第8話 嫉妬と虚飾
「大丈夫、大丈夫。戦の準備で二轍したのがいけなかったのかな、少し疲れただけだよ」
駆け寄ったエリザベートの頭を国王は優しくなでる。
その感触は『小父様』と呼んでいた幼い頃から全く変わらず、冷静でいないといけないのに、懐かしさでエリザベートの目の奥が痛くなった。
「陛下」
そんな娘の心情に気づいたのか。
そばに来た父公爵は国王の隣に膝をつき、国王を支えるために触れていたエリザベートの手の上に自分の手を重ねた。
懐かしい温もりに「逆効果です、お父様」とエリザベートは言いたくもなったが、二対の優しい『父親の目』に黙って甘えることにした。
「しかし、二轍くらいで情けないですね。寄る年波には勝てないと言いますが、もう少し根性を出してください」
「僕より年上の君のほうがどうして元気なの?僕の三倍は書類があったよね?六轍?化け物なの?」
「あのくらいの仕事なら徹夜をする必要もありませんし、私は陛下のように軟弱ではありません。しかし、この状況はよくありませんね」
音楽や踊りは神に捧げるものであり、途中で止めることはよくないとされる。
その証拠に楽団はこのような状況になっても変わらず楽器を奏で、即興だがさすがの実力で前奏をアレンジして演奏を続けていた。
「階段を転げ落ちなかっただけ良かったとしようよ」
「そのときは聖女様の手を離し、一人で転げ落ちてくださいね。さて、父王の失態は殿下にとっていただきましょう。アレクサンダー殿下、代わりに聖女様とのファーストダンスをお願いします」
アレクサンダーを指名した父公爵にエリザベートは「え?」と驚いた。
こういうときは配偶者、つまり夫であるセバスチャンが呼ばれるはずである。
彼も王子でアレクサンダーと同格、なおさらここはセバスチャンの出番であるのだが、
「セバスチャン殿下はお妃様が聖女であることを理解し、この場に別の方をエスコートしてきて下さっています。礼法上、セバスチャン殿下のファーストダンスの相手はその御令嬢でなければいけません。しかしアレクサンダー殿下はお一人で参加、その無礼については……今回は助かったので大目にみましょう」
「……ありがとうございます」
(殿下が謝っているわ……お父様、ちょっと偉そうじゃない?大丈夫なの?うちは傍系なのに、どっちが直系王族か分からないわ)
「ご理解いただけたら早く踊り始めてください。楽団の方たちにいつまで負担をかけるのですか?ほらほら、二人が踊らないと周りも踊れませんよ」
野良犬でも追い払うように『さっさと行け』と言われたアレクサンダーは父王の立っていた場所に代わりに立ち、向かい合ったエリザベートに礼をする。
そして二人が手を重ね、アレクサンダーの手がエリザベートの腰に触れたところで楽団員は『銀月のワルツ』の正統なメロディーを奏で始めた。
(陛下がエレナ妃のために作らせた『銀月のワルツ』……エレナ様がお好きで、よく相手をさせられたとおっしゃっていた、母君との思い出の曲)
ワルツが苦手なアレクサンダーが唯一、ぎこちなくも最後まで踊れるという理由で練習のときかかっていた曲。
年季の入ったオルゴールが奏でるメロディーにのってくるくると、普段は決して使われることのないセレンディア宮のダンスホールで踊っっていた曲。
剣や魔法の指南役はシェイドやウィスパーが務めたが、アレクサンダーのダンスの先生はエリザベートだった。
初めて父公爵にアレクサンダーにダンスを教えるように言われたとき、エリザベートはダンスの授業を週一から週三に増やした。
いつもより長い前奏だったが、踊り出しは変わらない。
プロの技術に感心していると『いくぞ』というように握り合ったアレクサンダーの手に力がこもるのを感じ、了承の意を込めてエリザベートはアレクサンダーに体を預ける。
タイミングを合わせて同時に一歩目を踏み出したとき、デビュタントのファーストダンスでセバスチャンと歩幅が合わなかったことを思い出す。
(踊り慣れているからだわ)
エリザベートは自分の嘘に気づいていた。
エリザベートにとってダンスの相手はいつもアレクサンダーだった。
アレクサンダーは絶対に失敗したくないダンスの相手で、一人練習するときも仮想の相手はいつもアレクサンダーだった。
(楽団の演奏、たくさんの視線……そして『ジェイ様』)
みんなの前で堂々とアレクサンダーのパートナーになること。
アレクサンダーのリードで踊りながら、エリザベートは自分がずっと夢みていた光景の中にいることに気づく。
(デビュタントで、私が見たかったもの)
チョコレートを溶かした飲み物にたっぷりミルクをいれたようなクリーム色のドレスを着て、アレクサンダーと完璧なダンスを披露する。
アレクサンダーがモテることは知っていたから、自分以上にアレクサンダーに合う令嬢はいないと周りを牽制するために。
(浅ましいと思う、でもそのくらい、なりふり構えないくらい、この人を……)
その先を、エリザベートは考えることはできなかった。
***
ワルツのリズムにのって足を踏み出し、タイミングを合わせて腰を引き寄せふたたび離す。
初対面の相手と踊るときは互いに歩幅を合わせる必要があるため最初の動きは小さくなるものだが、アレクサンダーは大きな動きでリードした。
歩幅を合わせる必要がないほど踊り慣れた二人と解釈するか。
二人とも優れた踊り手だと評価するか。
宮廷にはびこる噂好きのキツネたちに話題を提供するようなものだが、それについては父親二人がどうにかするだろうとアレクサンダーは思っていた。
腰に添えたアレクサンダーの手を、エリザベートの栗色の柔らかい髪が親し気になでる。
ターンをすればエリザベートの香りに包まれて、ワルツは夜会ではなく男女のプライベートな空間でのみ踊られるべきだとアレクサンダーは思った。
(デビュタントでセバスチャンと踊った曲がワルツじゃなくてよかった)
デビュタントの令嬢が婚約者と踊る曲はワルツが定番だが、エリザベートのデビュタントで婚約者となったセバスチャンと踊った曲は同じ三拍子でもマズルカだった。
(公爵の母君が好きだったからといっても、あれを婚約披露の曲にするのは意地が悪い)
リズミカルで軽快なステップ、ダンスフロア全体を使って円や対角線などのパターンを描くマズルカは技術と体力が必要なダンスで、幼い頃から踊り慣れているニコラスとエリザベートのマズルカはワルツだけでも精一杯なアレクサンダーには未知の領域だった。
案の定、エリザベートと婚約者となったセバスチャンはマズルカが始まって早々に音を上げて、その会に参加した者の記憶に残ったのはパートナー交代で披露された公爵とエリザベートのマズルカだった。
(あれも二人が躍る姿を見たくないという公爵の気遣い……)
「お見事ですね。せっかくなのでもう一曲、国王陛下のせいで我が国の強靭さが薄れてしまったので、それを補うためにマズルカをお願いします」
(……ではなかったか。この人、結局は夫人似の娘に近づく男が気に入らないんだな)
無理だったら代わりますよ、と言わんばかりの公爵にアレクサンダーは苦笑いを返した。
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