第一章 私の夫は犬なのですか①

 げんかんホールに入ると犬がいた。

 それも、ぶりっぶりにかわいい子犬。いや、小型犬で成犬なのか?

 真っ白でふわっふわな毛並みでまん丸な毛玉に手足が生えたようなそれは、広い玄関ホールの真ん中で小さな円を描くようにぐるぐると一心不乱にけ回っていたのだけれど、ドアが開いた音におどろいたのか短くて丸い尻尾しつぽをびぃんとふるわせた。

 おそるおそるというようにゆっくりと振り向いた毛玉は、ふわふわな毛並みにもれそうなまん丸の瞳で私をかくにんすると、びくりと全身を震わせ、ぴょいーんと大きくねた。

 それから私をぎようしたままビシッと固まり動かない。

 その近くには、ふぁさりとぎ捨てられた衣服。

 なるほど。これは、あれか。

 このしきの主人が帰ってきてそのまま誰かと情熱的に何かが始まってしまい、飼い犬が主人のしんしつから追い出されて悲しさのあまり動転して駆け回っていたとか、そんなあたりだろうか。

 でなければこんなところで下着まで脱ぎ散らかし、さらにはそれをこうしやく家の使用人が片付けずにおくなんてことは起きないだろう。

 もしかしたら公爵様はおモテになるのかもしれない。

 人嫌いだろうが冷酷だろうが塩公爵と呼ばれていようが、見ている分には眼福であることは確かだし、俺様な男性をかっこいいという女性も多い。それに二十三歳にもなるのだし、こんやくしやがいないからといってずっと一人ということもないだろう。

 だがしかし、私はついさきほどそんな公爵様の妻となったのだ。推測の通りだとすれば今後は改めてほしいが、うわさを聞く限りでは私の言い分など聞き入れられはしないだろう。

 だとしたら、私も今後そういっただんさまとそれを取り巻く女性たちとうまくやっていくしかない。

 それならまずは実情を知る必要がある。

 寝室にとつにゆうするか。

 そうとなれば善は急げだ。

 おそらく寝室は二階なのだろうが、はしから順に開けていくのは非効率。誰かに場所をたずねたいものの、辺りに人の気配もない。急に送られた馬車でごういんに降ろされたのだからいたしかたあるまい。だがまあ、日も落ちたこの時間にちゆうぼうへ行けば誰かはいるだろう。

 そう考え、私は固まる犬を通り過ぎ、すたすたと奥へ進んだ。

 すると、はっとしたように犬がチャカチャカとつめの音を立てて追いかけてきて、私の周りをぐるぐると回り始めた。

 危ない。足元にまとわりつかれると、うっかり踏んでしまいそうで進めない。仕方なく足を止めると、犬もぴたりと止まる。まるで私の動きを止めはしたものの、その先は考えてもいなかったというような、ほうに暮れた顔。

 それならばとまた歩き出すと、あわててまた私の周りを駆け回る。

 なんだこの犬。

 かわいすぎてでくりまわしたいが、相手にも意思があるのだから勝手にれるわけにはいかない。さらには他人の飼い犬だ。いや、公爵様の飼い犬ならば、私も飼い主の一人になるのか? かといって、言葉が通じない相手に「どいて」と言ってもなあ。

