プロローグ

 思い出は六歳のころさかのぼる。

 まだ両親も健在で、今はじゆつとして家を出ている兄もいつしよに暮らしていた、平和な時代のおくだ。

「クロエ。お誕生日おめでとう。これは……僕からのおくり物」

 午後の暖かな子ども部屋。レースカーテンしの日差しにつややかなぎんぱつかがやかせ、大好きなセオドア様が私に絵本を差し出した。しゆういろどられた布そうていの、美しい絵本だ。

 ──セオドア・ヘイエルダールへんきようはく令息。

 当時は七つ年上の一三歳。光の加減で時折にじ色が輝く銀髪に、太陽みたいな金色のひとみが印象的な人だ。この日も礼装の上から、あざやかな刺繍の入ったマントをかたにかけていた。彼の暮らす辺境伯領の伝統しようぞくだ。

 私の暮らす領地、マクルージュこうしやく領は王都のほど近くに位置し、彼は親のえんでたびたびマクルージュ侯爵領をおとずれては侯爵息女の私と遊んでくれていた。

「『はちみつひめと魔石の湖』……僕の暮らすへイエルダール辺境伯領に伝わる伝説の本だよ」

 長いまつの奥、き通った金色の目を細めて、彼は絵本の表紙をでる。やんちゃな実兄あにノエルとはちがっておだやかな、やさしい仕草だった。この頃、私はセオドア様のことも、セオドアお兄さまと呼んでいた。

 当時の私にとってセオドア様も兄も同じ、大切な『お兄さま』だった。

「蜂蜜姫の伝説はヘイエルダールではみんな知っているお話なんだ。……クロエのようにかしこくて優しくてたっぷり愛された、幸せなお姫様のお話だよ」

 絵本の表紙には、満月に照らされた湖の水面で微笑ほほえむお姫様の姿がえがかれていた。私と同じきんぱつだ。こんなれいなお姫様と似ていると言われると、なおうれしくなる。

 本を開き、セオドア様はゆっくりと聞き取りやすい調子で説明してくれる。

「彼女が蜂蜜姫。月に住んでいた彼女は、毎晩見下ろすヘイエルダールの湖の美しさにかれて、地上に降りてきたんだ。そしてヘイエルダールを、満月色の美味おいしい蜂蜜が採れる土地にしてくれたんだ。賢くて優しくて、みんなをがおにするお姫様さ。クロエみたいでしょう?」

「そ……そうかなあ」

「クロエがいるから、マクルージュの家はいつも明るくにぎやかなんだ。父もいつも言っているよ、クロエじようと会うと楽しいって」

「……ほんとう?」

「うん、僕もクロエに会うのが楽しみだよ」

「ふふ……嬉しいな」

 私はセオドア様の前でもじもじとスカートのはしにぎる。セオドア様にめられるのは、両親や兄に褒められるのとは違う嬉しさがあった。彼は私の頭を気安く撫でたりしないし、私がハグを求めても「クロエはレディだから」とやんわりたしなめ、その代わり目の高さを合わせて手のこうにキスであいさつをしてくれる。セオドア様は私を子どもではなく『侯爵令嬢』としてあつかってくれた。だから私も子どもっぽく思われたくなくて、セオドア様の前ではいつも少しおすまししていた。

「じゃあ、読んであげるね」

 セオドア様は絵本を読み始めた。声変わりはじめのかすれた優しい声に私は聞き入った。会うたびに背が高くなり、大人になっていくセオドア様の変化もまた、私は好きだった。

 六歳の私は、セオドア様の肩にもたれながらまどろみに落ちていく。声を聞いていないともったいないと思うけれど、心地ここちよくて……。

「クロエ! クッキー持ってきたぞ!」

 兄のさわがしい声がやってきた頃にはもう、ねむりに落ちる寸前だった。とがめるような小声で、セオドア様がしぃ、とくちびるに指を立てた気配がする。

「眠ったよ。たくさん遊んでつかれたみたいだ」

 兄が顔をのぞき込んでくる気配がする。私より六つ上の兄ノエルは、マクルージュ侯爵家のちやくなんだ。兄がつんつんと私のほおをつつく。指先から甘いバターのにおいがする。つまみ食いをしてきたのだろうか。

