第10話 「はじめてのテイム」

 ばしゃ、ばしゃ。

 日の登る前の、薄暗闇。

 夏の早朝。

 冴え冴えとした空気のなか、白い水飛沫があがる。


 真っ白い装束をまとった木月野桔梗が、水垢離をしていた。

 邪念をはらい、邪気を退ける。

 魔を調伏する呪術家としての日課だ。

 その足元には、伝説のツチノコによく似たトカゲが体を丸めて寄り添っている。

 ダンジョン以外の実世界に魑魅魍魎が現れることはほとんどないが、常に呪術家としての鍛錬を怠ることはない。

 毎朝同じように、水垢離をして穢れを払う。

 それが、数百年、数千年と続いてきた呪術家の教えだ。

「……ふぅ」

 全身がぐっしょりと濡れ、ふっくらとした身体に白装束がまとわりつく。

 寒くても暑くても、それは変わらない。

 これが、桔梗の日常だ。

「さて、行こうか。ツッチー」

 先ほどまで厳しい水こりをしていたとは思えないふんわりとした表情で、桔梗は足元のツチノコに語りかけた。


 ◆◆◆


 ダンジョン内の迷宮獣ミュートロギアをテイムできる。

 その可能性に、世界が胸を躍らせた。

 ツッチーとの自撮りは、『シーカーランカー』で大人気になった。

 もぐもぐズの人気は、高校生部門でトップ20にまで上昇。アカリはうはうはだ。 

 もちろん、桔梗の巫女としての能力は隠さなくてはいけないし、ツッチーが怪しい研究所に担ぎ込まれて非人道的な実験の犠牲者……いや、犠牲トカゲになるのは本意ではないため、ツッチーは桔梗が大切に隠して飼育している。

 おそらく、日常世界にダンジョン産の迷宮獣ミュートロギアを連れてこられるとわかれば、さらにテイマーフィーバーは止まらないだろう。迷宮獣の中には、もふもふのツノウサギや、美しい羽を持った極楽鳥などがいる。ペット需要としては最高だ。

 けれど、秘密は秘密。

 それでも、たった一枚のツッチーともぐもぐズの写真はダンジョン業界を熱狂させた。

 今まで、テイムというのはすこぶるコスパの悪い迷宮異能とされていた。そのため、テイムのその持ち主がプロ探索者になることはありえなかった。

 第三世代とよばれる、迷宮異能を持つ二十歳以下の人間のなかに、その迷宮異能を持つ者がものすごく少ないから……というのもある。

 というか、テイムという迷宮異能の持ち主というだけで、とても力の弱いランクに振り分けられてきたのだ。迷宮適応指数によって、ランクEからランクCといったところらしい。

 現状、第三世代が探索者として活躍するにはランクBは少なくとも必要……というのが定説だ。

 だから、十代前半から活躍できる特権階級であるランクAやランクBの探索者の中に、テイムの迷宮異能を持った者は誰一人としていないのだ。

 アカリは、もう、叫びたい気持ちだった。

「ざっまあああああみろ!」

 うはは、と笑ってしまう。

 六歳の時の、たった一度の才能を測る試験。

 それだけで、ダンジョンにやすやすと入れる特権階級と「お前はだめ。全然だめ」とレッテルを貼られる人間を分けた偉い人たちのせいで、今日までテイムの有用性は知られることがなかったのだ。ダンジョン出現から二十年間も。

 桔梗への脚光は、アカリの失われた青春を慰めてくれた。

 ランクFだって、どんどん活躍できるかもしれないじゃん!


 清々しい土曜日だ。

 今日の十四時から、東京不明迷宮ダンジョンの探索を行う予定。

 アカリは渋谷の駅をるんたったと歩く。

 今日は現地集合だ。レイは午前中には弟妹のご飯の支度とバイトがあるそうで、北加瀬は新作魔導書グリモアル締め切りが近いのだそうだ。

 もぐもぐズが発見した迷宮獣の『弱点』という概念により、今まであまり人気がなかった風や雷の属性を持つ魔導書に人気が出たそうだ。すでに何度かの試し撃ちをしているので、あとはプログラム書くだけ……と北加瀬が言っているが、「書くだけ」というのがどうやら信用できない言葉なのは、アカリにもなんとなくわかった。