 しばし考えた後、私はいきなりだっと駆け出した。

 意表をかれたようで犬はおくれたものの、さすがに速い。あっという間に回り込まれてしまった。

 しかし私が足を止めると犬も止まる。

 何がしたいんだ、この犬……。

 らちが明かない。

 めんどうになってたび私が強引に歩き出したその時、「いや、勝手にずんずん進むなよ!」という声がした。

 振り返るがだれもいない。

 そこにいるのは今も足元の犬ただ一匹だけで、おうへいことづかいに対してかんだかいかわいらしい声もそこから聞こえていた。

「今、しやべられました?」

 そんなわけがあるかと思いながらたずねると、「お、おお……。俺、喋れたのか」と驚いたようなつぶやきが返る。

 それといつしよに白いふわふわの毛玉みたいな犬の口が動いていた。

 えんかく操作の腹話術でもない限り、この犬が喋ったとみていいだろう。しかし、そんなことがあるだろうか。本人……本犬もびっくりしているし。

「ご自分のことなのにご存じなかったのですか?」

「いや、だって、おまえは独り言も言わんし、表情に動きもないから何を考えているのかさっぱりわからんし、そもそも声をかける発想などなかったしな」

 まるで今初めて人と会ったような口ぶりでさりげなく人のせいにしないでほしい。

「ひとさまの家にきていきなり一人で喋り出すなんて、気味悪くありません?」

「いやそんなこと言ったら喋る犬のほうがこわいだろ!? 何でそんなに平然としていられる? おまえ、なんなんだよ……」

 私は小首をかしげると、改めて犬を見下ろした。

「人に何かを尋ねる時は自ら情報を差し出すのが定石です、という論理は犬にも通じます?」

「おま……、いちいち腹立つな……! 俺は犬じゃない」

 どう見ても犬だが。

「ではどちらさまですか?」

「おまえがだれかわからん限りそんなこと言えるか! こわいんだよ、おまえ!」

「あら、おびえさせてしまっていたのですね。それは失礼いたしました。私はジゼル・アーリヤードと申します。しがないびんぼうはくしやく家のむすめでしたが、つい先程クアンツ・シークラント公爵様の妻となりました」