「起きるだろう、かわいそうだ」

「なんだよ……おれよりクロエの兄さんぶるなよ」

「僕はたまにしかクロエと会えないんだ。少しくらい、兄の気分にさせてくれないか?」

「ったく、にやにやしちゃって。……まあいいけどさ。こっちにいるときくらいお前にも、楽しく過ごしてほしいし。今……りんごくが色々めんどうなんだろ?」

「ああ。……でもだいじようさ。父の目の黒いうちは隣国の好きにはさせないだろう。家臣団もたのもしい」

 私はたぬきりをしながら、兄とセオドア様の会話に胸がぎゅっと切なくなった。当時の私は、二人が話している内容はよくわかっていなかった。けれど少なくとも、セオドア様がだんはこうしてのんびり過ごせない立場なのは伝わってきた。

「……がんるよ。父さんたちはクロエを僕のこんやくしやにしたいみたいだから」

 婚約者。とつぜん大人びた単語を耳にして、私はどきっとした。まだあこがれでしかないふわふわとした夢が、急に現実の色を帯びた気がして。

「だよな、まあ……順当にいけばクロエはお前と結婚するんだろうな」

 兄までこわで言うので、私はますます頭がえてきた。再び頬をつつきながら、兄は少しさびしそうに言う。

「……まだこいつがよめに行くなんて、ちっとも想像つかないけどな」

「僕もだよ。クロエは可愛かわいいけれどまだ妹みたいだ」

「だよな」

「……でも」

 セオドア様が私を見下ろしている気配がする。彼は優しい声で言った。

「いつか結婚するのなら、相手はクロエがいいな」

「まあおれも、お前くらいしか許したくねえな義弟おとうとになるのは」

「僕の方が年上だろう?」

「はは、こういう時ってどうなるんだろうな? セオドアをさんって呼ぶのか?」

「お前にそれを言われるのはいやだな」

 兄とセオドア様はしのび笑いをする。兄が、私の頭を撫でた。

「まあ……最後に決めるのはクロエだ。父さんも母さんもクロエの意志を尊重するだろうし」

「ふふ、クロエに選んでもらえるようにならなくちゃね」

「おれが反対するかもしれないぜ?」

「あれ? 僕以外は嫌なんじゃなかったっけ?」

「ばっ……こ、言葉のあやだよ」

 ふわっと私の上に暖かなものがかけられる。セオドア様のマントだ。

 セオドア様はマント越しに、私の背中を優しく撫でてくれた。

「……クロエが幸せになるのが、僕は一番だ」

「そりゃそうだな。クロエが幸せになるのが、おれも一番だ」

 兄とセオドア様が微笑む気配がする。二人に見守られて眠るのは心地よい時間だった。



 ──いつまでも、私たちはこうして過ごせると思っていた。

 兄は領主となってマクルージュ侯爵家の平和を守り、私はセオドアお兄さまのお嫁さんになる。両家の両親も仲良しで、みんなで笑い合って、楽しく領地を守っていく──未来を思うと、胸が温かくて、どこまでも幸せな気持ちにひたっていられた。

 やわらかな愛情に包まれて暮らす私は、心から幸せだった。



 優しい子ども時代は突然幕を下ろす。

 私が九歳になった頃。きんちよう関係が続いていたヘイエルダール辺境伯領と国境が隣接する隣国の間で、大規模なせんとうぼつぱつした。隣国による一方的なこうげきがいを受けた辺境伯領は、その日を境に国境防衛のためこうせんせざるを得なくなった。

 戦闘は辺境伯領内だけにおさえ込まれていたけれど、王国中で戦争への機運が高まった。軍事にかたむいた政治方針がきゆうてい議会で可決され、王都の貴族学校に通っていた兄もじゆつ兵としての訓練を強制的に受けることになった。前線には出ないものの有事の戦闘要員としてのえき扱いで、なかなか領地に帰って来られなくなった。

