第一章 新しい人生と新天地①
五月の暖かな陽気が
「
朝食のバゲットを片手に新聞を読みながら、夫ディエゴは
私はちょうどコーヒーを
「クロエ? 聞いているのか」
「……申し訳ありません。承知いたしました」
私は頭を下げていつもの言葉を口にした。
申し訳ありませんと、承知いたしました。それと、かしこまりました。
夫はふんと鼻を鳴らし、新聞をめくる。今年三九歳になる
「ノエル・マクルージュが午後には迎えに来るそうだ。
「かしこまりました」
兄が無事に
夫は立ち上がり、
私は、夫に頭を下げた。
「長い間、たいへんお世話になりました。後ろ盾のない私を妻として
私の頭上を、ため息が通り過ぎていく。
「書類は全部片付けておけよ。お前の最後の仕事だ」
「承知いたしました」
「俺はもう出る。見送りはいらん、じゃあな」
夫はジャケットの
「……いいわよね、もう」
私はワゴンの中からめったに使われない自分用のカップを手に取り、コーヒーを注ぐ。そして
コーヒーを飲むなんて人生で初めてだ。
「……おいしい」
五年で淹れ方を
足音を立てずに老
「お
「……だめよサイモン。まだ私はストレリツィ
「もうよろしいでしょう。彼も家を出たのですから」
「……ふふ……そうね。お嬢様扱いも懐かしいわ」
サイモンは嫁ぎ先についてきてくれた
ふと、
「離婚の支度は
ほぼ私の仕事部屋となった
「クロエお嬢様。離婚手続きに当たる法務書類は整えました。財産
「ありがとう」
私は
「……色々あったわね」
サイモンが隣で
「何一つわからないところから、ご立派に務め上げられました。領主代行としての能力も、今やそこらの若い領主にも引けを取らないでしょう」
「言い過ぎよ。何度も危ないことはあったじゃない。……そのたびに、幸運としか思えないことで助けられてきたけれど……」
不作の時にお願いした商人が
「……神様が見守っていてくださるのかしらと思うような五年だったわ。
サイモンが私を見て
「さて、最後は……気が重いけれど、行きましょうか」
最後にやることは一つだけだ。
私はサイモンを連れて馬車に乗り、
夫の愛人、オーエンナが住む屋敷だ。
私が結婚した時には既に囲われていた彼女は平民の女性で、夫と
馬車を降りると深呼吸し、
居間では昼間から、酒びたりのオーエンナがソファに
私は背筋を
「正式に離縁が決まりましたので、ご
オーエンナは黒髪をかきあげ「あらそう」と
「じゃあようやくあたしが本妻になれるってわけね。ふふふふふ」
離縁後一年は正式な結婚はできない法律があるので、彼女の期待通りには運ばないだろう。思っていても私は口に出さないようにする。私が口を出すべき話ではない。
「まあいいわ。あんたもこれから元気にやんなさいよ! 何もないご令嬢様なんて、どうやって暮らすのかわかんないけどね。んじゃさよなら」
「お世話になりました。……オーエンナさんも、お元気でお過ごしください」
「思ってもないこと言わなくてもいいわよ。ああ、金持ちの女になれたのなら、あたしに仕送りをしてくれたっていいんだからね?」
「あの……クロエ様、ごめんなさい。母が」
「いいのよ。私がいなくなれば、きっとお母様も
「クロエ様……お世話になりました」
私とアンが話すのを、サイモンが静かに見守っている。
「ちょっとアン! ちょっと来て! 早く!」
「はーい! 申し訳ありませんクロエ様、母が呼んでいて……」
「私が引き留めてあなたが𠮟られるのは本意ではないわ。さ、早く行って」
「そ、それでは……!」
アンは何度も頭を下げ、去っていく。その姿にストレリツィ侯爵家で
「ごめんなさい、アン……いつか力になれることがあれば……」
アンへの罪悪感に後ろ
馬車で屋敷に戻り、サイモンの手を借りて降りる。
「おや」
ふいに、サイモンが空を見上げて声を
「クロエお嬢様、ご覧ください」
雲一つない青空に、何かが
「ノエルお兄さまだわ!」
ごう、と風が
私の声に気づき、兄──ノエルは満面の笑みで手を
「クロエ!」
兄はこちらに
「っ……お兄さま、お帰りなさい。早かったのね。お
「早く会いたかったんだよ。ああ、クロエ。大きくなったな。飯は食ってるか?
大きな
「お兄さまこそ
「やめてくれよ。俺はあんまり気に入ってねえんだよ」
兄は
「俺が魔術師
「苦労だなんて言わないで。私は役目を果たしただけよ。お兄さまだってたくさん大変だったじゃない。それに財産も……」
「で、あいつは?」
「あ……」
兄の笑顔に温かくなった心が、急に冷えていく。
「用事があると、外出なさったわ」
「はあ? 俺が来るってわかってんのにか?」
「……もうこのまま、出ていくように、って」
「はあ!?」
兄は
「ったく。白い
「ま、待ってよお兄さま。せっかく
真顔で杖の宝玉を光らせ始めた兄を止め、私は
「私は
「……わかってるよ、そんなことは」
苦々しい顔をした兄は杖をくるくると回し、宝玉に
「これからはクロエが幸せにならねえとな」
「私の……幸せ……」
「ん?」
「マクルージュ
ずっと気に
──私がいなければ、兄はマクルージュ侯爵家の財産を相続できたのに。
──父の政敵だったストレリツィ侯爵に頭を下げなくてよかったのに。
「こら、くよくよさせるために財産ぶん投げたわけじゃないんだぞ、俺は」
「俺は全財産より妹が大事だ、今はそれだけでいいんだよ」
兄は、私の後ろに目を向けた。
「だろ? サイモン」
サイモンが
「というわけだクロエ。とにかくお前は休養が必要だ。暗いことを考えちまうのも、お前がすっかり五年間の苦労でくたびれきってるせいだ」
「私は元気よ。もうこれ以上心配をかけるわけには」
「ばぁか。妹の空元気と作り笑いなんざバレバレなんだよ。……どうだ。これから行きたい場所は決まっているか?」
私は目を落とす。
「わからないの。ごめんなさい。私には、友人も、こういう時に身を寄せる先も、なくて……」
いずれ
「じゃあ決まりだな。サイモン、準備は整ってるか?」
「はい、
「ん、最高だ」
兄とサイモンは
「クロエ。ヘイエルダール辺境伯領に行け。セオドアが待っている」
「……えっ」
──セオドア様。
ずっと、私が考えないようにし続けてきた、
だまりこんだ私の顔に、兄が心配そうにする。
「忘れたか? ……思い出すのが
「う、ううん……その、突然だから
忘れられるわけがない。
もう二度と会えないと思っていた、あの優しい人。
「けれど……セオドア様はもうご結婚なさってるんでしょう? 私が行ったらご
すると兄は意外な答えを返した。
「……結婚なんかしてねえよ、あいつは」
「えっ」
「隣国の王女との婚約も、領地の復興の
「……それなら、気にしなくていいかもしれないけど……」
「クロエ。お前はよくやった。
「でも……」
「サイモン、クロエを
そこでサイモンが、手荷物を持って立ち上がる。
「はい、では
「え、……も、もう?」
「よし。俺の後ろに乗れ、三人乗りだ」
兄は杖を長く
サイモンは「あきらめましょう」とばかりに、私に片目を閉じて
兄とサイモンに
──苦労したストレリツィの屋敷も、オーエンナの
(……まだ、幸せになれるのかな)
わからない。けれどようやく自由になった身は、とても身軽ですがすがしかった。
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