1-7
異変に気付いたエイブとイライザに取り囲まれ、あれやこれやと介抱される間もカミエルは何が起きたのか分からなかった――カミエルはそのまま早上がりで帰らされ、日が暮れてから両腕いっぱいの紙袋とともに帰宅したマンセマはリビングのソファに仏頂面で横たわるカミエルを見てしばし戸口で固まった。
「……大丈夫か?」
「大丈夫じゃないらしい」
一言尋ねたマンセマに手短に答えると、カミエルは教会の昼休みにあったことを話した。事情を察したマンセマは「ああ」と頷くと、
「そりゃあれだ、慣れないモンを一気に食ったってヤツだな」
と言って紙袋をダイニングテーブルに置いた。
「しばらくはパンとスープだけ食ってるか?」
「異論はないが……誰が作るんだ? 君か?」
紙袋から覗く葉を見てカミエルが訝しむ。マンセマは「そうなるだろうな」と言いながら黒い巻き毛をガシガシ掻いた。
「カルロスの爺ちゃんから古い料理本せしめてきたから、それ見てなんとかするよ。死んだ婆さんが書き溜めてたやつらしいけど、爺さんは料理も何にもしねえから別にいらないんだとさ。むしろあれのレシピを使ってくれる人がいるならその方が婆さんも喜ぶとか言ってたぜ。ったく、人間って分かんねえよな。誰か死んだら神の御許に召された、だからめでたいんだとか言うくせに、そいつの持ち物は未練がましくいつまでも持ってて、かと思えば他の奴にくれてやったりするし」
ぶつくさとぼやきながらマンセマは買ったものを次々とテーブルに広げていく。パン、シリアル、卵、野菜、肉類、果物、塩と胡椒、乳製品、そしてマンセマ御用達のアスピリン——その様子を見るともなく見ていたカミエルだったが、最後にマンセマがにやりと笑って取り出した雑誌を見た途端に思いきり顔をしかめた。
「どうだ? 気に入ったか?」
「悪趣味だ」
すげなく言い返したカミエルだったが、マンセマはにやにや笑ったまま雑誌を持ってカミエルに接近した。
カミエルは両目をきつく閉じてぷいと顔を背ける――マンセマが買ってきた雑誌の表紙には、一糸纏わぬ姿の女性が妖艶に横たわっていたのだ。
「女がいやなら男のもあるぞ」
そう言ってマンセマは雑誌の下からもう一冊を取り出す。そちらの表紙は例えるならばギリシアのダビデ像だった——もっとも、彫刻のように磨き抜かれたモデルの肉体とは裏腹に、この写真には芸術の精巧さとはおおよそ真逆の意図が宿っているのだが。
「ジョンとデイヴが店に来て、しれっと買おうとしたからお前に代わって没収しといてやったのさ。どうせ五年前の売れ残りだし、良い在庫処分だろ」
耳慣れた名前を聞いてカミエルはにわかに目を開けた。途端に丸見えの女の股が視界に飛び込み、カミエルは反射的に雑誌を叩いた。あまりの不躾さに思わず起き上がって睨みつければ、当のマンセマはゲラゲラ笑い転げている。
「一体何のつもりだ、マンセマ!」
ふいに湧き上がった怒りに任せて怒鳴れば、マンセマは目尻に溜まった涙を拭いてこう答えた。
「何って、俺は人間の体でできるはずのことをひと通りやっときたいだけだよ。なあカミエル、俺たち今や『ただ人間の男の形をしてる天使と悪魔』じゃなくて『見た目も中身もれっきとした人間の男』なんだぜ? だったら女の裸で自分のアレがデカくなるかどうか試したいじゃないか」
カミエルは思わずため息をついた。下劣だなんだを通り越して、これではただの幼稚ではないか。
それに、カミエルにはもうひとつ分からないことがあった。マンセマも罰として悪魔の力を奪われたのに、どうしてこんなにも呑気に人間の体に順応しようとしているのだろうか? 反省の色が少しも見えないのはさすが悪魔と言うべきなのだろうが、それにしても深刻さというものがまるでない。
カミエルは暗い気持ちで雑誌をめくるマンセマを眺めていた——そして胸の内がつきりと痛むのを感じた。
そう、カミエルは彼と別れないといけないのだ。すっぱり別れて全てのしがらみを絶って、元通りの関係に戻らなければならない。分かってはいてもその一方で、この非情な裁きをすんなり受け入れている自分がいる。そのことに彼の心は痛んでいた。これほどまでに引き裂かれる思いがしたのは、マンセマの脚に永遠に残る傷と痛みを負わせたとき以来だった。
思えば、自分はマンセマという悪魔、彼という存在を消し去るために彼と出会ったのだ。しかしいざ手を出すなるとどうしても気が引ける。それは決定的な傷を負わせたあの日から、傷つけるよりも守りたいという思いに変化した。
悪魔を誅するためのこの手で、目の前にいる千九百八十年来の付き合いのこの悪魔を慈しめたなら。彼が欲するものと同じ歓びを享受できたなら、どんなにか素晴らしいだろう——。
カミエルは床に座り込んで雑誌をめくるマンセマに静かに近づくと、雑誌を退けて目の前に陣取った。
「は? カミエル——」
怪訝そうに顔を上げたマンセマの、無愛想に開いた口を自分の口で塞ぐ。時が止まったように感じられる中、マンセマの驚きも困惑も飲み込んで、カミエルはその唇をそっと食み続けた。
神が人に許したもうた感情あるいは欲望の中で、最も原始的で最も罪深いもの。それに全身を委ねれば、体の奥底で膨らんだ熱が全てを溶かしていく。
熱に浮かされたような時間が過ぎて全てが戻ってきたとき、二人は床の上に折り重なったまま上がった息を整えていた。
着ていたものはいつの間にか剥ぎ取られて捨てられ、二人はいわゆる生まれたままの姿だった。終わったあとの気怠さからかしつこく全体重を預けてくるカミエルの肩をぺちりと叩くと、マンセマは天井を見上げて大きく息をついた。
天使や悪魔には性欲がない。悪魔が人間と交わり、たぶらかすときでさえ、この激流のような熱は存在しないのだ。人間の女を抱いたことのあるマンセマにはそれがよく分かっていた——分かっていたからこそ、彼らがしょっちゅう口にする「一線を越えた」という言葉が痺れた思考の中で燃えかすのようにくすぶっていた。
今夜のことを知ったらベリアルとザドキエルはどんな顔をするだろう。ベリアルはそれでこそ悪魔と言うかもしれないが、ザドキエルはかえって激怒するだろうとマンセマは思った。しかもカミエルが自分の意思で始めたと知ったら、それこそ尋常でない怒りがカミエルには降り注ぐはずだ。
誰かを怒らせることはマンセマにとっては朝飯前だ。そればかりか、相手が人間だろうと天使だろうとマンセマの言動に好き勝手激昂して墓穴を掘っていくさまを笑い飛ばすのが彼という悪魔の厄介なところなのだ。逆らうことにも慣れている。
だが、カミエルはどうか——生真面目で従順で、何かに逆らったことのないカミエル。良く言えば優しく、悪く言えば優柔不断で、悪魔に対しても冷酷になりきれない天国の戦士。マンセマと同じものを知りたいと思ったが最後、彼はどんどん板挟みになっていくだろう。
「……おい、カミエル」
退く気配のない肩をもう一度強めに叩いてマンセマは言った。
「お前、今ので自分で自分の首絞めたって分かってんだろうな」
Heaven, O Heaven 故水小辰 @kotako
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