 そう答えると、犬はぱかりとしたあごを垂らした。

「妻……? なんでいきなり? はっ……俺がこんな姿になったのはおまえのせいか!」

 だからしがない(略)の私にそんなことができるわけもない。

「なんでも人のせいにするのはよろしくないかと。私とて望んで妻となったわけではありません。国王陛下がいつの間にか手続きを済ませていらっしゃったのです」

伯父おじうえが……? クソッ、められた! 俺が準備を整えられないうちにと手を打ったか……」

 犬はいらいらと考えるようにその場をぐるぐると回り始めた。

 人間で言えば、顎に手を当てカツカツと歩き回っているのと同じだろうか。

 しかしふとげんそうに足を止める。

「で、何故なぜおまえはぐいぐい迷いなく奥に行こうとしていた?」

「公爵様の妻となりましたので」

「説明が簡略すぎてわからん! そもそも、他人の家に来たらずかずか進まないでまず人を呼ぶとかなんとかするだろうが!」

 他人ではないと言い返すと話がどうどうめぐりするのでやめた。

 しかし、そうか。我が家に使用人がいなかったから人を呼ぶという考えがなかった。

 ほかの家との付き合いもない名ばかり貴族だから、こういうときの勝手がわからない。

「使用人の方はさがすのではなく、呼ぶものなのですね。公爵様の寝室はどちらかお聞きしたかったのですけれど、ご存じで?」

「いや、なんで寝室なんだよ」

「どうやら公爵様はお盛んなご様子でしたので、妻としてじようきようあくし、今後の身のり方を考えなければと思いまして」

 そう答えると、犬はぼうぜんと私を見たまま口をぱくぱくとさせた。

 犬は犬なりに赤くなるやら青くなるやらしているのかもしれない。

「何故そこに行き着く? なんで伯父上はこんなおかしなやつをしたんだよ……」

 呆然とした呟きに、認めたくなかった推察を認めざるを得ないなとあきらめる。

さきほどから陛下を伯父上と呼んでいらっしゃるところから察するに、あなたはクアンツ・シークラント公爵様とお見受けしますが、これは私のかんちがいでしょうか」

「察しがよくて助かるけどなんでおまえ平然と聞いてくるんだ?」

「それはそれは、今後ともよろしくお願いいたします。しかし、私は犬とけつこんしてどうしたらよろしいのでしょうか」

「あのなあ! おまえが俺と結婚したから、俺がこんなことになったんだろうが!」

 ということは、ずっと犬だったわけではないということか。

 よかったのか悪かったのか今の時点ではわからないけれど、とにかくくわしい話を聞かないことには先に進めない。

「ですから、一人で堂々巡りして人のせいにする前にけいを話してくださいませんか?」

 ぐっと口を閉じた犬──もとい、公爵様がようやっと口を開いた。

「昔、じよせまられたことがあってな。断ったらのろいをかけられた」

 たんてきに言われてもなかなかにみ込みにくい話である。

 だまって続きを待っていると、公爵様は思い出すだけでげんなりするというようにかわいらしい犬の顔をなんとも残念な感じにゆがめながら、ぽつりぽつりと語りだした。



 クアンツ・シークラント公爵は幼いころから天使とめそやされるめぐまれた容姿のため、年下からお姉様まではばひろい女性に言い寄られていた。

 いや、公爵様のりよくは男女問わず、ねんれい問わずで、母親と同年代の人まで彼におそかってくることがあったらしい。

 なんとかそれを切りけ、純潔を守り通してきたが、そうして彼の意思などおかまいなくり寄り、体にれてこようとする人々にほとほといやがさしたらしい。

 公爵様は強い態度をとることで人をけ始めたが、すでにそのぼううわさは人里からはなれた場所に住む黒い魔女にまでおよんでいた。

 黒い魔女というのは、呪いなど人をおとしめる魔術をあつかう魔女たちのそうしようである。