「ふんふっふふーん♪」

 もぐもぐズの活動日は、毎週土曜日。

 高校生の探索は、週一回六時間までと決まっている。

 大規模なダンジョン探索部であれば、部員が曜日ごとにローテーションを組んで探索しているそうだ。まぁ、弱小ダンジョン探索部には関係がないけれど。

「あの、溝口アカリさんですか?」

「ほぇ?」

 集合時間の十三時になる前に腹ごしらえをしようと歩いていると、声をかけられた。

 よその学校の制服……聖アンジェラ学院だ。

 金髪巻毛の、見るからにお嬢様な少女だ。清楚かつ修道服っぽいセーラー服が眩しい。

「樹学院のダンジョン探索部を、また立ち上げたんですよね?」

「あ、え、はぁ」

「わたし、ニコラって言います。アカリさん、頑張ってくださいね♡」

 金髪少女はにっこりと微笑む。

 手にはスマホ。画面には見慣れたダンジョン探索チーム人気ランキングサイト『シーカーランカー』。ファンからの人気投票と、ダンジョン探索への貢献度でランキングづけが行われる。

「あ、ありがとうございます……!」

 ぺこり、と頭を下げる。

 ニコラに顔を見られないようにしながら、アカリは顔がにやけるのを止められなかった。

 にやにやにやぁ……。

 だって、そうじゃないか。

 こうやって! 街中で! チヤホヤされたかったのだ!!

 ダンジョン探索女子高生として、いよいよ溝口アカリの人生が始まってきたぜという気持ちだ。

「うふ、ありがとうございます……謙虚に頑張りますっ☆」

 内心はもうドヤドヤであり、謙虚さはゼロだ。

 でもここは、「謙虚に頑張りますっ☆」という姿勢の方が絶対的に好感度が高いはずだ。愛されキャラは正義なのである。

 去っていくニコラの背中を見送る。

 残念ながら、サインは求められなかった。

 

 バーガークイーンの大きなハンバーガーで腹ごしらえ。

 大きなハンバーガーで小顔効果を狙った自撮りを『シーカーランカー』に掲載して、いいねの数にニコニコしながらポテトを食べた。

 最近わかったことなのだけれど、身体強化をつかって動き回るダンジョン探索はものすごくいい運動になる。

 普段と同じノリでカロリー制限していたら、活動開始から二週間でうっかり五キロも痩せてしまった。もともと、健康体重より美容体重をモットーにダイエットをしてきたアカリが五キロ痩せると、痩せたというよりやつれた感が出てしまう。げっそりゲソゲソでげそ。

 これはいかんということで、探索前後にはなるべくカロリーのある食事をとるようにしているのだ。ふっくらぷくぷくのほっぺたは、美少女の証である。

「おおぅ?」

 渋谷の宇田川町方面にある東京ダンジョンに向かう途中、すっかり見慣れた美少女の姿を見つけた。

 サングラスをかけた、樹学院の制服の女の子。

 黒いおかっぱに、白い前髪。小動物じみたちょこまかした動き。

「桔梗せんぱい……?」

 小動物感が普段に増して強い気がする。

 周囲を警戒しているのだ。きょろきょろと周年の様子を伺っている。

「何してるんだろう……?」

 今や、テイマーとして有名な桔梗だから知らない人に話しかけられるのが嫌なのかもしれない。それにしても、警戒しすぎに見えるけど。

 すすす……という横滑りするような動きで、桔梗はある建物に入っていった。

 ゲーセンだ。

「んんん?」

 ゲーセン?

