第3話 訪れる暗雲

「アレク」


 名前を呼ばれたアレクサンダーは見入っていたクリーム色の封書から、声のした扉のほうに顔を向けた。

 そこには先ほどまで会っていたエリザベートの兄であり、アレクサンダーの親友のニコラスがいた。ニコラスの目がアレクサンダーが持つ封書でとまり、わずかに眉間にしわがよる。


「エリーのデビュタントへの招待状か?」

「ああ、今日持ってきてくれたんだ。あのマリーがデビュタントとは時が経つのは早いな、ニック」


 台詞はまるで兄のようだが、そう言ったアレクサンダーの濃いブラウンの瞳は溶けたチョコレートのように甘く、兄である自分や父が浮かべるのとは違うエリザベートへの愛情に満ちていた。


 ニコラスはアレクサンダーがエリザベートのデビュタントを心待ちにしていたことを知っていた。


 特殊な事情のある一部貴族を除けば、貴族令嬢の婚約はデビュタント以降。

 デビュタントよりも前に恋仲になった者たちでも周囲の流れに合わせて「デビュタントまで婚約するのは我慢する」ことが通例になっていたからだ。


「エリーとの婚約を願い出るつもりか?」

「どうしたんだ、いまさら。俺はそのつもりだし、マリーだって断らないと自信満々に言い切ったのはニック、君だろう?」


 いまのハートフォード王国は第一王子のアレクサンダーを王太子と推す『皇帝派』と、「血統が大事」という貴族の過半数の賛成を持って第二王子のセバスチャンを推す『貴族派』に分かれていたが、アレクサンダーが政務で成果を出し始めたことで皇帝派の方がやや優勢だった。


「ここでローズウッド公爵家が俺の後ろ盾として立てばマリーの身も安全だとお前が……おい、ずいぶんと顔色が悪いがどうした?何があった?」

「アレク……すまない」


 ***


「お嬢様、旦那様がお呼びです」

「まあ、今日はお帰りになっていたのね。すぐに準備して向かうとお伝えして」


 家令が一礼して下がると、エリザベートはベルを鳴らして侍女を呼ぶと簡単に準備をお願いした。


「お父様」

「久し振りだな……大丈夫か?」

「?もちろんですわ。デビュタントの招待状も出し終わりましたし」

「殿下にも、渡したのか?」

「ええ……あの、いけませんでしたか?」


 まるで呼吸を奪われたような苦し気な顔をする父公爵が心配になったエリザベートが駆け寄ると、公爵はエリザベートをぎゅっと抱きしめると、ソファに並んで座った。


「エリー……情勢が変わった。お前とアレクサンダー殿下の婚約を認めるわけにはいかない」


 エリザベートは耳を疑った。

 デビュタント前なので父公爵が明言したことはないが、デビュタントのドレスをアレクサンダーを連想させるクリーム色にすることに賛同することでアレクサンダーとの婚約を推してくれると思っていた。


「セバスチャン殿下からお前との婚約を打診された」

「お父様!」


 悲鳴のような声をあげ、縋りつくような娘から公爵は目を逸らしたが、次の瞬間には感情を映さない静かな瞳をエリザベートに向けた。


「次のデビュタントで発表する。ドレスは第二王子の色、淡いブルーに変えなさい。話は以上だ……私はまだ仕事があるから、失礼する」

「お父様!」


 エリザベートの声に父侯爵は振り返ることなく、部屋を出ていった。

 誰もいなくなった部屋でエリザベートはただぼんやりと、視界がぼやけるのも構わずに閉まった扉を見続けていた。


 ***


 部屋に小さく響いたノックの音にエリザベートは顔を上げると、朦朧とした視界に満月を称えた夜空が映った。

 東の空は僅かに明るく、夜明けが近いことに気づく。


(……喉が渇いたわ)


 泣き過ぎて体中の水分が抜けたような感覚に水差しを探し、いつも置かれている場所に何もないことに眉をひそめる。


(婚約から逃げないようにと私を閉じ込めたのだから……食事と水の補給は忘れて欲しくないわね)


