第6話 ドクター
目を覚ました時、全身が抱える痛みがどちらの証左であるのかを考えた。
令和の日本に生きる大学生の私が、何か大きな事故にあって大好きなゲームの世界に転生したなんて夢を見ていたのか。
それともアクトレスに転生後の初任務で、強大な新種ストレンジャーに出くわして大怪我を負ったのか。
仰向けで寝かされているのはわかる。しかし白い天井を見つめていても私がどちらの私なのかさっぱりだった。首にも怪我を負ったのか、思うように動かせず視野は狭い。上方ではなく側方をうかがおうとするも、壁しか見えない。窓もない。そして顔の右半分は包帯で覆われていて暗闇だった。
ここが治療施設であるのを期待し、私の意識の回復に気づいた医療関係者が入室して何もかも説明してくれるのを待つしかあるまい、という結論になった。それまでに、混濁している記憶をなるべく整然としておくべきだろうか。
でも、うまく頭が回らない。
酸素マスクはつけられておらず、試しに何か呟いてみようと思うが、舌も上手に回らない。体中の器官という器官が正常に機能していないのだ。
目覚めからどれぐらい経ったのだろう、ぼんやりしていたらいつの間にか、部屋に自分以外の人の気配があった。一人ではない複数人だ。声がする。聴覚も低下しているのかきちんと聞き取れない。
やがて真上、私の視界に女性の顔が入り込む。
赤縁の丸眼鏡をした黒髪の、二十代前半に見える女性。色覚は無事みたい。
彼女が白衣を着ているのがわかった。医師にしては若すぎないか。まさかアンチエイジングを極めた女医? いやいや、若き天才のほうがいくらか現実的だ。
ふと、あまり嬉しくない可能性が頭に浮かぶ。もしかしてまた転生した?
一介の大学生から新米アクトレス、それから今はまた別の生き物になったみたいな。自分の身体を自由自在に動かせない現状、自分が人間かも怪しい。
「聞こえる?」
女性からの何度目かの呼びかけがようやくクリアに聞こえた。綺麗な声をしている。私は肯こうとするが首が痛くできない。「聞こえているようね」と私の表情を読み取って彼女は言う。
「うーん……声は出せないわよね。左目で返答してもらおうかしら。まばたきぐらいならできそうだから。それじゃあ、私の言っていることがわかったら、パチパチっと二回してくれる?」
私は言われたとおりに二回、左の瞼を動かした。
「うん、いけそうね。そうね……まず、ベタだけれど記憶の確認かしらね。七園風花、この名前が誰を指しているかわかる? ノーだったら三回して」
パチパチっと肯定する。
「オーケー。それじゃ、あなたはうちのシアターのアクトレスである七園風花としての記憶がきちんとある?」
私は少し悩んで肯定の合図を送る。どこまで覚えていれば「きちんと」なのか怪しかったのだ。
「既にあれから三日が経っているの。……意識を失う直前は思い出せそう?」
彼女がそう訊いた瞬間、隣にいた同じく白衣を着た誰かに肩を掴まれたのが見えた。「よしなさい」と言っているふうに聞こえる。
私の意識が途絶する前。最後の記憶。それはつまりあのストレンジャーとの対峙に遡るはずだ。
「うぁ……あ……あっ」
声にならない声が自然と発された。自分のものだと認めたくない。醜く、苦悶に満ちた音だった。
「ごめんなさいね。ふぅ……今はまだダメか。また来るわ。私から話さないといけないことがあるからね」
彼女は気後れせずに、そう言って私の視界から消えた。かと思いきや、もう一度戻ってきて言う。
「自己紹介がまだだったわね。私の名前は
再び彼女の姿が失せた。その声は甘い残響となり、私の記憶に蓋をした。
雨晴メノウとの邂逅から一週間が経過した。
私はリクライニングベッドで上半身を起こして、味気ない食事を終えた。担当してくれる若い看護師さんがテキパキと片づけてくれるのを眺める。彼女から積極的に私に声をかけてくることはない。事務的なやりとりがあるだけだ。
便宜上、看護師と形容したが厳密にはシアター近くのアクトレス専用の医療機関に駐在しているメディカルスタッフの一人だ。
何が違うかと言えば、全員がある程度はマナを行使できる。アクトレス候補生の進路の一つ、あるいはアクトレスの退路の一つと言える職務だった。
こうしたこと、とりわけ私が現在置かれている状況に関してはこの一週間で担当スタッフから少しずつ聞きだしていた。
