第38話 学園のマドンナは汗が気になる
突然だが、恋人が出来た時、皆はどのような想像をするだろうか?
放課後に一緒に帰ったり、休日に映画館やカフェに行ったり、時には遊園地で一日中遊んでみたりするのも悪くない。
実際、俺は渡辺さんと付き合い始めてから、そういう状況をシミュレートしたり、駅前のカフェをチェックしたりなどしていた。
だが「恋人が家を訪ねてくる」。これはまったく想定していなかった。
渡辺さんは純粋なので、男女の交際についての知識も浅い。俺の家を訪ねてくるとしたら、付き合ってそれなりの段階を踏んでからだと高を括っていた。
だというのに、あろうことか、彼女は無垢な表情でそれを提案してきたのだ。
そのせいで、俺は動揺してしまい、ここまで一度も平静に戻ることができないでいる。
「そ、それじゃあ、ちょっとここで待っていてよ」
電車に揺られること二時間、地元の駅からバスで15分。とうとう俺の家に到着してしまった。
「わかりました」
俺の家へと入った渡辺さんは、やや緊張した様子でリビングのソファーの端にちょこんと腰を下ろす。
彼女は、キョロキョロを顔を動かすと「わぁー」と柔らかい表情を浮かべた。
「ここが、相川君の家なんですね」
そんな彼女を見ているだけでドキドキする。自分の家に恋人と二人きり。そんなシチュエーションに緊張しないわけがない。
「特に珍しいものがあるわけでもないと思うけどね」
感動したような声を出す渡辺さんから視線を切りキッチンへと向かう。
俺は冷蔵庫から麦茶を取り出しコップに注いだ。
「ちょっと、これ飲んで待っててね」
「ありがとうございます。冷たくて気持ちいい」
コップを頬に当て、気持ちよさそうな声を上げる渡辺さんを尻目に、風呂場へ向かい、バスタオルを持って戻る。
「渡辺さん、良かったらこれで汗を拭くといいよ。クーラーが効くまでもう少しかかるから」
炎天下の中帰ってきたので、俺も渡辺さんも汗を掻いている。そのままの状態では気持ち悪いかと思ったのだが……。
「あっ……相川君、あまり近付かないでいただけませんか?」
彼女は俺の言葉に反応すると、恥ずかしそうにしながら距離を取った。
もしかして、いまごろ俺への警戒心が浮かんでしまったのだろうか?
確かに、そういった妄想が浮かばなかったかというと嘘になるが、俺は渡辺さんを大切にしたいと思っている。決して手を出すつもりはなかった。
少し、傷つきそれが表情に出てしまう。
「あっ、そうではなくてですね……その……私、汗臭いのではないかと……思いまして……」
彼女は下を向くと、恥ずかしそうにそう告げる。
あれだけ暑かったのだから、確かに汗は掻いているが、彼女から漂ってくるのはフローラルの香り。決してそのようなことはない。
だが、俺が素直に告げても、これは本人の問題なので納得してくれるかわからない。
「気になるようなら、一応、制汗スプレーもあるけど……」
なので、俺は別な提案をした。
「貸してください!」
食い気味に言葉を被せてくる。俺はスポーツバックから普段使っている制汗スプレーを取り出すと、渡辺さんに渡した。
彼女は部屋の隅に行くと制汗スプレーとバスタオルを持ちながら俺をじっと見る。
「ごめん、見られていたら使い辛いよね」
汗の始末もあるのだろう、ここは席を外すべきだ。
「着替えてくるから、終わったら呼んでもらっていいかな?」
そう言うと、そそくさとリビングを後にした。
「ありがとうございます、スッキリしました」
それから十分後、メッセージで「もう大丈夫です」と連絡をもらったのでリビングへと戻る。
仄かにフローラルの香りが漂う中、俺は渡辺さんからタオルを受け取る。
彼女の汗で湿っており、先程まで彼女がこの部屋で汗を拭いている姿を想像してしまった。
「相川君?」
俺が固まっていると、渡辺さんは首を傾げ無垢な瞳を向けてきた。
俺は彼女から目を逸らすと、慌ててタオルを洗濯槽へと放り込んで戻る。
「な、何でもないよ」
「そう……ですか?」
挙動不審な態度をとってしまったが、彼女は首を傾げながらもそれ以上追求しないでくれた。それはそれで複雑な気分なのだが、いつまでもこうしていても仕方ない。
彼女がここに来た目的を進めてしまおう。
「とりあえず、俺は早速料理を始めようと思うけど」
「はい、おねがいします」
彼女は両手を前で合わせると、楽しそうにそう言った。
そもそも、渡辺さんが俺の家に来たいと言った理由は、釣った魚を食べてみたいという願望からだったりする。
最初に釣りをした時も、前回も、彼女は自分が釣った魚を口にしたことがない。かといって、家に持ち帰ることもできないので、食べるためには家にくるしかなかったのだ。
「今日は私もお魚さんを捌いてみたいので、指導お願いします」
彼女はそう言うと、バッグから髪留めを取り出し、邪魔にならないように亜麻色の髪を纏める。口元に髪留めを加える仕草が妙に色っぽく感じ、俺は目が離せなかった。
「それじゃあ、このエプロンを使ってくれる?」
俺は部屋に戻るついでに取ってきた、新品のエプロンを彼女に渡した。
「ありがとうございます」
渡辺さんは、いそいそとエプロンを身に着けるとキッチンへと入ってきた。
横に立つ彼女を見る。髪を纏め、エプロンを付けた恋人が隣にいるという異常事態に胸が高鳴り、目が離せなくなる。
彼女は流しで手を洗っているのだが、ハンドソープを付け丁寧に指先までゆっくりと洗う姿が上品で、ずっと見ていても飽きることはなかった。
「ん、どうかされましたか?」
「いや、エプロン似合うなと思って」
女性がエプロンを身に着けると家庭的な雰囲気が漂うが、それが渡辺さんともなると別次元。これがフリル付きのエプロンなら完全に新妻状態なので、なぜ俺は新品のエプロンにそれを用意しなかったのかと悔やんでしまった。
「あ、あまり……見られると恥ずかしい。です」
そんな想いが伝わったのか、彼女は口元を隠すと目を逸らしてしまった。
間近で見る彼女の耳がほんのりと赤く染まっている。
「そ、それじゃあ、料理をしようか」
ついつい、余計な思考にそれてしまうが、料理を始めることにする。
家の台所はそれなりに広いので、二人くらいなら並んで料理をすることができる。
俺はまず、クーラーボックスに入っていたシロギスを取り出す。海水と氷を使った氷水で締めているので既に動くことはない。
「まずは包丁の背でウロコを取ってもらおうかな」
「は、はい」
一度手本を見せると、彼女は真剣な様子で作業を始める。まな板の上で「シャッシャッ」と音を立て、一生懸命シロギスのウロコを取り払う姿にほっこりする。
「次はここに包丁を入れて、頭を落とす。お腹を捌いて内臓と血合いを取り出してから三枚に下すんだ」
「わ、わかりました!」
今度の作業は中々包丁を入れることができずにいる。それでもどうにかシロギスのエラヒレに包丁を当てるのだが……。
「ほ、骨があります!」
泣きそうな顔をして俺に助けを求めてきた。初めて魚を捌くのなら、こういう時躊躇ってしまうのは仕方ない。
「大丈夫だから、下手に力を抜くと怪我するからね」
俺は彼女の後ろから手をそえると、一緒にシロギスを捌いて行く。まずはやり方を頭に叩き込むことからすべきだろう。
「はわわわ」
目をグルグルさせながらも、俺の指示を聞きシロギスを捌き終える。
「うん、だいたいこんなもんかな?」
釣ってきたシロギスの内20匹程を使い、刺身を作った。皿にはシロギスの薄造りが綺麗に並べられている。
「あ、ああああ、あの……相川君?」
「ん?」
「ち、近いですっ!」
彼女の指摘で、俺は渡辺さんと密着していることに気付いた。包丁を扱う指導をするということで、手元を見るために近付きすぎていたようだ。
「ご、ごめんっ! つい、夢中になって!」
俺は彼女から手を離すと距離を取った。
「いえ……その、指導をお願いしたのは私ですし、非常にわかりやすかったですから、大丈夫です」
「そう?」
彼女がそう言うのなら良いのだが、耳を赤くしているので本当に大丈夫なのか心配になる。
「それじゃあ、次はてんぷら用の捌き方だけど――」
「はい、お願いします」
俺は続いて渡辺さんに背開きの仕方を指導する。
この後、俺たちは残ったキスをすべて捌くとてんぷらを揚げるのだった。
「それじゃあ、今日はお疲れさまでした」
「お疲れ様でした」
麦茶が入ったグラスを重ね、乾杯をする。
食卓にはキスの刺身とキスのてんぷらが並べられ白米と味噌汁がよそってある。
「まずは渡辺さんからどうぞ」
俺は最初に食べる権利を彼女に譲ると、彼女が食べるのを見守ることにした。
「では、御言葉に甘えさせていただきます」
刺身を箸でつまみ、ワサビを乗せ、醤油にちょんちょんと付ける。そしてそれを口に運びゆっくりと味わった。
「んーーー」
彼女は頬に手を当てると蕩けたような表情を浮かべた。
「どう?」
「臭みがまったくなくて、柔らかくて淡白な中にも豊かな味わいが広がっていて美味しいです!」
渡辺さんは感動したまま俺に味の感想を告げてくる。
「自分で釣った分、より美味しく感じるでしょう?」
「ええっ! 本当に美味しくて、こんなの初めてです」
目をキラキラと輝かせながら料理を称賛していく。自分で釣って自分で捌くところまでやったのだ、美味しくないわけがない。
「てんぷらも食べてみてよ。この時期のシロギスは良型が多いから、食べ応えがあるんだ」
「はい!」
渡辺さんは夢中で箸を伸ばすとキスのてんぷらを掴む。そして用意しておいた、大根おろしを溶かしたつゆにつけて口元へと運ぶ。
サクッと音が聞こえ、彼女はキスのてんぷらを食べる。その表情を見れば彼女がどう思っているのか読むのは簡単だった。
「ほくほくしていてやわらかくて、凄く美味しいです」
「それは良かった」
こうして、渡辺さんが魚の魅力を知ってくれるだけで満足してしまう。彼女が幸せそうに食事をする姿を見ていると……。
「相川君、食べてないじゃないですか」
「ああ、うん」
渡辺さんから指摘が入った。そろそろ俺も食べようかと考えていると、何を思ったのか渡辺さんが刺身を取り、醤油に付けると、
「相川君、あーん」
俺に食べさせようとしてきた。
「渡辺さん?」
「いつまでも食べないからです。せっかくの美味しい料理が冷めてしまいますよ?」
彼女は小言を言うと、さらに箸を突き出してくる。どうやら引き下がってくれるつもりはないようだ……。
「あーん」
顔から火が出そうになる。確かに俺たちは恋人同士になったのだが、こういう行為をするのは早すぎるのではないか?
「どうですか、美味しいですか?」
「うん、美味しいよ」
正直、頭が沸騰しそうになっていて味がわからない。
「良かったです。私が釣ったキスを相川君にも食べて欲しかったので」
なんとも可愛らしい理由だった。だけど、流石にこのままやられっぱなしではいけない。
「そう言うことなら……渡辺さん、あーん」
このシロギスの半分は俺が釣った分だ。俺も彼女に食べさせる権利はある。
「えっ! ええっ!」
「ほら、早く食べないと味が落ちちゃうよ?」
「ううぅ……はむっ!」
まさか反撃が来るとは想像もしていなかったのだろう。彼女は顔を真っ赤にすると俺が差し出した刺身を食べ、睨んで来た。
「もう、意地悪なんですから」
「そんなことはない。俺も渡辺さんに自分が釣ったキスを食べて欲しかったからだし」
お互いに目が合い、自分たちがしていたことに対し恥ずかしさを覚え顔を赤くする。
「これからは普通に食べましょう」
「そ、そうだな……」
結局、二人揃ってダメージを受けてしまった俺たちは、この後普通に食事をするのだった。
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