 父侯爵から第二王子との婚約を言われて三日。

 エリザベートとセバスチャンの婚約の話はすでに王都にいる主要な貴族が知っているようで、二人の婚約を祝う手紙が大量にエリザベートの元に届いていた。


 そんな手紙など見たくもないが、好意であれ悪意であれ人の気持ちを無視してはいけないという教えが邪魔して、エリザベートは手紙を捨てることはできなかった。

 そうして部屋の入口に置いた箱の中に祝いの手紙は溜まり、その数から噂の拡散具合が知れてエリザベートは頭が痛かった。


 しかし、頭痛薬を飲もうにも水がない。


(部屋の外にいる者に水を頼みましょう)


 部屋は外から鍵がかかっているため、扉を数回叩いたが何の反応もなかった。

 あまりの対応にエリザベートは苛立ち、扉の取っ手に手を掛けて開けようとしたら、いつもは鍵のかかっている扉はアッサリと開いた。


(鍵をかけ忘れたのかしら……まだ朝早いけれど、いましかないわ)


 必要ならば中庭で待たせてもらおうと考え、エリザベートはお忍び散策用のワンピースに着替えてマントを被るとアレクサンダーの宮に繋がるゲートに向かった。


 中庭への扉をあけるとき、窓ガラスに映った自分の姿に苦笑する。


 毎月一回、ここに来るときはいつも服装や髪形に気を使ってきたが、いまの自分は洗いざらしのワンピースに化粧気のない上に泣きはらした顔と実にみずぼらしい。


 事態は急を要している上に、チャンスはこの一度しかないかもしれないというのに。

 それなのに、こんな姿をアレクサンダーに見せることへの羞恥がある自分にエリザベートは苦い笑いが浮かんだ。


「セレンディア宮」


 ***


「当然だけれど……静かね」


 あれから五年以上経ったいまでも、セレンディア宮には数人の使用人しかいない。

 アレクサンダーはいまも変わらず王妃や貴族派から命を狙われているため、使用人は少なく、買収などを警戒して不定期に入れ替えているのだった。


「……いけない、クセでここに来てしまったわ」


 ここに来るたびに招かれていたリビングにきたエリザベートだったが、明け方のこの時間にアレクサンダーがいるわけがないと気づく。

 そしてこの時間ならば寝室と考えられるが、エリザベートはここにきて躊躇した。

 アレクサンダーはこの宮のどの部屋でも好きに出入りする許可をエリザベートに与えたが、ただ一つ、彼の寝室だけは許さなかったからだ。


(でもあれは私を大事に思ってくれたからで、いまなら仕方ないと思ってくれるわ。早くしないと、私がいないと気づいた使用人の報告を受けてお父様たちが来てしまうわ)


 アリシアは覚悟を決めてリビングを出ようとして、ふと目に入ったエレナの肖像画を見る。

 初めて見た日から変わらない穏やかな笑みだったが、なぜか今は泣きたい気持ちになった。


(お母様が生きていらっしゃったら相談にのってくださったかしら)


 父侯爵は母親がいない寂しさをエリザベートが感じないように骨を折ってくれたし、それをエリザベートだってわかっていた。

 しかし数カ月にわたるデビュタントの準備で、何度も母親がいればと思うことがあったエリザベートは不意に母の存在に焦がれた。


 「ルミナス・グロウ」


 暗い廊下で魔法を唱えると、小さな柔らかい光がランタンのように廊下を照らす。

 その灯りを頼りに階段を上り、二階の奥にあるアレクサンダーの寝室の扉まで数メートルのところで足を止めた。


 薄く開いたままの扉から光が漏れていたからだ。


「もしかして、起きているのかしら……よかった」


 起きているなら直ぐに話ができると、エリザベートは手元の光を消して廊下を駆け、「ジェイ様?」と声をかけながら扉を引いて開けたところで動きを止める。


 入口のすぐそばに落ちていたのは女性用の華奢な靴。

 視線を先に向ければマント、ドレス、そしてドレスに絡まるように男性用のシャツが落ちていた。

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