彼女たちは私から訊こうとしない限り、余計か早計だと思しき事柄を伝えてこない。そういう方針なのだろう。ようするに私のメンタルを慮っての処置。
「ごきげんよう、七園風花さん」
担当スタッフと入れ替わりで病室に雨晴メノウが入ってきた。一週間前はわからなかったが背丈は私と変わらない。歩くと、肩がこりそうなサイズの双丘が揺れていた。不自然なほど、皺も汚れもまったくない白衣を羽織っている。
「そう、じろじろ見ないで。似合っていないなとは私も思っているわ。病棟に来る時以外、着てこないのよ? べつに誰かに強制されている格好ではないのだけれどね。一度、普段の姿できたらクレームがあったみたいで……って、そんなこと、どうでもいいわよね。もう話せそう?」
「ええ、おかげさまで」
「へぇ……おかげさまで、か」
メノウさんはベッド脇にある小さな丸椅子ではなくベッドの空いた部分に腰掛けた。上半身をよじって私に話しかけてくる。
「それじゃあ、話すべきことを話そうかしら」
とくにずれてもいないのに、眼鏡の鼻あて部分を指でクイッとする彼女だった。
「と言っても、そっちは昼食を終えたばかりかー。あんまり刺激的な話はいけないわよね。うーん、何から話したらいいかしらね」
「……私が質問してあなたがそれに答える、それでどうでしょう」
「いい考えね。そうしましょう。それなら、途中で嘔吐したって質問してきた側にも責任あるものね。なーんて」
誤魔化しても、メノウさんが冗談ではなく本気で思っているのがわかった。胡散臭い人だが、おそらくはその印象どおりの人なのだろう。
「はぁ……。一週間のうちに私が一度もフラッシュバックなしで過ごしていると思いますか?」
私がそう言うと、メノウさんはきょとんとした。そして笑いを堪えたのがわかった。嫌な人。
「あら、最初の質問にしては変わり種ね。でも、そっか。あなたはわかっているのね。他の子がどうなったのか」
「――――全員が死んだ。ある意味で私も。そうですよね?」
メノウさんは今度は笑わなかった。私のすぐ近くに座り直すと、そっとその細腕を伸ばしてその手で私の頬に軽く触れてきた。
「ねぇ、教えてくれるかしら。どんなふうに思い出すか」
その妖艶な声色は魔女を思わせた。
私は頬に触れてきた彼女の腕を掴み、そして押し返した。それは何の抵抗もなく私から離れた。私は深く息を吸って吐き、話し始める。そうする覚悟がたった今整った。
「まずあの荊が……アイラさんの片腕をはじき飛ばしたんです。いとも容易く。吹き出る血しぶきすらも今となっては現実味を帯びていなくて、真っ赤なペンキを噴射するおもちゃみたい。それから実花さんのお腹にぽっかり穴が開きました。突き刺された瞬間は見ていません。でも穴です、大穴。何が起きたのか私はわからなかったし、実花さんだってわからなかったと思います。その最期の視線は春香さんにではなくあの怪物に向けられていました。それで……やっと時が動き出したみたいに、春香さんの叫び声、たぶん撤退指示だったんでしょう、それを受けて皆が逃げ始めた。いいえ、嘘です。そんなの無理です。仲間が一瞬にして深く傷つけられたんです。ほんの数秒前に笑い合っていた仲間が。指示を出した当の春香さんが果敢に化け物に向かっていくのが見えました。時間稼ぎ。今ではそう思います。倒そうだなんて思っていなかったはずです。あれは私たちがどうにかできる領域に在る敵ではなかった」
病室の空気がひどく薄く感じる。私は深く、深く呼吸をする。「続けて」と恐ろしく優しい声がすぐ傍からする。私はそれに従った。
「千切られた腕を抑えて蹲ったアイラさんのもとへと秋奈さんが数歩進みました。私が思うに、彼女らしくない判断です。それは……彼女のすぐ隣で何が起こったのかわからず停止してしまっている冬子さん、無防備な少女を置き去りにする結果となりました。私は見ました。冬子さんの首があの荊によって刈り取られるその瞬間を。誰がどんな叫びをあげていたのか思い出しても判別できません。とにかく私もまたそこに足が釘付けされたみたいに動けませんでした。今度は太く強靭な蔓がアイラさんと秋奈さんを薙ぎ、どこかへ吹き飛ばしました。よくよく思い出せば、秋奈さんの腰から下はその場に置いていかれていた気もします」