 ゲームセンター。桔梗のイメージからは、かけ離れている気がする。

 クレーンゲームとかするのだろうか。もふもふのぬいぐるみを抱いている桔梗は、たぶん、いや、絶対とても可愛い。

 どうしよう。あとをつけたなんて知られたら、さすがに気持ち悪がられるだろうか……アカリはそわそわとゲーセンの前を行ったり来たりした。

 でも。

「やっぱり気になる!」

 ゲームセンターに飛び込んだ。

 集合時間まであと三十分。集合場所の東京ダンジョンまでは徒歩五分だ。


 結論から言うと、クレーンゲームではなかった。シューティングゲームでもなければリズムゲームでもない。

「おりゃりゃーぁ!」

 可愛い顔で絶叫しながらプレイしているのは、レーシングゲームだった。

 ピットにちょこんと収まって、血走った目でハンドルを握っている。

 絶叫したのは一ゲーム目のラストスパートのみで、次クレーンのレースになるとものすごい集中力でスタートをきった。

 その横顔は、小動物というよりも肉食獣。

 獰猛で瞳孔が開き切った表情だ。

「……っ!」

 その横顔に、アカリは見惚れてしまった。

 真剣な瞳。

 自分とだけ向き合っている人の表情。

 誰かにチヤホヤされたいとか、褒められたいとか、そういうものを全てかなぐり捨てた顔。アカリには、できない表情だ。

 アカリは、誰よりも努力する。無茶なことだって、やる。

 けれど、それは誰かから──失踪した母だとか、あるいは、アカリを見限って家を出ていって、数年間まったく会っていない姉、葵衣だとか、あるいは捉え所のない父だとか。

 いつも、誰かから注目されてきて頑張っていた。

 桔梗は違う。誰にも見られないように、誰にも言わずに、微笑みすら浮かべながらゲームに熱中している。筐体の上にある大きなモニターに、桔梗のレコードがどんどん表示されていくのだ。

