第55話 雫を伝って

俺が理子から連絡を受けたのは、17時過ぎ。

この日は珍しくゲームではなく読書をして過ごしていた。


余命わずかな恋人に、ずっと寄り添い続けたある男性の話だった。


悲しい話だなとしんみりしていた時にスマホが鳴り、理子からと知った時には、どうせしょうもない内容だろうと高をくくっていた。


『柚希ちゃんがベランダから落ちて総合病院に救急搬送された。家から近いからすぐに来て』

かつてないほどに深刻にそう言われた時は、俺は自らの背筋に冷たいものが走るのを感じた上、血の気が引いていくのが手に取るようにわかった。


電話を切ってすぐあとは、ショックで呆然としていたのと、貧血か何かわからないが、頭がくらくらしてしまったので、ベッドに腰かけたまま動けずにいた。


それでも、柚希を思う気持ちが俺の体を突き動かす。

俺はスマホだけ持って、着の身着のまま、はだしでスニーカーをつっかけ、家を飛び出した。

鍵を閉めるのを忘れなかったのを自分でほめてやりたくなるくらいには、俺は意識のほとんどを柚希に集中させていた。


何度も最悪の事態が頭をよぎって、心臓が強く締め付けられる。そのたびに、足を止めようか迷った。

でも俺は、走り続ける。


靴下を履いていないせいで、両足が尋常ではないほど痛む。

きっと出血もあるだろう。

でも柚希はもっと苦しんでいるはずだ。精神面でも、体の面でも。


だから俺は、足を前に出すのをやめなかった。


駅前まで走ってきて、水族館に行った日、二人でここで待ち合わせたことを思い出す。

あの日、何かしてあげられていたら、今日の悲劇は避けられたかもしれない。


そんなことを考えると、頭の中がうるさくなって、俺のスピードは速まる。

(あぁもう!マジで頼むよ…!)


俺の怒りが誰に向けたものかは自分でも全く分からなかったが、俺は怒っていた。

自分自身に向けたものかもしれないし、運命をこうなるように仕向けた神様に向けたものかもしれない。


俺は走る。

ぽつぽつと降り出した雨には一切の意識を向けず、ただひたすらに走る。


汗なのか、雨水なのか、はたまた涙なのか。

そんなことはどうでもよかった。

柚希が生きてくれていれば───


そこまで考えて俺はやっと気が付いた。

俺自身が柚希を特別に思っているということ。

そしてその”特別”を別の言葉を用いて表すのなら、


柚希が好き


が最も適切な表現だった。


正直、びっくりした。

生まれてこの方、誰かを明確に好きになったことなんてなかった。

だから、今自分を突き動かしているこの強烈な感情が、恋によるものなのかどうかはわからない。

でも、説明にぴったりで、都合のいい言葉は、”恋”だった。


(あぁ、好きだったんだな。)


俺は納得して、すっきりした気持ちになって、俺はまた一段とスピードを上げた。


でも、病院に到着して俺が目撃したのは、変わり果てた柚希の姿だった。

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