第一章 私の夫は犬なのですか①
それも、ぶりっぶりにかわいい子犬。いや、小型犬で成犬なのか?
真っ白でふわっふわな毛並みでまん丸な毛玉に手足が生えたようなそれは、広い玄関ホールの真ん中で小さな円を描くようにぐるぐると一心不乱に
おそるおそるというようにゆっくりと振り向いた毛玉は、ふわふわな毛並みに
それから私を
その近くには、ふぁさりと
なるほど。これは、あれか。
この
でなければこんなところで下着まで脱ぎ散らかし、さらにはそれを
もしかしたら公爵様はおモテになるのかもしれない。
人嫌いだろうが冷酷だろうが塩公爵と呼ばれていようが、見ている分には眼福であることは確かだし、俺様な男性をかっこいいという女性も多い。それに二十三歳にもなるのだし、
だがしかし、私はつい
だとしたら、私も今後そういった
それならまずは実情を知る必要がある。
寝室に
そうとなれば善は急げだ。
おそらく寝室は二階なのだろうが、
そう考え、私は固まる犬を通り過ぎ、すたすたと奥へ進んだ。
すると、はっとしたように犬がチャカチャカと
危ない。足元にまとわりつかれると、うっかり踏んでしまいそうで進めない。仕方なく足を止めると、犬もぴたりと止まる。まるで私の動きを止めはしたものの、その先は考えてもいなかったというような、
それならばとまた歩き出すと、
なんだこの犬。
かわいすぎて
しばし考えた後、私はいきなりだっと駆け出した。
意表を
しかし私が足を止めると犬も止まる。
何がしたいんだ、この犬……。
振り返るが
そこにいるのは今も足元の犬ただ一匹だけで、
「今、
そんなわけがあるかと思いながら
それと
「ご自分のことなのにご存じなかったのですか?」
「いや、だって、おまえは独り言も言わんし、表情に動きもないから何を考えているのかさっぱりわからんし、そもそも声をかける発想などなかったしな」
まるで今初めて人と会ったような口ぶりでさりげなく人のせいにしないでほしい。
「ひとさまの家にきていきなり一人で喋り出すなんて、気味悪くありません?」
「いやそんなこと言ったら喋る犬のほうが
私は小首を
「人に何かを尋ねる時は自ら情報を差し出すのが定石です、という論理は犬にも通じます?」
「おま……、いちいち腹立つな……! 俺は犬じゃない」
どう見ても犬だが。
「ではどちらさまですか?」
「おまえが
「あら、
そう答えると、犬はぱかりと
「妻……? なんでいきなり? はっ……俺がこんな姿になったのはおまえのせいか!」
だからしがない(略)の私にそんなことができるわけもない。
「なんでも人のせいにするのはよろしくないかと。私とて望んで妻となったわけではありません。国王陛下がいつの間にか手続きを済ませていらっしゃったのです」
「
犬は
人間で言えば、顎に手を当てカツカツと歩き回っているのと同じだろうか。
しかしふと
「で、
「公爵様の妻となりましたので」
「説明が簡略すぎてわからん! そもそも、他人の家に来たらずかずか進まないでまず人を呼ぶとかなんとかするだろうが!」
他人ではないと言い返すと話が
しかし、そうか。我が家に使用人がいなかったから人を呼ぶという考えがなかった。
「使用人の方は
「いや、なんで寝室なんだよ」
「どうやら公爵様はお盛んなご様子でしたので、妻として
そう答えると、犬は
犬は犬なりに赤くなるやら青くなるやらしているのかもしれない。
「何故そこに行き着く? なんで伯父上はこんなおかしなやつを
呆然とした呟きに、認めたくなかった推察を認めざるを得ないなと
「
「察しがよくて助かるけどなんでおまえ平然と聞いてくるんだ?」
「それはそれは、今後ともよろしくお願いいたします。しかし、私は犬と
「あのなあ! おまえが俺と結婚したから、俺がこんなことになったんだろうが!」
ということは、ずっと犬だったわけではないということか。
よかったのか悪かったのか今の時点ではわからないけれど、とにかく
「ですから、一人で堂々巡りして人のせいにする前に
ぐっと口を閉じた犬──もとい、公爵様がようやっと口を開いた。
「昔、
クアンツ・シークラント公爵は幼い
いや、公爵様の
なんとかそれを切り
公爵様は強い態度をとることで人を