 詳しくなくても、わかる。

 桔梗は手練れのゲーマーだ。


「……ふぅ」

 何クレーンかのあと、桔梗は筐体から離れた。

 消毒液と備え付けの紙ナプキンで筐体を清めるのも忘れない。二つ並んだ同じゲームの筐体の隣で、まだゲームを続ける様子の客にペコリと頭をさげる。

 ゲーセンにやってきたときのオドオドとした様子とは違う、軽やかな足取りでゲーセンの入り口に戻ってくる。

「桔梗せんぱい」

「ひゃわわわわぁーーっ!?」

 声をかけると、桔梗は飛び上がって驚いた。いつもの小動物だ。

「ど、どどど、どうしてここに!?」

「えっと、ごめんなさい、せんぱいがゲーセン入ってくのが見えて……」

「は、はわ……」

「せんぱい。レーシングゲーム、好きなの?」

 桔梗は、こくんと頷いた。

「その……じ、じつは、お小遣いをけっこう注ぎ込んでまして……このことは内密にっ」

「ふふ、秘密が多いですね。せんぱい」

 呪術家であること、背負った学生鞄にツッチーを詰め込んでいることは、ダンジョン探索部全員の秘密だ。

「……うん、ごめんね。アカリちゃん。でも」

 でも。

 彼女がゲームセンターにそこそこのお小遣いを投入しているということは──。

「これは、二人だけの秘密だね?」

「ほ、ほわ!」

 ふたりだけの、ひみつ。

 その言葉の破壊力に、アカリは赤面した。

 やっぱりこの先輩は、可愛い。

「行こう。アカリちゃん。あの……集合時間に遅れちゃうよ」

 手を握られて、東京ダンジョンに二人で向かう。

 レーシングゲームが好き、とか。ちょっとギャップがあってグッとくる。

 でも、たしかに。

 初めて出会った多摩川ダンジョンの入り口。

 アカリの背中を物理的に押してくれた桔梗の行動力を思うと。

「……けっこう、ぶっ飛んだ勝負師ですよね。せんぱい」

「え? な、なんのこと?」

 桔梗の意外な一面が、自分だけの秘密と知って……アカリは少し嬉しくなった。


 ◆◆◆


 同ゲームセンター。

 アカリたちが去って、数分後。

「……やはりここでしたか」

 高らかな足音を響かせてやってきたのは、溝口葵衣だった。

 あるレーシングゲームの筐体の前で、彼女は立ち止まる。

「おや、特任大臣殿が渋谷のゲーセンにいらっしゃるとは」

「あなたこそ、名門高校の理事長が真昼間からレーシングゲームに長時間興じるとは……少々、はしゃぎすぎでは?」

「え、そうかな? そんなに若く見える?」

「言ってもいないことを捏造しないでいただきたいのですが」

「ふふ、冷たいね」

 迷宮省ダンジョン対策本部の特任大臣・溝口葵衣と軽口を叩いているのは、樹学院理事長の天王森紅葉その人だった。

 レーシングゲームの筐体から立ち上がり、うーんと伸びをする。

「いやぁ、しっかし全然勝てないな!」

 筐体のディスプレイには、「ききょー」というハンドルネームばかりが並んでいる。

 そう。

 桔梗と天王森はレーシングゲーム仲間だった。

 当時中学生だった桔梗と、相変わらず不良理事長だった天王森。

 渋谷のこのゲームセンターにしか置かれていないゲームを目当てにやってきた二人は、たちまち意気投合して……そして、今に至るというわけだ。

 母子ほど年齢の離れた二人だが、言葉のやり取りの間に流れる雰囲気はまさにビジネスパートナーだ。

「何の用かな? ダンジョン内でうちの生徒が失踪したの調査に進展があった?」

「違います」

「じゃあ、茜の思い出話でも?」

「いい加減にしてください」

 行方知れずの母の名前に、葵衣はわずかにポーカーフェイスを崩した。

「……じゃあ、妹くんの話かな?」

 天王森の言葉に、葵衣は小さく頷く。

「あの子をダンジョンに潜らせるつもりは、私にはありませんでした」

「アカリくんは、君の所有物じゃないだろ? 君が決められるわけないじゃないか」

 正論に、溝口葵衣は小さく舌打ちをした。


 ◆◆◆


 東京ダンジョン、第四層。

 相変わらず代わり映えのしない、安全な町状のフィールドと森で構築された階層だ。

 第五層に繋がっているのは、森の奥深くにある『神樹』と呼ばれる大木のうろだ。五層以降は危険度も跳ね上がるため、行き来は厳重に管理されている。

