第一章 新しい人生と新天地①

 五月の暖かな陽気が心地ここちよい、風のかわいた朝のことだった。

こんの手続きが済んだなら、さっさと屋敷を出て行ってくれ」

 朝食のバゲットを片手に新聞を読みながら、夫ディエゴはとうとつに私に告げた。

 私はちょうどコーヒーをれていた。嫁いでからの長い習慣だった。唐突な言葉に返事を忘れた私に、夫は声をあららげる。

「クロエ? 聞いているのか」

「……申し訳ありません。承知いたしました」

 私は頭を下げていつもの言葉を口にした。

 申し訳ありませんと、承知いたしました。それと、かしこまりました。とついで五年、屋敷の中で私が発した言葉は、この三つがほとんどだ。

 夫はふんと鼻を鳴らし、新聞をめくる。今年三九歳になるとびいろの瞳は、離婚の話をするときでさえ、私をいちべつすることさえしない。

「ノエル・マクルージュが午後には迎えに来るそうだ。たくをして早々に出て行ってくれ」

「かしこまりました」

 兄が無事にかんすること以外の情報はあたえられなかった。たずねれば𠮟しかられる。ただだまって頷けばいいというのが、彼の妻に対するあつかいだった。

 夫は立ち上がり、しつに身支度をさせる。

 私は、夫に頭を下げた。

「長い間、たいへんお世話になりました。後ろ盾のない私を妻としてめとっていただいたこと、感謝しております」

 私の頭上を、ため息が通り過ぎていく。

「書類は全部片付けておけよ。お前の最後の仕事だ」

「承知いたしました」

「俺はもう出る。見送りはいらん、じゃあな」

 夫はジャケットのきぬれの音を立てて去っていく。残された食堂には、ドリッパーに入ったままのコーヒーのかおりだけがただよっている。まだカップにすら注がれていない。

「……いいわよね、もう」

 私はワゴンの中からめったに使われない自分用のカップを手に取り、コーヒーを注ぐ。そして椅子いすに座り、たっぷり時間をかけてコーヒーを口にした。

 コーヒーを飲むなんて人生で初めてだ。しゆうとめが生きていたならせつかんされていただろう。夫が見たらりつけてきて、皿を割っていかりを示してくるだろう。でももう、だれも私をとがめる人はいないし、咎められて気にする必要もない。

「……おいしい」

 五年で淹れ方をきたえられたコーヒー。飲み終えるとまるで、悪い夢から覚めた気分だった。あっけない終わりだった。

 足音を立てずに老しんがやってくる。彼は今日も品よく礼装に身を包み、寸分の乱れもない礼をした。白髪しらがをオールバックでまとめ、ぎんぶちのモノクルをかけた老紳士だ。

「おつかれ様でした、クロエおじようさま

「……だめよサイモン。まだ私はストレリツィこうしやく夫人よ?」

「もうよろしいでしょう。彼も家を出たのですから」

「……ふふ……そうね。お嬢様扱いも懐かしいわ」

 サイモンは嫁ぎ先についてきてくれたゆいいつの使用人だ。元マクルージュ侯爵家の家令であり、今はいつかいの執事から私付きの使用人の立場に落ちてもなお、私の傍にずっといてくれた人。女主人付きの執事は執事ではないので、かたがきはどうしても「使用人」となる。もはや、私にとって父親代わりのような人だった。

 ふと、みがき上げられた銀の食器に映る私の顔が目に留まる。

 がおが引きっていて、笑顔に見えない。ひどく疲れ切っていた。

 しよう気のない青白いせた女の顔。かみはひっつめてつやもなく、古着をつくろった緑のドレスもくすんでいる。誰もこの顔を見て、一八歳だとは思わないだろう。

 しんの日々はあっという間だったけれど、確かな年月が体に刻まれていた。


「離婚の支度はすべて終わったわね」

 ほぼ私の仕事部屋となったしつ室で、私はあたりを見回す。すでえんの準備は進めていたので、ふうしよかくにん、領地にかかわる書類の整理など、やるべき仕事は全て終わっていた。今朝届いた旧マクルージュ侯爵領に位置するせき鉱山からの報告書にも異常は見られない。サイモンがノックしてやってきた。

