傍らで通い慣れた教会のオルガンを自身の手で響かせているのだ。
「珍しいですね。いつも出てくれるのに」
「推薦のかかったオーディションに落ちたとかで、今はコンサートに出ている場合じゃないと言われたよ。受かればジュリアードが待っていたんだってさ」
エイブの言葉にカミエルは曖昧に頷いた。ジュリアード音楽院なる場所があって、舞台や音楽を志す若者たちの悲願の進学先になっているというのは知っていたが、カミエルが考えているのはイライザの夢のひとつが潰えたことではなかったからだ。彼女は実に豊かにオルガンを奏でる少女だ――あるときは十代とは思えないほど重厚な音を出し、またあるときは陽気で可愛らしく、最後の審判に臨むかのように厳格なときもあれば何があったのかというほど情熱的なときもあり、一体何があったのかというほど悲痛な音がするときもある。良く言えば表情豊か、悪く言えば音にその日の気分が全部出るのがイライザなのだ。神への篤い信仰心がなければ、きっとカミエルは彼女に教会のオルガンを弾かせることを躊躇していただろう。
カミエルの頭にあるのもこのことだった。教会のチャリティーコンサートなのだから、演奏するのはもちろん神を賛美する曲だ。オーディションに負けた苛立ちをここにぶつけられてはたまらない。
「そっとしておくのも手ではないでしょうか。聖歌隊だけでも形にはなるでしょうし」
カミエルはそれとなく本音をちらつかせることにした。だが、エイブはそれを違うふうに受け取ったようで、「そうだなあ」と呟いた後にこう言った。
「じゃあ一旦は聖歌隊だけってことにしようかな。あの子のことだから、自分の出番がないと知ったら途端に出るって言いだすかもしれないし」
カミエルはそうですねと愛想笑いを返すことにした。これは彼が人間に混じって暮らし始めてから身に着けた便利な反応だった――それに、今はあまりエイブと長話をしている場合でもない。カミエルは用事があると言って話を切り上げると、正面のドアを出て人気のない裏に回り、誰も見ていないことを確かめてからふっと肩甲骨に力を込めた。
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