 人々からきらわれており、黒い魔女たちも人を嫌っているというが、公爵様の噂はその中の一人の興味を強く引いた。

 そこでまだ十四歳の公爵様は魔女から結婚しろと迫られたが、最初に語った通り一も二もなく断った。

「なんでよ!」と逆ギレする魔女に対し、公爵様は「怖いんだよ!」とぜんと返したという。

 この人、強い態度をとってはいるが、どうにも言動はヘタレている。

 だが公爵様の言い分にさらにキレた黒い魔女は、呪いをかけた。

 それが、『結婚したら犬になる』というもの。しかも姿が犬になるだけではない。結婚した相手の命令に犬のように従ってしまうのだという。

 両親は既になく、あとぎをもうけるため結婚しなければならないが、相手につけこまれては家も自分も守れない。だから相手をけんせいし、自分を強い立場に置く必要があった。

 そこで「とついだからといってその家に金銭的にもその他もえんなどしない」「私の命令には絶対的に従ってもらう」「私の自由は私の物であり、だれにもそれらをおかすことはできない」「妻は夫に何も要求してはならない」というような一方的でれいこくごうまんともとれる制約を公言したのだそうだ。



「そういった経緯をお聞きすると、なつとくです。言い寄る相手を減らすこともできて、一石二鳥だったわけですね」

「先に公言しておけば、そうほうの時間をにせず済む。結婚を求めてきた相手にいきなりき付けるのは酷だしな」

 さも当然というように言った公爵様に、なるほど、とうなずいた。

 傲慢でひとぎらいの塩公爵と呼ばれる所以ゆえんとなった言動はどれも自分を守るための物だったのだ。しかも傲慢どころか、づかいまである。

 多くの男性は、たくさんの女性に言い寄られても困るどころか、これ幸いとかたぱしから遊ぶのだろう。だが彼はりちに断るものだから泣かれ、めに揉めて、腹いせを受け、どんどんへいしていったというのだから、実直すぎて不器用な人なのかもしれない。

 恵まれた容姿ではあるが、本人にとってそれは恵みではなかったのだろう。

 これまで聞いていた噂からはこんな中身や事情がかくれていようとは思いもしなかった。

 人とはわからないものである。

「しかし、そんな呪いをかけたとして、黒い魔女にどんな利益があるのでしょうね」

「深く考えもせず適当にのろっただけなのではないか? 相当ブチ切れていたからな」

「まあそうかもしれませんね。それで、どうやったらその呪いは解けるのですか?」

「俺が聞きたいわ! 本当に呪いなんぞあるのかも、さっき実際にこうなってしまうまで半信半疑だったし……。今話した以上のことは何もわからんのだ」

 そうか。先程私と結婚したことでとつぜん犬の姿に変わり、公爵様もおどろきまどいの中にいたのだろう。だから動転してぐるぐる回っていて、犬の姿でしやべれることも知らなかったのだ。

 ぎ散らかされた服も、ちょうどげんかんホールにいた時に姿が変わってしまったから。

 事実を知らずにあの状況からこの答えを導きだせようはずもないわけで、かいしやくにこれほどへだたりが出るのだから、知るということはだいだ。

「あれもこれもわからないでは不便ではありませんか? 呪った本人に聞いてみては」

「魔女がどこにんでいるかなんて知るわけがあるか! 会いたくても会えないのだ!」

 きゃんきゃん! とみつくように犬こうしやくえた時だった。


「やぁっと会いたいって言ってくれたわね」


 いや、今のはそういう意図での発言ではないと思う。

 というツッコミがしゆんのどもとにせり上がったけれど、それどころではない。

 そのようえんな声が私の背後からとうとつに聞こえたから。

 ぱっと振り返ると、そこにはむらさきのスラリとしたドレスを身にまとい、れいに巻かれたかみを背に垂らした美女がいた。だがその顔の位置は私より頭一つ分上で、見上げる形になった。