「クロエお嬢様。離婚手続きに当たる法務書類は整えました。財産ぶんにつきましても、すでにストレリツィきようがサイン済みです」

「ありがとう」

 私はふうろうほどこした手紙の束と、サイモンが整えてくれた法務書類をそろえてかばんにしまった。身支度も既に終わっている。

「……色々あったわね」

 サイモンが隣で微笑ほほえむ。

「何一つわからないところから、ご立派に務め上げられました。領主代行としての能力も、今やそこらの若い領主にも引けを取らないでしょう」

「言い過ぎよ。何度も危ないことはあったじゃない。……そのたびに、幸運としか思えないことで助けられてきたけれど……」

 不作の時にお願いした商人がこうしようの席に来てくれたことや、国防費として特別税がちようしゆうされた時も、寄付金が入ってマクルージュの財産を売らずに済んだ。

「……神様が見守っていてくださるのかしらと思うような五年だったわ。つらかったけれど、すんでのところですくい上げ続けられてきたような」

 サイモンが私を見てしようしている。私は気持ちを切りえ立ち上がった。

「さて、最後は……気が重いけれど、行きましょうか」

 最後にやることは一つだけだ。

 私はサイモンを連れて馬車に乗り、しきから少しはなれた場所にあるべつていへと向かう。

 夫の愛人、オーエンナが住む屋敷だ。

 私が結婚した時には既に囲われていた彼女は平民の女性で、夫と一人ひとりむすめをもうけている。声が大きく荒っぽい女性で、ずっと私をうとましがっている。

 馬車を降りると深呼吸し、げんかんへと向かう。玄関で対応したオーエンナの娘アンに案内され、私は居間へと足を踏み入れた。

 居間では昼間から、酒びたりのオーエンナがソファにころがっていた。長いくろかみと豊満な体を強調する、しどけないドレス姿の彼女。午前の光の中でも夜のにおいがする。私とは真逆の女性だ──ディエゴの好みが彼女だとすれば、私など小間使いでしかないのは当然だった。

 私は背筋をばしてをする。

「正式に離縁が決まりましたので、ごあいさつうかがいました」

 オーエンナは黒髪をかきあげ「あらそう」とめんどうそうに答える。

「じゃあようやくあたしが本妻になれるってわけね。ふふふふふ」

 離縁後一年は正式な結婚はできない法律があるので、彼女の期待通りには運ばないだろう。思っていても私は口に出さないようにする。私が口を出すべき話ではない。

「まあいいわ。あんたもこれから元気にやんなさいよ! 何もないご令嬢様なんて、どうやって暮らすのかわかんないけどね。んじゃさよなら」

「お世話になりました。……オーエンナさんも、お元気でお過ごしください」

「思ってもないこと言わなくてもいいわよ。ああ、金持ちの女になれたのなら、あたしに仕送りをしてくれたっていいんだからね?」

 じようだんは流して私が退出すると、玄関に立ったままのアンが、申し訳なさそうに頭を下げた。くせの強い黒髪をおさげにした彼女は、顔だちは元夫によく似た垂れ目だった。

「あの……クロエ様、ごめんなさい。母が」

「いいのよ。私がいなくなれば、きっとお母様もげんが良くなるわ。あなたもお元気で。何か困ったことがあれば、相談に乗るからね」

「クロエ様……お世話になりました」

 私とアンが話すのを、サイモンが静かに見守っている。

「ちょっとアン! ちょっと来て! 早く!」

「はーい! 申し訳ありませんクロエ様、母が呼んでいて……」

「私が引き留めてあなたが𠮟られるのは本意ではないわ。さ、早く行って」

「そ、それでは……!」

 アンは何度も頭を下げ、去っていく。その姿にストレリツィ侯爵家であごで使われていた自分が重なって、このまま去るのが心苦しくなる。

「ごめんなさい、アン……いつか力になれることがあれば……」

 アンへの罪悪感に後ろがみを引かれながら、私は馬車へともどる。

 馬車で屋敷に戻り、サイモンの手を借りて降りる。

「おや」

 ふいに、サイモンが空を見上げて声をはずませた。

「クロエお嬢様、ご覧ください」

 雲一つない青空に、何かがかんでいる。長いきんぱつと白いしようぞくなびかせ、空をゆうゆうつえで飛ぶひとかげだ。

「ノエルお兄さまだわ!」

 ごう、と風がく。

 私の声に気づき、兄──ノエルは満面の笑みで手をると、ひらりとい降りてくる。白いローブにしゆうされているのは、第五魔フイフス・メ術師隊イジオーダーの副隊長を示すわしもんしよう

「クロエ!」

 兄はこちらにけ寄るなり、私を強くきしめた。久しぶりの兄は、おくより背が高く、そして花の匂いがした。

「っ……お兄さま、お帰りなさい。早かったのね。おむかえに行ったのに」

「早く会いたかったんだよ。ああ、クロエ。大きくなったな。飯は食ってるか? れいになったな、おい」

 大きなひとみはヘイゼルグリーンで、かげができるほどまつが長い。魔術師らしく長く伸ばした髪と着込んだ魔術師装束のデザインも相まって、一見、女性的な印象をあたえる。けれど私にくつたくなく笑いかけ、ほおを両手で包んででまわし、髪を雑にわしわしと撫でる仕草は、五年前に別れた兄のままだ。