 各階層の出入り口には、探索者の行き来を厳重に管理するべく迷宮省の担当者が配置されているのだ。

「はーー、さっすがに飽きてくるよ」

『ぴっ』

 身体強化で加速した蹴りを、ぬいぐるみサイズの熊型迷宮獣ミュートロギアの腹に叩きつけながらアカリはぼやく。

 初めての探索から、すでに三ヶ月以上同じ作業を繰り返しているのだ。

 第四層で、迷宮獣ミュートロギアを倒しては魔力素結晶を拾い上げる。

 魔力素結晶を天王森のコネで換金しては、また次の部活に備える。

 たまに目新しい迷宮獣ミュートロギアを見つけると、桔梗がテイムしようとするというイベントが発生する。けれど、同時に二匹以上のテイムはできないようだった。

 ツッチーとの別れなど考えられないため、自動的にそのイベントはスキップということになる。

 トラックをぐるぐると回るような日々。

 未知の領域に向けてアタックを繰り返し、新しい階層への道を開く──そんなダンジョン探索の醍醐味は、高校生の部活には無縁だった。

 アカリとしては、大いに不満だ。

「まぁそう言うなって。金稼ぐのって、やっぱ退屈なもんだよ」

「ええー。せっかくのダンジョン探索なんだよ?」

「俺は、新しいことするよりはこっちのほうが落ち着く……っつーか、俺、今、徹夜で死にそうだし……」

「えええー!?」

「同じところをぐるぐる回るのは、その、結構得意かも……です」

「き、桔梗せんぱいまで……」

 完全に四面楚歌だった。

 人間というのは、思ったよりも退屈に強いようだ。

「っていうか、アカリさっきから何書いてんの?」

「あ、これ?」

 ぺらり、と紙を取り出す。

「地図だよ。第四層の」

 迷宮省が出している、東京ダンジョンの地図だ。迷宮省のポータルサイトから印刷できる。

 アカリはそこに、細々と書き込みをしている。

「赤い丸? なにそれ」

「うん、迷宮獣ミュートロギアに会ったところ、書き込みしてるんだ」

「なにそれ。楽しい?」

「うん、いや、手持ち不沙汰だったから……でも、これ見て?」

「ん?」

 アカリは、地図を示す。

 この数週間、書き入れ続けた赤丸を眺めると、奇妙なことがわかるのだ。

「ここが、神樹」

「第五層への入り口だな」

「この周辺は、どうしてだかわからないけど迷宮獣ミュートロギアは出てこない」

「ふむ、たしかに」

「で、ここ見て」

 とんとん、とアカリが指し示したのは、地図の一点だった。

「ここさ……一回も迷宮獣ミュートロギアに遭遇してないんだよ」

「え……?」

 神樹とは反対側の、森の端。

 そこには確かに一つの赤丸もなかった。

 町を中心に、その周りを取り囲むようにして茂っている森。森をただひたすら、ぐるぐるぐるぐる回っているアカリたちだが、たしかに一箇所だけまったく戦闘が起きなかった場所がある。

「ほんとだ」

「ここ、何かあったりしないかな……!」

 アカリは胸がソワソワするのを感じる。

「うーん、全部で赤丸は五十箇所かぁ。データ不足じゃないか?」

「ウチはそういうのわかんないけど、とりあえず金稼げればいいよー」

 協議の結果、とりあえずもう少しデータを集めることにした。

 まずは、赤丸のつかない場所……仮にX地点と呼ぶことにしたその場所の周りを、もっとぐるぐる回ろう。

 そこでもし迷宮獣ミュートロギアに遭遇したら、アカリの仮説はただの与太話だった。

 そして、本当に一度も迷宮獣ミュートロギアに会うことがなかったとしたら?

「まずはデータを集めよう。もしかしたら私たち、すっごい大発見しちゃうかもしれないよ!」

 アカリの言葉に、もぐもぐズの面々が頷いた。


 X地点の周囲を歩きながら、アカリはうんうん唸っていた。

「……桔梗せんぱい」

「な、に?」

「あのね……もし違ったら、ぬか喜びさせちゃうんだけどさ」

 大きく息を吸って、桔梗にむきなおる。

「ここ、迷宮獣ミュートロギアが出ないんじゃなくて……消えてるとしたら?」

 人間が知らない、下層へと続く道。

 そこに吸い込まれるように、迷宮獣ミュートロギアなり、あるいは……探索者なり。そこに、彼らが消えてしまっているとしたら?