 いている。

 赤いクッションに座った格好のままふわふわと浮き、こちらに──いや、犬となった公爵様にあでやかなみを向けていた。

「お、おまえは! たぶんあの時の魔女だな?」

 犬となった公爵様がさけぶと、言葉の前後に「きゃわん! きゃわん!」と鳴き声がつく。

 感情的になると犬の本能が現れるのだろう。ぐるるるる、とうなる犬に、黒い魔女はキッとにらむ目を向けた。

「たぶんって何よ! そうよ、あの時あなたに呪いをかけた魔女サーヤよ! あなたの人生がひっくり返るくらいのしようげきあたえたんだから、それくらい覚えておきなさい」

「いや、あの時は動転していたし、ずいぶん前のことだし」

 こいつ、言動はヘタレているが案外きもわっている。

 いや、抜けているというべきか、なおすぎるというべきか。

「ふん……まあいいわ。だって、やっとあなたが私を呼んでくれたのだもの」

 魔女はふふっと口角を上げほおに手を当てるが、いや、だからたぶん呼んでない。だいぶ待ちがれたせいで耳に入る言葉は都合よく解釈されるようになっているのだろうか。

「だれか呼んだか……?」

 そこの犬公爵もきょろきょろするな。ほかだれがいる。

「さっきあなた、会いたくても会えないって言ったじゃない! 絶対言ったわ! 私聞いたんだからね!」

「ああ……」

 そういえば、っていう顔をされると困る。

 犬のきょとん顔はかわいすぎてでまくりたくなるではないか。

「ほら。やっと私しかいないとわかってくれたのね。今すぐにでもけつこんしてあげるわ」

 なるほど。呪いのせいで公爵様は誰とも結婚したくなくなる。では自分が結婚してやると持ち掛ける。そうして公爵様を意のままにしようとしていたわけか。随分とこすい。

 しかしある意味真っぐすぎる公爵様にはそんなくさった思考は通じないようだった。

「いや、私は既に結婚している。だから犬になったのだぞ」

 何を言っているんだとばかりにもふもふのまゆひそめた公爵様を見下ろし、魔女はしばし黙り込んだ。

 こちらでもそういえば、っていう顔をするな。

 しかしじよの開き直りは早かった。

「別にいいわ。私に人間のせきなんて関係ないもの」

 垂れた巻きがみをバサリと背にはらい、ふん、とたけだかに笑うが、この魔女、あまり計算は得意でないようだ。どうにも行き当たりばったり感が強い。

「おまえに関係なくとも、俺には大いに関係ある」

「魔女の結婚は、血のちぎりをわすだけよ、すぐ済むわ。そんな女はほうっておいて私と楽しく暮らしましょう?」

「それは嫌だ」

「なんでよ!」

「だっておまえ、自分本位そうだし、人の話聞かないし、気分屋っぽいし。いつしよに暮らすのはつかれそうだから」

 正直だな。だが正直ならいいわけではない。大人は建前も必要なんだぞ。

 案の定魔女は、思ったままを言ったというようにりんとしている犬の公爵様を睨みつけ、顔を真っ赤にしていかりをたぎらせた。

「なぁんですってぇ!? このに及んで、まだそんなことを言うの!? 私しかあなたののろいは解けないっていうのに」

「その呪いの解き方って?」

 さりげなく質問をはさむと、魔女は勢いよく答えてくれた。

「心から愛され口づけを受けるだけよ。でも犬だもの。人嫌いで冷酷な塩公爵だもの! 真実の愛なんて生まれるわけがないわ!」

 どやっと言われたわりにはどこかで聞いたことのあるようなかいじゆ方法だが、『真実の愛』とは魔法でどのように判定されるのだろう。興味深い。

「なるほど。公爵様は元の姿にもどりたいですか?」

「もちろんだ!」

 勢い余ってわきゃん! という鳴き声とあわせて答えた公爵様に、魔女がふふんと笑った。

「じゃあ私と結婚して一生そばにいて。それなら今すぐにでも呪いを解いてあげる」

「それはいやだ!」

「だからなんでそんなにかたくななのよ! 大体ねえ──」

 食い気味にきよぜつされた魔女がぎゃーぎゃーとわめいている間に、私は足元の公爵様の前にしゃがみこみ、たずねた。

「では、私が口づけをしてみてもよろしいですか?」

「え? なぜ?」

「真実の愛なんてどのように判定するのかと疑問に思いまして。案外口づけだけで戻ることもあるのでは、と」

「確かに。ではお願いする」

「承知しました」

 その答えを聞くと、私は犬の公爵様をひょいっとき上げた。

「あ、だが待て、口づけなんてしたこと──いやいや」

「待ったは聞きません」

「え? まっ、なんでそんな男前!?」

 この期におよんできゃんきゃんとうるさい。

 私は顔の前まで犬の公爵様を持ち上げると、そのれたくちびるれるだけの口づけをした。

 まるで氷に触れておどろいたかのように、ふわふわの毛並みにもれていた耳がぴぃんと立つ。

 その一瞬後。

 ぼっふぅんと辺りに白いもくもくとしたきりじようの何かがあふれ出し、視界が真っ白になった。

 私の手には、さらりとしたはだ

 そして霧が晴れると、目の前にはぱだかの男が立っていた。

「うおわあああ!」

 はだかにひんかれたみたいに叫ばれると私が加害者っぽく映るのでやめてほしい。

 しかし驚いた。

 き通るようなふわふわのはくはつに、天使と見まごうような美しく整った甘い顔。

 ほどよく筋肉のついたたくましいむないた

 もちろんそれより下に視線は向けないだけの分別は持っているし、すぐにさらさらとした素肌からも手をはなしたけれど、なるほどこれは裸ではなくても色気がだだれな上にとてもとても顔がいい。

「戻った! 戻ったぞ!」

 だが残念ながら、公爵様と思われる男が自らの手を見下ろし、そうかんの声をあげた瞬間だった。

 ぼしゅんと気のけるような音がして、目の前の成人男性は消えた。

 代わりに現れたのは、さきほどの犬。

「なんでだ───!!」

「ふん、当たり前よ。そんな出会って間もない女が真実の愛なんて持ってるわけがないじゃない」

 それはそうだ。これまで見てきた犬のこうしやく様に好きになるような要素はなかった。案外きもわっていて素直なのだと知ったものの、だからといって好感をいだくほどではない。

 だが。

いつしゆん、変わりましたね」

 魔女はさっとあらぬ方に目を向け、聞こえていなかったかのように素知らぬ顔をしたが、その反応だけで十分だ。

 愛といっても、友愛、親愛、家族愛にてい愛、他にとくしゆな愛もたくさんあるだろう。今の私と公爵様の関係をかんがみれば、今回は友愛か動物愛がわずかでもあると判定されたのかもしれない。

 犬に戻ってしまった公爵様はいまだ持ち上げられたところからの急降下(物理ふくめ)にぼうぜんとしているけれど、上々の結果が得られたのではないだろうか。

 黒い魔女はそんな公爵様を見て気分を良くしたのか、すうっと高度を下げ、ふふんと笑った。

「一瞬なんてなんの意味もないわ。やっぱりあなたは私を選ぶしかないのよ」

「それは無理だ。おまえは私の顔が気に入っているだけだろう」

 予想外にきっぱりと言われたためか、魔女はつかの間だまった。事実だったらしい。

「顔が好きだろうが体が好きだろうがあなたを愛していることに変わりはないわ。体から始まる愛だってあるもの。それこそためしてみないとわからないじゃない? そこの地味女の前例もあるし」