「お兄さまこそてきだわ。第五魔術師隊の綺羅星ポラリスの異名は本当だったのね」

「やめてくれよ。俺はあんまり気に入ってねえんだよ」

 兄はかたをすくめ──すぐに「もう一八か」とつぶやいて顔をくもらせた。

「俺が魔術師えきに出た時と、ちょうど同じ年だな。……悪かったな、長いあいだ苦労をかけて」

「苦労だなんて言わないで。私は役目を果たしただけよ。お兄さまだってたくさん大変だったじゃない。それに財産も……」

「で、あいつは?」

「あ……」

 兄の笑顔に温かくなった心が、急に冷えていく。

「用事があると、外出なさったわ」

「はあ? 俺が来るってわかってんのにか?」

「……もうこのまま、出ていくように、って」

「はあ!?」

 兄はこつげんを顔に浮かべ、軽く舌打ちをする。

「ったく。白いけつこんとはいえ、五年こきつかったクロエと領地を明けわたす俺に対してなんて態度だ。燃やしていくか、屋敷」

「ま、待ってよお兄さま。せっかくおん便びんに終わりそうなんだから事をあらてないで」

 真顔で杖の宝玉を光らせ始めた兄を止め、私はうつたえる。

「私はだいじようだから。ね、もう思い出すのはやめましょう。私のためにお兄さまが罪を背負うのはいやよ」

「……わかってるよ、そんなことは」

 苦々しい顔をした兄は杖をくるくると回し、宝玉にともった光を消す。

「これからはクロエが幸せにならねえとな」

「私の……幸せ……」

「ん?」

「マクルージュこうしやく家の大切な財産を失わせてしまった、私が幸せになるなんて」

 ずっと気にんでいたことを思い出し、私は視線を落とす。

 ──私がいなければ、兄はマクルージュ侯爵家の財産を相続できたのに。

 ──父の政敵だったストレリツィ侯爵に頭を下げなくてよかったのに。

「こら、くよくよさせるために財産ぶん投げたわけじゃないんだぞ、俺は」

 うつむいた私のけんしわを、兄はぐりぐりと親指で伸ばす。

「俺は全財産より妹が大事だ、今はそれだけでいいんだよ」

 兄は、私の後ろに目を向けた。

「だろ? サイモン」

 サイモンがうなずいた。

「というわけだクロエ。とにかくお前は休養が必要だ。暗いことを考えちまうのも、お前がすっかり五年間の苦労でくたびれきってるせいだ」

「私は元気よ。もうこれ以上心配をかけるわけには」

「ばぁか。妹の空元気と作り笑いなんざバレバレなんだよ。……どうだ。これから行きたい場所は決まっているか?」

 私は目を落とす。

「わからないの。ごめんなさい。私には、友人も、こういう時に身を寄せる先も、なくて……」

 いずれこんするとはわかっていても、私はその後の身の振り方が思いつかずにいた。白い結婚の期間中、私はしきから自由に出ることを許されず、許可が下りても養護院や墓参りなどがほとんどだった。社交界なんて夢のまた夢、外に交友関係は全くない。

「じゃあ決まりだな。サイモン、準備は整ってるか?」

「はい、すべとどこおりなく」

「ん、最高だ」

 兄とサイモンはうなずきあい、そして私を見た。

「クロエ。ヘイエルダール辺境伯領に行け。セオドアが待っている」

「……えっ」

 とつぜんの展開に、私は固まる。

 ──セオドア様。

 ずっと、私が考えないようにし続けてきた、やさしい思い出をめた名前だ。

 だまりこんだ私の顔に、兄が心配そうにする。

「忘れたか? ……思い出すのがつらいか?」

「う、ううん……その、突然だからおどろいちゃって」

 忘れられるわけがない。

 もう二度と会えないと思っていた、あの優しい人。

「けれど……セオドア様はもうご結婚なさってるんでしょう? 私が行ったらごめいわくよ」

 りんごくの第三王女と婚約していたはずだ。その後の話は知らないけれど、いまごろはすでに結婚していてもおかしくないはず。

 すると兄は意外な答えを返した。

「……結婚なんかしてねえよ、あいつは」

「えっ」

「隣国の王女との婚約も、領地の復興のが立ったらすぐに解消した。政略婚約ってことだ。あいつはずっと独り身をつらぬいてる」

「……それなら、気にしなくていいかもしれないけど……」

「クロエ。お前はよくやった。めんどうな手続きのやり取りは俺に任せて、ゆっくりしてこい」

「でも……」

「サイモン、クロエをたのんだぞ」

 そこでサイモンが、手荷物を持って立ち上がる。

「はい、ではさつそく参りましょうクロエ様。次の汽車に間に合います」

「え、……も、もう?」

「よし。俺の後ろに乗れ、三人乗りだ」

 兄は杖を長くばし、りよくを込めてニヤッと笑う。

 サイモンは「あきらめましょう」とばかりに、私に片目を閉じて微笑ほほえんだ。

 兄とサイモンにうながされ、私は杖に横座りに座る。兄がこしをしっかり支えてくれたから、家が小さく見える高度でも、不思議と全くこわくなかった。

 ──苦労したストレリツィの屋敷も、オーエンナのべつていも、領地も、全て眼下に小さくなっていく。私は見下ろしながら、はっきりと、自分の人生が変わっていくのを感じた。

(……まだ、幸せになれるのかな)

 わからない。けれどようやく自由になった身は、とても身軽ですがすがしかった。

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