「……っ!」

「それって」

「うん」

「それって、つまり」

 桔梗が、大きく目を見開く。

 そう。アカリは仮説を立てた。

 ──迷宮内で突如として消えた、アカリの母と、桔梗の親友。

 消えてしまった、取り戻したい人々が、その先にいるのではないかと。

 けれど、そのアカリの希望は、最悪の形で実現することになる。


 ◆◆◆


「うーん、やっぱり全然出てこないね」

 探索開始から二時間。

 X地点の周辺には、まったく迷宮獣ミュートロギアは出てこなかった。

 森の中に広がる湖のほとりに腰掛けて、アカリは「はーぁ」と大きくため息をつく。

「魔力素結晶、ぜんぜん拾えてないんだけど」

「試したいプログラム、まだあるんだけど」

「ご、ごめんって〜」

 アカリと北加瀬はやや不満そうだ。

「っていうか、これ……悪魔の証明ってやつなのでは」

 迷宮獣ミュートロギアがX地点に出現することを証明するのは簡単だ。一度だけでも遭遇できればいいのだから。

 けれど、『出会わないこと』の証明は難しい。正直言ってしまえば、実証は不可能だ。

「はー……」

 なんとなく険悪な雰囲気が流れた、そのとき。


「あれ? もしかして、樹学院の皆さんですかぁ?」


 セーラー服に金髪の少女が、アカリたちに声をかけてきた。

 見覚えがある、小さな体。

「……ニコラさん?」

 聖アンジェラ学院の制服だ。

 さっき渋谷で声をかけてきた少女たち。

 ニコラの後ろに、同じ制服を着た少女たちが並んでいた。

「あ」

 彼女たちを見て、桔梗が凍りついた。

 ニコラが蔑むような笑みを浮かべる。

「……久しぶりだね、木月野」

「え? 桔梗せんぱい?」

「ひ、さしぶり」

「うん。なんでランクEのあんたが、また探索部やってるの?」

「……」

 なるほど、とアカリが察した。

 去年までの樹学院のダンジョン探索部の主要メンバーは、他校やプロに引き抜かれたらしい。

 聖アンジェラ学院が、その引き抜き先の一つだったのだろう。

 ニコラも、そのうちの一人だったのだ。

 なんか、嫌なやつ。

 桔梗のことを知っていて、わざわざ話しかけてきたんだ。

「……あなた、梨々子がいるから部活に参加してたわけじゃん。あの子がいなくなったのに、どうして部活続けてるの?」

 才能もないくせに。

 そんな言葉が、聞こえた気がする。

 何度も何度も、アカリが言われてきた言葉だ。

「ちょっと!」

 思わず、声をあげる。

 ニコラに詰め寄って、桔梗に投げかけられるであろう最悪の言葉を防ごうとする。

「あら、ランクFさん? どうしたの」

「なっ!」

 渋谷の街でのあの笑顔が嘘のような、敵意に溢れた表情を向けられてアカリが怯んだ。

 いや。

 敵意ではない。

 これは、戸惑いと、恐れ。

「弱い奴がダンジョン探索とか、邪魔だってわからない? 迷惑なんだよ、そういうの」

「……っ!」

「梨々子だって、ランクCだった。桔梗をかばって、この湖に落ちて!」

「え? この湖に?」

 桔梗が黙り込む。

 梨々子が消えたのは、この湖だった?

「それで、浮き上がってこなかった。第三世代なのに、ダンジョン内で溺れるなんてありえないよ! 身体強化があるのにさ!」

「そ、れは……」

 ニコラが感情をあらわにする。

「ちょっと。やめなよ、ニコラ」

「黙ってて、こいつら言わないとわかんないんだよ! テイムとかいう、妙なスキルでちょっとチヤホヤされて勘違いしてるんだ!」

「やめなって!」

「きゃっ!」

「うわ、アカリ!」

 どん、と突き飛ばされる。

 身体が揺れる。

 身体強化を発動、しようとしても。

 そのときにはすでに、アカリの足が蹴れる地面は存在しなかった。

(うっわ、やばい……!)