黒い魔女というのは、呪いなど人を
人々から
そこでまだ十四歳の公爵様は魔女から結婚しろと迫られたが、最初に語った通り一も二もなく断った。
「なんでよ!」と逆ギレする魔女に対し、公爵様は「怖いんだよ!」と
この人、強い態度をとってはいるが、どうにも言動はヘタレている。
だが公爵様の言い分にさらにキレた黒い魔女は、呪いをかけた。
それが、『結婚したら犬になる』というもの。しかも姿が犬になるだけではない。結婚した相手の命令に犬のように従ってしまうのだという。
両親は既になく、
そこで「
「そういった経緯をお聞きすると、
「先に公言しておけば、
さも当然というように言った公爵様に、なるほど、と
傲慢で
多くの男性は、たくさんの女性に言い寄られても困るどころか、これ幸いと
恵まれた容姿ではあるが、本人にとってそれは恵みではなかったのだろう。
これまで聞いていた噂からはこんな中身や事情が
人とはわからないものである。
「しかし、そんな呪いをかけたとして、黒い魔女にどんな利益があるのでしょうね」
「深く考えもせず適当に
「まあそうかもしれませんね。それで、どうやったらその呪いは解けるのですか?」
「俺が聞きたいわ! 本当に呪いなんぞあるのかも、さっき実際にこうなってしまうまで半信半疑だったし……。今話した以上のことは何もわからんのだ」
そうか。先程私と結婚したことで
事実を知らずにあの状況からこの答えを導きだせようはずもないわけで、
「あれもこれもわからないでは不便ではありませんか? 呪った本人に聞いてみては」
「魔女がどこに
きゃんきゃん! と
「やぁっと会いたいって言ってくれたわね」
いや、今のはそういう意図での発言ではないと思う。
というツッコミが
その
ぱっと振り返ると、そこには
赤いクッションに座った格好のままふわふわと浮き、こちらに──いや、犬となった公爵様に
「お、おまえは! たぶんあの時の魔女だな?」
犬となった公爵様が
感情的になると犬の本能が現れるのだろう。ぐるるるる、と
「たぶんって何よ! そうよ、あの時あなたに呪いをかけた魔女サーヤよ! あなたの人生がひっくり返るくらいの
「いや、あの時は動転していたし、
こいつ、言動はヘタレているが案外
いや、抜けているというべきか、
「ふん……まあいいわ。だって、やっとあなたが私を呼んでくれたのだもの」
魔女はふふっと口角を上げ
「だれか呼んだか……?」
そこの犬公爵もきょろきょろするな。
「さっきあなた、会いたくても会えないって言ったじゃない! 絶対言ったわ! 私聞いたんだからね!」
「ああ……」
そういえば、っていう顔をされると困る。
犬のきょとん顔はかわいすぎて
「ほら。やっと私しかいないとわかってくれたのね。今すぐにでも
なるほど。呪いのせいで公爵様は誰とも結婚したくなくなる。では自分が結婚してやると持ち掛ける。そうして公爵様を意のままにしようとしていたわけか。随分と
しかしある意味真っ
「いや、私は既に結婚している。だから犬になったのだぞ」
何を言っているんだとばかりにもふもふの
こちらでもそういえば、っていう顔をするな。
しかし
「別にいいわ。私に人間の
垂れた巻き
「おまえに関係なくとも、俺には大いに関係ある」
「魔女の結婚は、血の
「それは嫌だ」
「なんでよ!」
「だっておまえ、自分本位そうだし、人の話聞かないし、気分屋っぽいし。
正直だな。だが正直ならいいわけではない。大人は建前も必要なんだぞ。
案の定魔女は、思ったままを言ったというように
「なぁんですってぇ!? この
「その呪いの解き方って?」
さりげなく質問を
「心から愛され口づけを受けるだけよ。でも犬だもの。人嫌いで冷酷な塩公爵だもの! 真実の愛なんて生まれるわけがないわ!」
どやっと言われたわりにはどこかで聞いたことのあるような
「なるほど。公爵様は元の姿に
「もちろんだ!」
勢い余ってわきゃん! という鳴き声と
「じゃあ私と結婚して一生
「それはいやだ!」
「だからなんでそんなに
食い気味に
「では、私が口づけをしてみてもよろしいですか?」
「え? なぜ?」
「真実の愛なんてどのように判定するのかと疑問に思いまして。案外口づけだけで戻ることもあるのでは、と」
