第40話 二人の新婚生活はオタク色

 結婚を機にトレーシーとアルバスは王城からメイデン侯爵家へと居を移した。


 義父であるメイデン侯爵も、義母となるメイデン侯爵夫人も、同じ屋敷内に住んでいる。


 しかし屋敷が広い上に皆忙しいため、同じ敷地内とはいえ若夫婦とは約束でもしていない限りは顔を合わせる機会もない。


 結果、トレーシーはストレスを感じることもなくアルバスと快適に暮らしている。


 本宅とは別棟にある夫婦の家は、未来の侯爵夫婦が暮らすにはコンパクトでシンプルな建物だ。


 キッチンとダイニング、夫婦それぞれの書斎に研究室。そして寝室がある。


「手狭なのでは? と、思いましたが平気でしたね」

「そうだろう? トレーシー君っ!」


 若夫婦が暮らす家は本宅に比べたら小さめではあったが、それでも十分に広い。


 魔道具も魔法陣も使い放題、若夫婦にとっての夢の住宅である。


 使用人たちには少々評判の悪いところもあるが、おおむね満足のいくものとなっていた。


 しかしトレーシーには常々、不満に思っていることがあった。


「ねぇ……」


 トレーシーはアルバスの手を握るとグッと自分に引き寄せる。


 身体強化をかけていない夫の体は、簡単に妻と密着することになった。


「そこはもう『トレーシー』で、いいのではなくて? アルバス」

「あっ……」


 アルバスが焦って妻の顔を見れば、そこにあるのは悪戯に輝く赤茶の瞳。


「私だけ『アルバス』と呼び捨てていたらバランスがとれなくて変よ?」


「ごめ……なかなか、呼び捨てが慣れなくて……」


「ふふ。許してあげる」


 トレーシーは自分の両腕をアルバスの首に回して引き寄せる。


 アルバスは引き寄せられるままにだらしなくヘロヘロと妻の顔との距離を縮めていく。


 唇の上に柔らかな感触。


 トレーシーの唇と自分のそれが重なったとアルバスが気付いたときには、軽くリップ音を立てて離れていく愛しい妻の顔。


 アルバスの顔はだらしなく緩みながら笑顔になっていく。


「トレーシー君……では、なくて。トレーシー」


「うん。そうね、アルバス」


 見つめあうふたり。今度はアルバスの方から唇をかさねていく。軽くリップ音をたてて離れていく愛しい夫の顔。


 ふたりは顔を見合わせながらクスクス笑った。


「ねぇ、アルバス?」


「なんだい? トレーシー」


「私、魔法省は退職した方がよいのかしら?」


「なぜ?」


 トレーシーは真剣な声で言うも、アルバスは首を傾げて心底不思議に思っているようだ。


「仕事と家庭生活を両立できる気がしないわ。研究なら、家の中に研究室があるし」


「あっ、それなら気にしなくて大丈夫」


 優しい笑顔を浮かべたアルバスが、トレーシーを安心させるかのように頬を撫でながら言う。


「ココに作った研究室は、研究開発部の実験棟と魔法陣で繋がっている。すぐに実験棟へ行けるし、負担は最小限にできるよ」


「あ……実験棟の沢山ある部屋って、そういうこと?」


「んっ。そうだよ。一部の人たちは自宅と繋げている」


「そうなのね」


「自宅のセキュリティがしっかりしている必要はあるけど、抜け道を作るのは禁止されていないからね」


 アルバスは優しい笑顔とお揃いの、優しい声で言う。


「魔法省に届け出もしてあるし……キミが仕事を辞める必要なんてない」


 トレーシーの優しい夫は彼女の耳元に口を寄せ、秘密を伝えるようにそっと言う。


「だからね、トレーシー」


「なぁに?」


「キミが妊娠したって、魔法省を退職する必要なんてないよ」


「あら」


(子ども? ああ、子どもね。そうね。私は欲しいと思えば自分の意志で子どものいる家庭を持つことができるのだわ)

 

 アルバスは誘惑するように言う。


「この家の研究室から通えばいい。使用人を増やしたっていいし。心配なら不在の間は、私の父や母に子どもを預けてもいい。やり方はいくらだってある」


「そうね、アルバス。便利な魔道具を増やしてもいいわね」


 ふたり視線を合わせれば自然と笑み崩れる。


 うれしくて楽しくて顔いっぱいに笑みが広がっていくのが分かる。


 未来には希望しかない。


「足りないものはないかい? トレーシー?」

「大丈夫よアルバス」


 トレーシーはニッコリと微笑むとアルバスの胸に潜り込んだ。

 慌てて強化魔法をかける気配がする。

 彼の胸板は相変わらず薄い。


「ここには、私の欲しいものが全て揃っているわ」


 トレーシーは愛しい夫の胸にもたれかかって、うっとりしながら溜息をついた。

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