1-2
カミエルは勢いよく校舎を飛び出して左右を見回した。大勢が叫んだり、怒鳴ったりする声がする方に狙いを定めて足を踏み出し、道行く人々にぶつからないようにしながら走っていくと、ジョンとデイヴに追われるマンセマが見えてきた。よくは聞こえないものの、罵詈雑言を並べる二人をマンセマが笑い飛ばして余計に怒らせているらしい。眉をひそめつつ、さらに足を速めて近付くうちにも、マンセマはケタケタ笑いながら信号が変わる直前の横断歩道に飛び出していく。追いかけようとした二人はタイミング悪く曲がってきたトラックに道を阻まれ、慌てて足を止めた。
そこを見計らってカミエルは二人の真後ろに立ち、
「そこまでだ」
と底冷えのする声で言い放った。
「ジョン、デイヴ。君たちは今すぐダウンヒル高校に戻りなさい」
ぎこちなく振り返り、それでもなお不満げに言い返そうとする青年たちをカミエルは睨みつける。途端にジョンとデイヴは青ざめて、大人しくもと来た道を帰っていった。
「……なあ、あいつってサツより怖くねえか」
「よせよ! 聞こえてたらどうするんだ!」
顔をわずかに寄せてひそひそと話す二人を冷たい目で見送ると、カミエルは青に変わった信号を足早に渡った。残すはこの世で一番の厄介者、悪魔のマンセマを捕まえるのみだ。
一方のマンセマは、例の信号で二人を撒けたことで上機嫌になっていた。
「ハッ、つまんねえの!」
言葉とは裏腹に口角を持ち上げて呟き、頭の後ろで両手を組む。もっと面白くなることを期待していた節もあるにはあるが、今頃二人が地団駄を踏んで悔しがっているかと思うとそれはそれで満足だった。
その実マンセマは、ジョンとデイヴを捕まえた麻薬捜査官が例のボランティアに賛同していて、ボランティアの主催――司会役のシンディがそうなのだが――と連絡を取り合っていることを知った上で二人に甘い誘いを持ち掛けていた。カミエルもボランティアの話をしていたし、その主催だというシンディが何者なのかもマンセマは調べつくしている。今日の集まりに顔を出したのは、全てがかみ合い、マンセマによって惑わされた子羊たちが無事カミエルのもとに送られたのを確かめるためだった。普段はこんなことはしないのだが、カミエルの迷惑そうな顔ばかりか怒り狂うジョンとデイヴが見られたのはやる価値があったというものだ。
ラジオで流れていた曲を適当に口笛で吹きながら、マンセマは通りをぶらぶらと歩いていた。
「えらくご機嫌じゃないか」
「まあな。思いがけず良いものが見れたからな……」
このとき、すっかり油断していたことはマンセマ自身の認めるところだ。ふと隣から冷たく話しかけてきた声にのんびり答えた直後、マンセマは声の主に気付いてぎょっとした。
「……お前、いつの間に!」
振り返れば、カミエルが自分と並んで歩いている。マンセマは目を見開き、大声を上げながら通りの反対まで飛び退った。
「そんなに意外か? この私に見つかるのが」
「意外っつうか、まさか追いかけてきてるなんて思わなかったんだよ」
氷のような視線に刺されながらも、マンセマは新たに湧いてきた衝動に任せてじりじりと移動し始めた。誤魔化すように目を逸らしつつも隙を伺い、いつでも走り出せるように身構える。
「追いかけるに決まっている。もし本当にお前が原因でジョンとデイヴが道を踏み外したのなら、尚更私が出てこないわけがないだろう」
眉を吊り上げてカミエルが言う。彼にとってこれは、能天使としての威信をかけた戦いなのだ。
「ああ、そうだ。そうだよなあ、俺ってばなんで忘れてたんだろう」
マンセマは乾いた声で笑いながらカミエルをちらりと見やった。カミエルはため息とともに腕を組み、完全に説教を始める態勢だ。
「次は覚えとくよ。もっと上手く立ち回れるように、な!」
マンセマはそう言うが早いが、歩道を蹴って一目散に駆けだした。カミエルが呼ぶ声が背後から聞こえるのに「ハッ!」と高笑いを漏らす。
しかし、目についた角を適当に曲がったところでカミエルの気配が近付いていることにマンセマは気付いた。振り返れば、カミエルが今にも追いつきそうなほどに迫っている!
マンセマは慌ててスピードを上げ、角という角を曲がって全速力で逃げた。路地を駆け抜け、行き止まりの壁を乗り越えて、左脚が痛むのをこらえつつも夕暮れのニューヨークを駆け抜ける。しかし、カミエルはマンセマが無理やり方向転換した交差点を流れるように曲がり、やや不格好に越えた壁を羽でも生えているかのように軽々と飛び越え、どこまでも追いかけてくる。運よく信号で距離を離せたと思っても、次の瞬間にはまたすぐ後ろまで迫っているのだ。カミエルが顔色ひとつ変えずに追いかけてくるのに対してマンセマは走れば走るほど脚の痛みがひどくなり、喉がひりつくように痛んでいく。最後の最後に息せき切って飛び込んだ公園で、マンセマはついに地面に滑り込むように倒れてしまった。
突然現れて倒れ、派手に呻きながら脚を抱えている巻き毛の男を、居合わせた人間たちは皆は驚きと怪しみの目で見ている。カミエルはそんな中に涼しげな顔で現れると、マンセマの腕を掴んで無理やり立たせようとした。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い!」
「自業自得だろう。無理をして走り回るから」
悲鳴を上げるマンセマにカミエルは冷たく言い放つ。それでも、マンセマが本気で痛がっていると気付くと、取りつく島もないほど冷え切っていた顔が和らいだ。
「まったく、お前という奴は。本当に立てないほど痛むのか?」
「無理だ。立ったところで一歩も歩けねえ」
マンセマはため息とともに再び地面に突っ伏した。カミエルは少し考えるように周囲を見回すと、おもむろにかがんでポケットから取り出したハンカチでマンセマの額を拭い始めた。
「何してるんだ、お前?」
訝しむマンセマに黙っていろと告げると、カミエルはハンカチを仕舞う。何事かと思った刹那、マンセマは急に体が浮くのを感じて驚きの声を上げた。
「うわっ⁉」
「歩けないなら仕方がない。帰るぞ」
マンセマはここで初めてカミエルに背負われていることに気が付いた。途端に顔がぶわりと熱くなり、それまで気にならなかった周囲の視線が痛いほどに感じられる。
「おいカミエル⁉ 集まりはもういいのかよ⁉」
「帰ったらシンディに電話して謝る」
拳を作って肩を叩くマンセマに構いもせず、カミエルはさらりと告げて歩き始めた。マンセマは諦めたようにため息をつくとカミエルに体を預け、綺麗に刈り込まれたうなじに顔を埋めた。
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