プロローグ
思い出は六歳の
まだ両親も健在で、今は
「クロエ。お誕生日おめでとう。これは……僕からの
午後の暖かな子ども部屋。レースカーテン
──セオドア・ヘイエルダール
当時は七つ年上の一三歳。光の加減で時折
私の暮らす領地、マクルージュ
「『
長い
当時の私にとってセオドア様も兄も同じ、大切な『お兄さま』だった。
「蜂蜜姫の伝説はヘイエルダールではみんな知っているお話なんだ。……クロエのように
絵本の表紙には、満月に照らされた湖の水面で
本を開き、セオドア様はゆっくりと聞き取りやすい調子で説明してくれる。
「彼女が蜂蜜姫。月に住んでいた彼女は、毎晩見下ろすヘイエルダールの湖の美しさに
「そ……そうかなあ」
「クロエがいるから、マクルージュの家はいつも明るく
「……ほんとう?」
「うん、僕もクロエに会うのが楽しみだよ」
「ふふ……嬉しいな」
私はセオドア様の前でもじもじとスカートの
「じゃあ、読んであげるね」
セオドア様は絵本を読み始めた。声変わりはじめの
六歳の私は、セオドア様の肩にもたれながらまどろみに落ちていく。声を聞いていないともったいないと思うけれど、
「クロエ! クッキー持ってきたぞ!」
兄の
「眠ったよ。たくさん遊んで
兄が顔を
「起きるだろう、かわいそうだ」
「なんだよ……おれよりクロエの兄さんぶるなよ」
「僕はたまにしかクロエと会えないんだ。少しくらい、兄の気分にさせてくれないか?」
「ったく、にやにやしちゃって。……まあいいけどさ。こっちにいるときくらいお前にも、楽しく過ごしてほしいし。今……
「ああ。……でも
私は
「……
婚約者。
「だよな、まあ……順当にいけばクロエはお前と結婚するんだろうな」
兄まで
「……まだこいつが
「僕もだよ。クロエは
「だよな」
「……でも」
セオドア様が私を見下ろしている気配がする。彼は優しい声で言った。
「いつか結婚するのなら、相手はクロエがいいな」
「まあおれも、お前くらいしか許したくねえな
「僕の方が年上だろう?」
「はは、こういう時ってどうなるんだろうな? セオドアを
「お前にそれを言われるのは
兄とセオドア様は
「まあ……最後に決めるのはクロエだ。父さんも母さんもクロエの意志を尊重するだろうし」
「ふふ、クロエに選んでもらえるようにならなくちゃね」
「おれが反対するかもしれないぜ?」
「あれ? 僕以外は嫌なんじゃなかったっけ?」
「ばっ……こ、言葉のあやだよ」
ふわっと私の上に暖かなものがかけられる。セオドア様のマントだ。
セオドア様はマント越しに、私の背中を優しく撫でてくれた。
「……クロエが幸せになるのが、僕は一番だ」
「そりゃそうだな。クロエが幸せになるのが、おれも一番だ」
兄とセオドア様が微笑む気配がする。二人に見守られて眠るのは心地よい時間だった。
──いつまでも、私たちはこうして過ごせると思っていた。
兄は領主となってマクルージュ侯爵家の平和を守り、私はセオドアお兄さまのお嫁さんになる。両家の両親も仲良しで、みんなで笑い合って、楽しく領地を守っていく──未来を思うと、胸が温かくて、どこまでも幸せな気持ちに
優しい子ども時代は突然幕を下ろす。
私が九歳になった頃。
戦闘は辺境伯領内だけに
国境から
「ああ、今日も薬が届かないのか。このままでは……」
「あなた。私は大丈夫。どうか無理をしないで」
「何を言う。お前が元気でなければ、わしは……」
私に
たまらず父に
「お父様。セオドアお兄──セオドア様にはもうお会いできないのですか?」
「……クロエ……」
父は目を見開き、そして顔をこわばらせた。傷ついた顔をしているように見えた。
「……彼のことはもう、忘れなさい」
父は二度と、彼の話を私の前でしなくなった。私も父が悲しい顔をするのを見たくなくて、これ以上セオドア様の話はできなくなった。
一時休戦まで二年を要した。母が
時を移さず父も命を落とした。戦時体制下で
一八歳で爵位を
兄はマクルージュ侯爵位を形ばかり相続したが、宮廷の命令により魔術師役の間は領地に戻れなくなった。
残されたのは、未婚の一二歳の私一人。
私を預かろうとする
私の嫁ぎ先の最有力候補が老年の王族であり、さらにその次の結婚相手まで決められていると
「ふざけるな! クロエをなんだと思ってるんだ!? 戦争のためにあっちで子を産め、こっちで子を産め……だと!? たらい回しにする道具じゃねえんだ!」
兄はこの時すでに新人魔術師として頭角を現し始めていた。
机を
「お兄さま、
「……落ち着けるか。
兄は私を守ろうとあちこちを
「ノエル
「……サイモン」
ボロボロになった兄と、父の腹心だった家令のサイモン。二人は父の
「クロエ。俺を
「……お兄さま? 一体どうしたの……」
「ストレリツィ侯爵家に嫁いでくれ。『白い
白い結婚──書類の上だけで婚姻関係を結ぶだけの契約結婚のことだ。
兄はそれから、
兄が自由の身になるまでの、五年。私を白い結婚の契約妻として保護すれば、兄の相続したマクルージュ侯爵家全ての財産を、相手に
「私のために、財産を捨ててしまうの……?」
「俺はこれから宮廷魔術師として成り上がると決めた。爵位と金さえあれば最低でも王都に
それから兄は、兄の出世の計画について語ってくれた。
魔術師役は五年の強制だが、そこで志願し合格すれば正式な宮廷魔術師として働くことができる。その働き
「宮廷で成り上がるには領地経営や社交界はむしろ
「そんな……」
「クロエ。領地は取り戻せるが、お前の人生は取り戻せない。……不服だが……白い結婚ならまだ、未来がある」
兄の
「五年だ……約束する。五年後までにはどんな手を使ってでも、俺は宮廷魔術師として成り上がる。五年後までに金も地位も手に入れて、クロエが自由に選びたい道を選べるようにする。それが俺の、マクルージュ侯爵家を相続した者としての誓いだ」
結婚相手のストレリツィ侯爵家は、マクルージュ領と
「クロエ。俺が
声を
兄の
その二人の様子に、私はこれから
「……大好きよ、お兄さま。お兄さまもどうか無事でいてね」
兄の胸の
私の一三歳の誕生日。嫁ぐ日は雨だった。
サイモンと兄と三人で馬車に乗り、
ふと窓の外を見た時だ。
麦畑の向こう、雨で
ただの領民かもしれない。
けれど雨の中ただ一人立つその人は、まるで私の結婚を見送っているように見えた。同情しているように感じた。あまりにも悲しそうに見えたのは、私の気持ちを
空は暗い灰色をしていた。空の色にまた、
──セオドア様。どうか今、お幸せでありますように……。
ストレリツィの屋敷にたどり着いた私に、
私の夫となる人──ディエゴ・ストレリツィだった。
「何を突っ立っている、いくぞ」
冷たい声が私にかけられる。
私は心に
「はい、ディエゴ様」
もう二度と戻らない
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます