第40話 学園のマドンナは一緒にいたがる

 盆休みが明け、夏休みも残り二週間となってしまった。

 散々夏を満喫していた俺たち学生も、そろそろ新学期の始まりを意識し始め、やや憂鬱な気分が漂っている。


 外は相変わらずの快晴で、凪もなく、絶好の釣り日和。

 普段の俺ならば喜んで竿を掴み、漁港へと繰り出すはずなのだが、今日ばかりは不本意にも蒸し暑い部屋に籠っていた。


「はぁ……宿題やらないとな……」


 目の前に積み上がった課題から物言わぬプレッシャーを感じる。

 本来なら俺は毎年、コツコツと夏休みの宿題を片付けていたのだが、今年は夏休み開始早々に相沢とバイトをしたり、その後も花火大会、渡辺さんとのデートと充実した日々が続いた。


 そのせいで疲労もあってか、中々夏休みの宿題をやる気が起きず、気が付けばほとんど手つかずとなっていたわけだ。

 お盆明けという、わかりやすいラインを超えてしまった今、ここで気合をいれて片付けなければこの先が地獄になる。


 宿題から目を逸らして釣りに行ったとしても、やるべきことを終えていない時点で、頭の中に宿題がちらついてしまい、全力で楽しめなくなるに違いない。


 そんなわけで、一刻も早く、すべての課題を片付けようと朝から頑張っていたのだが……。


 ――ピコン――


 メッセージが届いた。最近やり取りをしているのは渡辺さんしかいないので、俺はいそいそと内容を確認する。


 渡辺さん:相川君。今日、お暇ありますか?


 彼女はいつもこうやって、俺に伺いを立てるように質問のメッセージを送ってくる。

 何度か学園で週末の予定を聞かれることがあったのだが、不安と期待が入り混じった上目遣いの瞳を前にして断るなどという選択肢はありえない。

 普段なら即座に「うん、暇だよ」と返事をするのだが……。


 目の前に積み上げられている課題から圧を感じる。


 良一:朝から夏休みの宿題をやってる。ちょっと、頑張らないとまずそうだ。


 心を引き裂かれるような覚悟で返事をした。

 俺だって、出来たばかりの彼女を蔑ろにしたくはないのだが、自己管理をしっかりした生活を送らなければ成績が落ちる。そうすると父親から色々制限をされてしまい、結果、自由に遊べる時間がなくなってしまうのだ。


 一時、楽な方に逃げることを良しとせず、俺は今を大事にしなければならない。

 そんなことを考えていると、メッセージが返ってきた。


 渡辺さん:宿題。一緒にやりませんか?


 続けて打ったのか、メッセージがスライドする。


 渡辺さん:私もまだ、宿題終わってませんので。


 良一:勿論! 一緒にやろう!


 俺は素早くメッセージを打つと、課題を鞄へと仕舞い、家からでるのだった。







 駅前でソワソワしながら周囲を見回す。

 時刻は昼手前となっていて、日差しが強く、立っているだけで汗が流れる。


 流石にこの状況で直接日光を浴びるのは体力の消耗が激しいので、俺も日陰へと避難していた。


 彼女の家は、駅を挟んでちょうど俺と逆側。

 俺は彼女が来る方向をずっと見続けている。少しして、渡辺さんが姿を現した。


 今日の彼女はチェック柄のワンピースをを身に着け、肩にはアイスグレーのバッグを掛けていた。

 だるそうにハンカチで汗を拭いていたサラリーマンも、ベンチで休憩をしているOLも、楽しそうに盛り上がっていた大学生たちも、炎天下の中に突如現れた天使の姿に驚き、目で追いかけていた。


「お待たせしました、相川君」


 彼女は俺の前に来ると華やかな笑顔を向けてくる。数日合わないだけでさらに綺麗になっており、見慣れているはずの俺も思わず見惚れてしまった。


「いや、大丈夫だよ。それより暑くてやばいよね」


 周囲の人間が彼女に注目している中、俺は普通に会話を始める。


「本当ですね、ここ数日は少し体調を崩してしまっていたのでまいりました」


 渡辺さんは髪を弄りながら少し顔を伏せた。


「大丈夫なの? 無理しない方がいいんじゃ?」


 夏バテを甘く見てはいけない。熱中症になって倒れでもしたらことだ。


「平気ですよ、それに……せっかく、相川君に会えたのにこのまま帰るなんて嫌ですし」


 渡辺さんの甘えるような一言に、俺は「うっ」と言葉が詰まってしまう。どうして彼女はこうも、俺が喜ぶ言葉を無自覚に放ってくるのか……。


「辛くなったら無理せずに言うこと、いい?」


「はい、わかりました」


 彼女が返事をすると、俺たちは早速移動を開始する。今日の目的地は駅ビルにある図書館、そこにあるコワーキングスペースだ。


 だが、その前に俺は言っておきたいことがあった。


「相川君?」


 図書館に向かおうとして足を止めた俺を、渡辺さんは訝しんだ目で見てくる。

 今日彼女が着ている服装も、初めて見るものだ。しっかりした彼女が待ち合わせ時間に少し遅れたということは、おそらくまた、服装のコーディネートで悩んだのだろう。


 俺は周囲を見回してから、彼女の耳に口を寄せると、


「今日の服も凄く可愛いよ」


 次の瞬間、渡辺さんがポストの様に真っ赤になった。


「あううう……」


 顔を両手で隠し、恥ずかしがる彼女を連れ、俺は図書館へと向かうのだった。










 サラサラとペンを走らせる音、カタカタとキーボードを叩く音、本のページを捲る音が聞こえる。

 あれから、図書館に到着した俺たちは、二人掛けのコワーキングスペースに並んで座ると、それぞれ残っている夏休みの課題を始めた。


 隣では、渡辺さんが課題に取り組み、サラサラとペンを走らせている。

 その集中力は凄く、一切手が止まることがないことから、問題の答えを即座に導き出し、一気に解答をしているのだと思われる。


 二人掛けの机ということもあり、横幅がそれなりに広いのだが、なぜか彼女は俺の方に身体を寄せて座っているので、彼女の身体から柑橘系の香りが漂ってきて俺の集中力を奪ってきた。

 彼女とはクラスが違うので、授業を受ける光景を見ることはできないのだが、学園でも授業中はこんな顔をしていいるのだろう。


 俺はそんな彼女の横顔に見惚れると、同じ教室で授業を受けている男子を妬ましく思った。


「どうかされましたか?」


 じっと俺が見ていたことで、彼女にも気付かれてしまう。先程までの真剣な顔はなり潜め、瞬間ふわりと柔らかい笑みを俺に向けてくる。


「この問題の答えを考えていたんだ」


 俺は問題をペンで示す。数学の問題なのだが、考えている内に複雑になってしまい、解を導き出せないでいた。


「この問題でしたら、この公式を当てはめてみてください。途中、計算で躓きやすい部分がありますので気を付けてもらえれば、しっかりと答えが出ると思います」


 渡辺さんは少し前に身を乗り出すと、俺に問題の解き方を教えてくれる。

 その教え方は解りやすく、先程まで悩んでいた疑問がするりと解けていった。


「これであってる?」


 問題を解き終え、彼女に確認をする。


「ええ、大丈夫ですよ」


 渡辺さんは、よくできましたとばかりに頷いてくれた。

 それから、しばらくの間、互いに宿題へと集中する。


 ときおり、答えが解らず詰まる部分もあるのだが、その度に渡辺さんが気付き解き方を教えてくれる。

 自身の宿題もあるだろうに、甲斐甲斐しく面倒を見てくれる彼女には感謝しかない。


「ふぅ……」


 一冊分の宿題を終わらせノートを閉じる。


「お疲れ様です、相川君」


 彼女はそんな俺を優しい目で見ていた。


「ちょっと休憩にしない?」


 耳元で囁くと、彼女は頷いた。






 コワーキングスペースを出て、一つ上の階にある休憩場に俺と渡辺さんは来ていた。

 ここは壁がガラス張りになっていて、そこから景色を見ることができる。

 電源こそないが、丸テーブルと二つの椅子のセットがそこらに設置されているので、雑談をするのに最適だ。


 俺たちは、自動販売機に向かうと、飲み物を購入することにした。


「俺は、そこの珈琲マシンで買うけど」


 勉強の合間にはカフェインが欲しくなる。自動販売機の缶コーヒーも嫌いではないが、淹れる直前に豆を挽くこちらの方が、香りが高い珈琲を飲むことができるので、ここに来た時はいつも飲んでいる。


「では、私もそうします」


 俺がそう説明をすると、二人揃ってホット珈琲を購入し、丸テーブルに移動する。


 淹れたての珈琲はまだ熱く、口に含むと苦みと酸味が舌を刺激し、勉強で疲れ意識がぼんやりしていた脳を刺激してくれる。


「それにしても、渡辺さんのお蔭で随分と捗ったよ」


 俺は彼女に御礼を言うと、今日の成果を思い返した。

 家でやっていた時に比べ、数倍は早く目標を達成してしまった。これも、問題に詰まるたびに彼女に教えてもらったからなのだが、


「俺なんかに教えてて、渡辺さんの方は大丈夫だったの?」


 途中から、彼女がペンを走らせる音が聞こえなかった気がする。宿題をやるために集まったのに、これでは俺に勉強を教えに来ただけなので、気になった。


「えっと……大丈夫。です」


 彼女は俺から目を逸らすと、気まずそうな表情を浮かべる。

 渡辺さんは嘘を付けない性格なので、それだけで何か隠しているのが解った。


 俺はじっと彼女を見つめ、目で問いつめると、諦めたのか溜息を吐き、白状してくれた。


「じ、実はですね……私、もう宿題終わってるんです」


「うん? そうなの?」


「はい、すみません」


 渡辺さんは縮こまると、申し訳なさそうな顔をしていた。


「だったら、別にこんなところまで来なくても良かったんじゃ?」


 わざわざ俺に付き合ってコワーキングで勉強する必要はないはず。なぜそのようなことをしたのか、俺は気になった。


「だって……、どうしても、相川君と一緒にいたかったんです」


「えっ?」


「相川君が夏休みの課題をやらなければならないのは理解していますけど、好きな人とできる限り一緒にいたかったんです。それで、勉強のお世話をすれば大丈夫かなと……」


 責めたつもりはないのだが、彼女は怒られた子どものようにバツが悪そうにすると、言い訳を口にする。

 そんな彼女を見ていると、俺はどうにもむずかゆい気持ちが沸き起こり、


「ふぇ? 相川君?」


 気が付けば、彼女の頭を撫でていた。


「ごめん、俺、彼氏失格かもしれない」


「そ、そんなこと……」


 俺の言葉を否定しようとする渡辺さん。


「俺も、本当はずっと渡辺さんと一緒にいたいと思ってた。だけど、勉強があるからって断ろうとした。結果、渡辺さんが気を利かせてくれたお蔭で、こうして一緒にいることもできて、勉強も捗ったんだ」


 だけど、それは渡辺さんが一緒に宿題をやろうと提案してくれたからで、そうしなかった場合、今日は家に籠ってつまらない日を過ごしていたに違いない。


「いつも、渡辺さんには優しくしてもらっているな。俺も何か返せるといいんだけど……」


 頭も良く気遣いもできる彼女に俺がしてやれることは少ない。せめて、一方的に施しを受けるだけの関係ではないようにしたいと考えていると……。


「もう、一杯返してもらってますよ」


 彼女はそう言うと優しい瞳で俺を見た。


「ああでも、そうですね。どうしてもというのなら、一つよろしいですか?」


「うん、何でも言ってよ」


 この際だ、彼女が望むのなら何でもかなえてあげるつもりだ。

 渡辺さんは俺の耳元に唇を寄せ囁いた。


「相川君が淹れてくれる珈琲が飲みたいです」


 この後、彼女を連れて家に帰ることになるのだった。

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