「確かに。ではお願いする」
「承知しました」
その答えを聞くと、私は犬の公爵様をひょいっと
「あ、だが待て、口づけなんてしたこと──いやいや」
「待ったは聞きません」
「え? まっ、なんでそんな男前!?」
この期に
私は顔の前まで犬の公爵様を持ち上げると、その
まるで氷に触れて
その一瞬後。
ぼっふぅんと辺りに白いもくもくとした
私の手には、さらりとした
そして霧が晴れると、目の前には
「うおわあああ!」
しかし驚いた。
ほどよく筋肉のついたたくましい
もちろんそれより下に視線は向けないだけの分別は持っているし、すぐにさらさらとした素肌からも手を
「戻った! 戻ったぞ!」
だが残念ながら、公爵様と思われる男が自らの手を見下ろし、そう
ぼしゅんと気の
代わりに現れたのは、
「なんでだ───!!」
「ふん、当たり前よ。そんな出会って間もない女が真実の愛なんて持ってるわけがないじゃない」
それはそうだ。これまで見てきた犬の
だが。
「
魔女はさっとあらぬ方に目を向け、聞こえていなかったかのように素知らぬ顔をしたが、その反応だけで十分だ。
愛といっても、友愛、親愛、家族愛に
犬に戻ってしまった公爵様はいまだ持ち上げられたところからの急降下(物理
黒い魔女はそんな公爵様を見て気分を良くしたのか、すうっと高度を下げ、ふふんと笑った。
「一瞬なんてなんの意味もないわ。やっぱりあなたは私を選ぶしかないのよ」
「それは無理だ。おまえは私の顔が気に入っているだけだろう」
予想外にきっぱりと言われたためか、魔女は
「顔が好きだろうが体が好きだろうがあなたを愛していることに変わりはないわ。体から始まる愛だってあるもの。それこそ
「試さないでもわかる。無理だ」
「無理無理うるさいわね! 口づけなんて減るもんじゃなし、いいじゃないの!」
「減る!」
それはごめんね。
「一度私と口づけをすれば、
ふふふふふ、と
「なんですって!? 私のこの
「つい、すまん! だがいやだ! 俺は妻との間に真実の愛を探す! 意思も何もない結婚ではあったが、
口づけが初めてらしいとか、あの美しい顔で信じられないことだったが、この純情一直線そのものな口ぶりからすると本当だったのだろう。よくここまで守り抜けたものだ。
魔女は「ぬぬぬぬぬぬ……!」とギリギリ
「いいわ。好きなだけ犬の姿でいることね!」
そう言って背を向けたが、最後にくるりと
「呼んでくれたら私はいつでも
そう言って、すっと姿を消した。
一人で温度の高低差が激しいことだ。
犬の公爵様はしばらく
先程公爵様は私との間に真実の愛を探す宣言をしたわけだが、私はこの犬、もとい夫を愛せるだろうか。
先程の
真実の愛以外の呪いを解く方法を探すほうが早いかもしれない。
魔女に
一瞬の希望を見せられただけに始末が悪い。
「大体事情はわかりました」
「
公爵様は「もっとあるだろう、『呪いなんて
「何がどうなっているのかと思いましたし、信じられない思いでしたが、姿が変わるところも
「肝が据わりすぎじゃないか?」
「『
「何か
「そこから今に至ります」
「ええ……? 全然わからん」
もふもふな白い毛に埋もれそうな目が
私は改まってきちんと向き合った。
「では、今度は私がここに来ることになった
「それはそうだな。俺も聞きたいことがたくさんある。お茶を飲みながらゆっくりと話してもらおう。ずっと立たせて悪かったな」
口調はぞんざいだが、きっと、自分を悪く見せるためにこれまでそうしてきたのだろう。言葉の
なるべく
こちらだ、と公爵様がチャカチャカ
後について歩き出そうとしたが、少し待たないと
公爵様が進むのを待っているうち、やっと騒ぎに気付いたのか、
おそらく公爵家の
しかし、足元をチャカチャカ進む犬を見下ろすなり、その顔は
「ああ、ロバート。
「キャ───! 犬が
渋いオールバックの紳士も本気で
そうか。私もこういう反応を求められていたのか。
ただ、執事は一声
呪いの話は聞いていたのだろう。「ついにこの時が来てしまったのですね」と、なんとも言えない目で公爵様を見下ろした。
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