 湖の水面が目の前に迫る。

 スローモーションで流れる風景。

 聖アンジェラ学院の少女たちのひとりが、花束を持っている。

 ああ、そうか。

 彼女たちは、諦めた・・・のだ。

 橘梨々子という少女は彼女たちの間ではすでに「死んでいる」。だから、花なんて供えにきたのだ。梨々子という少女が消えたことは、彼女たちの心を傷つけた。

 桔梗は諦めていない。

 彼女は、諦めずに……橘梨々子の帰りを待っている。

 ……背中が水面に触れる直前。


「アカリちゃん!」


 桔梗が何の迷いもなく、水面に飛び込んでこようとするのを見た。


 ◆◆◆


 沈む。沈んでいく。

 まるで、見えない力に引っ張られるように。


 ◆◆◆


 痛い。

 体の節々が、痛い。

「……ちゃん? アカリちゃん!」

「あふぁ!?」

 気絶していたようだ。

 目の前で泣きそうになっている桔梗の顔と、後頭部にあたる柔らかい感触でアカリは自分に起きたことを思い出した。

 東京ダンジョンの四層。そこにある湖に、落ちたのだ。

「って、桔梗せんぱい!」

「いたっ!」

 がばりと起きた拍子に、おでこが桔梗のおでこに衝突。アカリは再び桔梗の膝枕に撃沈した。

「だ、大丈夫?」

「大丈夫……だけど、桔梗せんぱい。無茶なことして、どうして……」

「ううん、アカリちゃんが……私のために怒ってくれたの、嬉しくて。それに、私、もう……」

「……目の前で人が消えるのは、嫌?」

「うん」

 桔梗は大変素直に頷いた。

 起き上がる。アカリは慎重に周囲を見回す。

「ここって……?」

 地底湖。

 そう形容するのがしっくり来る場所だった。

 剥き出しの岩肌に、大きな湖。地上の、少なくとも日本の湖ではありえない、乳白色を帯びたエメラルドグリーンの水が讃えられている。

 美しい、と表現するべきなのだけれど。

「……なんだか、不気味です」

「っていうか。そもそも、ここってどこなの? 東京ダンジョンで発見されている場所に、こんなのないはず!」

 迷宮省が発表している第八層までの間にこんな地底湖なんて存在しないはずだ。

 というか、これは本当に地底湖なのだろうか。

 四層という、もっとも腑抜けたイージーモードの階層にこんな抜け穴があるなんて、思ってもみなかった。

 湖を抜けると、そこは湖でしたなんて笑えない。

 体感としてはかなりの距離を落ちた……いや、湖の中へ引きずり込まれていたのに、体はどこも痛くない。それが逆に妙な感じだ。

「やばい、どうやって帰るんだろう……」

「さ、さぁ……」

 アカリと桔梗が手を取り合って、怯える気持ちを共有する。

 じっと湖面を見つめていると、ふとある考えが浮かんだ。

「……鏡みたい」

 そう、鏡だ。

 乳白色の湖面を眺めていると、まるで鏡のように思える。

 でも、どうしてこれを鏡だなんて思ったのだろう。

「鏡……? でも、何も写してないですよ、これ」

「そうなんだけど……と、とにかく、帰る道を探さなくちゃ」

 アカリと桔梗は頷きあった。

 そのとき。


『Aアァ……あAァ……』


 歌っているような、呻いているような。不気味な声と、水音が聞こえる。

「え……えっ」

『A、AAAアァ……あAァァあぁ……』

「か、影人魚!」

 不完全な人間を模した上半身と、ぬるりと長い魚のような下半身。

 乳白色とエメラルドグリーンを混ぜたような美しい地底湖から、影人魚が現れた。

 人魚と呼ぶには、あまりにも不気味なゾンビじみたその姿。

 多摩川ダンジョンで遭遇した影人魚と、そっくりだ。

「や、ばい」

 最凶最悪の迷宮獣ミュートロギア

 明確な殺意を持って探索者を殺しにかかる、迷宮の獣。

「ひ、ぃ……」

「逃げなきゃ!」

 アカリは桔梗を抱き上げる。いつぞやと同じ、お姫様抱っこだ。

「……ダッシュ!」

 迷宮に満ちる魔力素を使って、身体強化を行う。

 人間の身体が発揮できるパフォーマンスを遥かに超えた動きに、脛の骨が砕ける。膝の関節が粉砕する。

「……ぅぐっ」

 けれど、アカリは止まらない。

「か、回復!」

 同じく、アカリが使える唯一の能力である超回復を発動する。

 砕けた骨を、砕けた端から治療して──アカリは走る。

「……っ、リボンが」

 そう桔梗が声を上げたが、今は構ってはいられない。

 今のアカリが、影人魚と戦って勝てる見込みは薄かった。

『Aァアァ……ぅ。ぉう』

 影人魚の声が背後から聞こえる。

 出口があるかもわからない地底湖で、どうにか上に……上層につながっていそうな道を見つけて駆ける。


『……キ桔ぉウ』


 影人魚が、歌うように、唸るように発する言葉。

「……え?」

「り……梨々子、ちゃん?」

 たしかに、桔梗と。

 影人魚は言葉を発した。

「ち、ちがうよ! それは影人魚! 橘梨々子さんとは、違うんだって!」

 ダンジョン内で失踪した、桔梗の親友。

 もしも、この影人魚が、橘梨々子だとしたら?

 だったら、どうだというのだ。それを確かめる術もないし、もし本当にそうだったとして、橘梨々子に戻せるはずもない。

 そもそも、記録上、影人魚を倒した人間はいない。

 遭遇したらすぐに逃げろ、それが影人魚への唯一の対処法だ。

 ランクA以上の力を持つプロ探索者であっても、影人魚を倒すことはできないはずだ。

「逃げるよ、桔梗せんぱい!」

「まって、待って! アカリちゃん!」

 暴れる桔梗を押さえ込む。

 彼女の背負っているリュックがもぞもぞ動く。

『……ぴっ』

 桔梗の調伏テイムしたツッチーが、リュックから顔を出した。

 そして、しっぽを器用に使って、アカリのいく先を指さす。

「ツッチー……もしかして、道案内してくれているの?」

『ぴぃっ!』

 ツッチーが元気に鳴いて返事をしてくれる。

 アカリは、ツッチーの指し示す方向に走った。


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