メノウさんへと話している私から涙は流れず、声もどこか枯れていた。
一週間前の夜、意識を取り戻したあの日は眠れなかった。ちぐはぐだった記憶がしだいにつながれていき、それが鮮明なものになると私の精神を蝕んだ。この数日間で何度も何度も私は彼女たちの最期をこの目で「見た」のだった。
慣れたとは言わない。言えない。でも……その追体験を繰り返していくうちに、彼女たちの死が私にとっての現実から遠ざかっていくのを感じた。ちょうど、ゲーム画面を見ているかのように。
「春香さんをかばって小夏さんの右肩が抉られ、それから背中が縦に引き裂かれたのを見ました。いいですか、全員がアクトレスなんですよ? あの怪物どもを戦ってきた勇敢な少女たち。戦いを望まずとも戦場に送り出され、命を賭してきた子たち。戦闘時以外は平穏を享受し、どこにでもいる女の子の日常を手放したくないと願い、それを実践してきた皆さんなんですよ? そんな人たちが……手に持った《
そして当時の私は自分のロングブレイドを構えた。いや、あれを構えると言っていいかわからない。盾として自分の前に出した。ううん、それもちがう。盾じゃない。ただもう、見たくなかったんだ。動かない足。目を背けたい現実。
そんな私のほうへとあの蔓が突き出され、私を吹き飛ばした。ロングブレイドが砕かれるのがわかった。粉々に。新品の、契約したばかりのそれが。
「視界の端、蔓に絡めとられた春香さんが握りつぶされた光景を最後に、私の意識はぷっつりと途絶えました」
私は自分の首に手を当てる。そこにあったはずの制御輪は今はない。アクトレスが制御輪を外すときは何か不具合があった際のメンテナンスを除けば、引退するときだ。無論、そこには戦死も含まれる。
メノウさんはもう一度、私に手を伸ばしたが、その手は空を切ると私に触れることなく下ろされた。
「驚いたわ。まさかそこまで自分で話してくれるとは思ってもみなかったから」
その台詞とは裏腹に平然としている彼女を私は睨みつけた。
「それはあなたに……雨晴メノウ博士に洗いざらい話してもらうためですよ」
彼女が「博士」と呼ばれる立場である人間なのは担当のスタッフから聞いたことだ。専門についてその人は知らなかったが私は見当がついたのだ。
「ここまで聞いておいて、私にしたことを隠しませんよね?」
一瞬、メノウさんの口角が上がる。すぐさま彼女は私から顔を背けて、わざとらしく咳払いをするとまた私を見据えた。隠しきれていない、愉し気な雰囲気が。
「つまりどういうことかしら?」
「とぼけないでください。どんな馬鹿でもわかる……普通の人間、いいえ、アクトレスであっても、あれだけの傷を受けて、たった一週間でここまで回復するわけがない!」
マナクラスDの新人アクトレスの私が全身を強打し、多くの器官がひどく損傷したにもかかわらず、一週間でこうやって普通に食事をして話せるまで回復するなんてありえない。医師の話では来週には自分の足だけで歩けるというのだ。
「それを可能にする『処置』について私は心当たりがあります」
七園風花としてではなく前世のオトハザシリーズのプレイヤーとして推測していることがあった。
「あらあら、それは想定外。今度こそ驚いているわ。どうしてあなたが私の研究や実験を知っているのかしら。それともアクトレスの間でまことしやかに囁かれ続けてきた噂をあなたは信じているだけなのかしらね。まぁ、でも……話が早いわ。少なくともあなたが自殺するのを私がなんとか止める展開にならないのは嬉しいわ」
「それはどうでしょう?」
メノウさんの左眉がピクッとする。
「こうしてあなたに再び会って事実確認をするのを待っていたのだとしたら。あなたをこの手で八つ裂きにしてから、自害する算段をしていたら?」
私の脅迫はいっそう彼女を愉しませたみたいだった。マッドサイエンティストキャラなのだ、この雨晴メノウは。そう結論付けた。
「面白いわね、七園風花。人類の敵、そしてあなたが最も憎む奴ら……ストレンジャーの細胞移植によって死の淵から甦り、生かされているあなたがどんなアクトレスになるか楽しみだわ」
かくして私の推測は真実となった。
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