 国境からはなれた私の暮らすマクルージュ領地ももれなく戦時体制のえいきようを受け、持病を持つ母の薬がなかなか手に入らなくなった。

「ああ、今日も薬が届かないのか。このままでは……」

「あなた。私は大丈夫。どうか無理をしないで」

「何を言う。お前が元気でなければ、わしは……」

 私にかくれて二人が深刻な顔で話し合う日も増えた。子どもながら、世間の不安な情勢を強く感じていた。兄にも、セオドア様にも、会いたくて仕方なかった。

 たまらず父にたずねた。

「お父様。セオドアお兄──セオドア様にはもうお会いできないのですか?」

「……クロエ……」

 父は目を見開き、そして顔をこわばらせた。傷ついた顔をしているように見えた。

「……彼のことはもう、忘れなさい」

 父は二度と、彼の話を私の前でしなくなった。私も父が悲しい顔をするのを見たくなくて、これ以上セオドア様の話はできなくなった。

 一時休戦まで二年を要した。母がびようぼつとむらいが終わったころ、私は新聞で、セオドア・ヘイエルダール辺境伯令息と隣国の第三王女の婚約が決まったと知った。当時私は一一歳。もう二度と彼に会うことはないのだと、理解できるねんれいになっていた。

 時を移さず父も命を落とした。戦時体制下でぼうさつされ、過労がたたったところに流行はやりやまいかんしたのが原因だった。マクルージュこうしやく家は兄と私、二人ぼっちになった。

 一八歳で爵位をいだ兄は私のため領地にもどろうとした。しかし悪いめぐり合わせは続く。同時期、宮廷議会は国家魔術師新法を制定した。休戦期間に国の軍事力を高めるため、魔術師の才能を持つ者すべてに強制的に五年間の魔術師役を課すことにしたのだ。

 兄はマクルージュ侯爵位を形ばかり相続したが、宮廷の命令により魔術師役の間は領地に戻れなくなった。

 残されたのは、未婚の一二歳の私一人。

 私を預かろうとするしんせきはいくつか名乗り出てくれたけれど、どれも不思議とよこやりが入ってとんした。どうも宮廷議会が私を『将来魔術師をはいしゆつする可能性のある子女』としてごまにするため、ほかの魔術師のいえがらとつがせようとしていたらしい。

 私の嫁ぎ先の最有力候補が老年の王族であり、さらにその次の結婚相手まで決められているとき止めた兄は、魔力を暴発させるほどおこった。

「ふざけるな! クロエをなんだと思ってるんだ!? 戦争のためにあっちで子を産め、こっちで子を産め……だと!? たらい回しにする道具じゃねえんだ!」

 兄はこの時すでに新人魔術師として頭角を現し始めていた。いかりで魔力を放出させ、魔力を貯めるために長くばしたかみが風を帯びて広がっている。

 机をたたこぶしにぎりしめると、つめが食い込んだ手のひらから血があふれた。

「お兄さま、をしているわ、落ち着いて……」

「……落ち着けるか。し上げられたらどうなるか。ただ魔術師を産むだけに利用される。それに俺を手駒にするためのひとじちにもさせられる……くそ……最後に残った妹まで、めちゃくちゃにされてたまるかよ……」

 兄は私を守ろうとあちこちをけずり回ってふんとうした。しかし兄もまた、後ろだてのない一八歳の若者でしかなかった。

「ノエルぼつちゃま、お話がございます」

「……サイモン」

 ボロボロになった兄と、父の腹心だった家令のサイモン。二人は父のしつ室で二人きり、長い時間をかけて話し合い──最後に、私を一次的に親類の家にけいやく結婚で嫁がせるじゆうけつだんをした。