「試さないでもわかる。無理だ」

「無理無理うるさいわね! 口づけなんて減るもんじゃなし、いいじゃないの!」

「減る!」

 それはごめんね。

「一度私と口づけをすれば、とりこになるわよ。とろけさせてあげる」

 ふふふふふ、とようえんみをかべ、どんどん高度を下げてくる魔女を見上げ、犬の公爵様はぞっとしたように「来るな、じよ!」と頭を低くしてチャカチャカと三歩下がった。

「なんですって!? 私のこのりよくにその言いぐさ! ありえないわ!」

「つい、すまん! だがいやだ! 俺は妻との間に真実の愛を探す! 意思も何もない結婚ではあったが、すでに口づけも交わしている。ていこうはしたくない!」

 口づけが初めてらしいとか、あの美しい顔で信じられないことだったが、この純情一直線そのものな口ぶりからすると本当だったのだろう。よくここまで守り抜けたものだ。

 魔女は「ぬぬぬぬぬぬ……!」とギリギリみをしていたものの、ふん、とあらい鼻息をくといまいましげに高度を上げた。

「いいわ。好きなだけ犬の姿でいることね!」

 そう言って背を向けたが、最後にくるりとり返り、うふっと笑った。

「呼んでくれたら私はいつでもけ付けるから。その時は、のろいから解放してあげるわね」

 そう言って、すっと姿を消した。

 一人で温度の高低差が激しいことだ。

 犬の公爵様はしばらくけいかいするように何もいなくなった宙にぐるるるとうなっていたけれど、戻ってこないとわかると、はふうとめた息を吐き出した。

 先程公爵様は私との間に真実の愛を探す宣言をしたわけだが、私はこの犬、もとい夫を愛せるだろうか。

 うわさ通りのれいこくごうまんな人ではないようだが、それだけで好きになるわけもなく、れんあいや友愛を抱けるか今のところ自信はない。

 あいだったらいける気もするが、それにしたって時間はかかるだろう。

 先程のじよの様子ではとつぱつ的であまり計算が得意ではなさそうだし、呪いの力もそれほど強くなさそうだ。

 真実の愛以外の呪いを解く方法を探すほうが早いかもしれない。



 魔女にたんをきっていたものの、再び犬にもどってしまった公爵様は服のぎ散らかったままのげんかんホールにたたずみ、ほうに暮れたようにうなれていた。

 一瞬の希望を見せられただけに始末が悪い。

「大体事情はわかりました」

何故なぜそんなに落ち着いていられるんだ……」

 公爵様は「もっとあるだろう、『呪いなんてこわい!』とか『犬になるなんて信じられない!』とか」とぶつぶつ言っていたが、さわいだところで事実は既に目にしたのだからなつとくするよりない。

「何がどうなっているのかと思いましたし、信じられない思いでしたが、姿が変わるところもの当たりにしましたし、幸いにも当事者がそろっていましたのでてき質問させていただきましたし。一通りは理解できました」

「肝が据わりすぎじゃないか?」

「『おもしろい女だ』と言うのは食傷気味なのでやめてくださいね」

「何かいやなことでもあったのか?」

「そこから今に至ります」

「ええ……? 全然わからん」

 もふもふな白い毛に埋もれそうな目がまどい、こちらを見ている。

 私は改まってきちんと向き合った。

「では、今度は私がここに来ることになったけいをお話しさせていただいてよろしいでしょうか」

「それはそうだな。俺も聞きたいことがたくさんある。お茶を飲みながらゆっくりと話してもらおう。ずっと立たせて悪かったな」

 口調はぞんざいだが、きっと、自分を悪く見せるためにこれまでそうしてきたのだろう。言葉のはしばしづかいがあるし、気品はかくせていない。

 なるべくていねいこころけているもののまったくそうはできていない私とは正反対だ。

 こちらだ、と公爵様がチャカチャカつめを鳴らす。

 後について歩き出そうとしたが、少し待たないとんでしまう。

 公爵様が進むのを待っているうち、やっと騒ぎに気付いたのか、しぶいシルバーグレイのしんが「申し訳ありません、お客様をお待たせしてしまいまして」と駆け付けた。

 おそらく公爵家のしつなのだろう。

 しかし、足元をチャカチャカ進む犬を見下ろすなり、その顔はきようがくに染まった。

「ああ、ロバート。しようかいしよう、こちらはジゼ──」

「キャ───! 犬がだんさましやべり方で喋ってる! でもかわいい! でも旦那様!」

 渋いオールバックの紳士も本気でおどろくと悲鳴が出るらしい。

 そうか。私もこういう反応を求められていたのか。

 ただ、執事は一声さけびを上げただけで、私と公爵様をこうに見るとすぐに姿勢を正した。

 呪いの話は聞いていたのだろう。「ついにこの時が来てしまったのですね」と、なんとも言えない目で公爵様を見下ろした。

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