「クロエ。俺をうらんでもいい」

「……お兄さま? 一体どうしたの……」

「ストレリツィ侯爵家に嫁いでくれ。『白いけつこん』で……お前を守るしかない」

 白い結婚──書類の上だけで婚姻関係を結ぶだけの契約結婚のことだ。

 兄はそれから、くらい目をして私に言い聞かせた。

 兄が自由の身になるまでの、五年。私を白い結婚の契約妻として保護すれば、兄の相続したマクルージュ侯爵家全ての財産を、相手にじようするという取引だった。

「私のために、財産を捨ててしまうの……?」

「俺はこれから宮廷魔術師として成り上がると決めた。爵位と金さえあれば最低でも王都にしきを建てられるし、えん後のクロエをむかえることだってできる。領地の財産はいずれ取り戻せばいい」

 それから兄は、兄の出世の計画について語ってくれた。

 魔術師役は五年の強制だが、そこで志願し合格すれば正式な宮廷魔術師として働くことができる。その働きだいでは出世が期待できる上、宮廷で顔を広くするには最も効率の良い方法だった。

「宮廷で成り上がるには領地経営や社交界はむしろあしかせだ。しばらく領地を預けるようなもんだと割り切るよ。嫌だけどな」

「そんな……」

「クロエ。領地は取り戻せるが、お前の人生は取り戻せない。……不服だが……白い結婚ならまだ、未来がある」

 兄のひとみには、隠しきれない静かな怒りがこもっていた。兄は私を見ながら自分自身にちかうように口にする。

「五年だ……約束する。五年後までにはどんな手を使ってでも、俺は宮廷魔術師として成り上がる。五年後までに金も地位も手に入れて、クロエが自由に選びたい道を選べるようにする。それが俺の、マクルージュ侯爵家を相続した者としての誓いだ」

 結婚相手のストレリツィ侯爵家は、マクルージュ領とりんせつした、長年いさかいの絶えない家だ。母が存命の時、王都からの薬が届かなくなったのはストレリツィ家のせいではないかとあやしまれており、私たち兄妹きようだいにとっては複雑な感情のある侯爵家だった。

「クロエ。俺がそばにいてやれなくて、ごめんな……」

 声をふるわせた兄のなみだを見たくなくて、私はとつに兄にぎゅっときついた。兄は私を強く強くいだいて、声を殺して泣いているようだった。

 兄のかたしに、後ろに立っていたサイモンが強いまなしで私を見つめ、うなずく。

 その二人の様子に、私はこれからごくに行くのだといやおうなくさとった。

「……大好きよ、お兄さま。お兄さまもどうか無事でいてね」

 兄の胸のぬくもりに顔を押し付けながら、思い出すのは温かな子どもの頃のおくだった。あの幸せな日々は二度と戻らない──そう、思い知らされたしゆんかんだった。



 私の一三歳の誕生日。嫁ぐ日は雨だった。

 サイモンと兄と三人で馬車に乗り、ちんもくのままストレリツィの屋敷に向かう。

 ふと窓の外を見た時だ。

 麦畑の向こう、雨でかすんだおかの上に人が立っているのが見えた。顔も見えないし、馬車はあっという間に通り過ぎてしまう。

 ただの領民かもしれない。

 けれど雨の中ただ一人立つその人は、まるで私の結婚を見送っているように見えた。同情しているように感じた。あまりにも悲しそうに見えたのは、私の気持ちをとうえいしているからだろうか。

 空は暗い灰色をしていた。空の色にまた、なつかしいぎんぱつの色が重なった。

 ──セオドア様。どうか今、お幸せでありますように……。

 ストレリツィの屋敷にたどり着いた私に、むかえた男はあごで入るように示した。くりいろの髪をでつけ、げんそうにしたわしばなの男。

 私の夫となる人──ディエゴ・ストレリツィだった。

「何を突っ立っている、いくぞ」

 冷たい声が私にかけられる。となりで兄がみするのがわかる。

 私は心にふたをした。そして地獄への一歩をみ出す。

「はい、ディエゴ様」

 もう二度と戻らないはちみつのように甘い思い出を──心の内にい込んで。

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