第22話 沢口さんは釣りを楽しむ

 昨日、黒鯛を釣った堤防に俺たちはきていた。


 夕マズメという、魚が餌を食べに回遊してくる時間にはまだ早いせいか、他に釣り人はおらず、俺たちは余裕でよい釣り場を抑えることができた。


「皆が食べきれないくらい一杯釣ろうね!」


 沢口さんはジェスチャーで釣りをする動きをしてみせる。実際、ここの海は餌が豊富なのか、昨日も他の釣り人がバンバン魚を釣りあげていたので可能だろう。


「それじゃあ、まずはライフジャケットを身に着けて」


 俺は、オーナーから借りてきた竿に仕掛けをつけながら沢口さんに指示をする。


「えっ、ここも海水浴場みたいなもんじゃん? 必要ないでしょ?」


 彼女はそう言うと首を傾げた。

 確かに、遠くを見ると相沢たちが泳いでいる海水浴場も見えるし、堤防から落ちても浜辺まではそれほど遠くはない。


 だが、ここから海面まではそれなりに高さがあるし、海底には海藻も生えているのだ。


「勿論、泳いで戻れると思うけど、服を着た状態だと水を吸うから。いざという時に力尽きて溺れる可能性もあるからさ」


「うっ……そうなんだ?」


 俺の説明に、沢口さんは笑顔を消して頷く。脅かすつもりはないのだが、突然水の中に落ちてパニックになることもあるので、ライフジャケットは極力身に着けた方が良い。

 沢口さんは素直に腰にライフジャケットを身に着けると、


「なんか、本当に効果あるのかな? って不安になる形してるね」


 腰回りを気にしてクルクルと動きまわる。

 このような小さなもので身を守れるのか? そんな疑問を持っているようだ。


「それ、水に触れると膨らむようになってるから。余程……じゃなければ大丈夫だよ」


 女の子に対して体重の話をするのはデリケートなので避けておく。

 磯場とかだと引っかけてしまい穴があくこともあるが、堤防なら変に飛び出た岩もないので平気だろう。


「とりあえず準備ができたから、これで釣りをしてもらえる?」


 俺は沢口さんに仕掛けをセットした竿を渡す。


「ありがと、相川っちって何気にできる男子だよね」


 そんな誉め言葉を言いながら、沢口さんは興味深そうに竿を見つめゆらゆらと仕掛けを動かす。


「このくらいは釣りをする人なら誰でもできるようになるよ」


 実際、渡辺さんならもう、自分で仕掛けまで作ることができるだろう。


「このカゴに餌を詰めてゆっくりと海に沈めて行く。それでたまにこうやってしゃくって餌を出すんだ」


 俺は自分の竿で実際の動きをやってみせる。


「それだけでいいの?」


 沢口さんは、俺のやり方を聞き終えると目を丸くした。そんな単純なやり方で釣れるのか疑っている様子だ。

 この釣り方は渡辺さんにもやってもらっているし、初心者でも上級者でも釣果にそれ程差が出ない。


 魚がいない状況であればまったく釣れないが、逆に言えば魚が回って来ていれば確実に釣ることができる。

 そして、もうすぐ夕方になるので、今のうちから海中に餌を撒いておけば、遅くない内に成果がでるだろう。


 俺がその辺の事情を搔い摘んで説明すると、


「ふーん、そうなんだ。ところで、何が釣れるの?」


 沢口さんは難しくて理解できないかのような顔を浮かべる。


「……サバとかアジかな?」


 釣り初心者にするような話ではなかったのだと気付く。

 なまじ渡辺さんがきちんと聞いてくれただけに知識を披露してしまったが、初めて釣りをする側にしてみれば釣れるかどうかだけ説明すればよかった。


「アジかー。私、アジフライ食べたいなっ! この前の相川っちの弁当美味しそうだったよねー」


 中庭で遭遇した時の話をしているのだろう。沢口さんは口元を緩めると当時のことを思い出していた。


「あれ? 油物は食べられないんじゃなかったっけ?」


 あの時、渡辺さんに揚げ物を食べてもらおうと思ったのだが、石川さんと沢口さんが断ってしまったため、渡辺さんも食べると言い出せずに他の男どもに食べられてしまったのだ。


「それはお昼ご飯の話だよ。それに、今日はバイトで働いたし、一杯運動もしたから食べても問題ないし!」


 その違いが良くわからないのだが、本人がそう言うのなら構わないだろう。俺は深く追求することをやめた。


「ところで、相川っちは何を釣るの? それ、私のと何か違うよね?」


 沢口さんは竿の先についている仕掛けが違うことを指摘する。


「ああ、ここの海は慣れてないから釣れる魚を絞ることもできないし、同じ魚種ばかりだと料理の種類も増えないからね、他を釣ろうかと思って」


「おおっ! プロっぽい!」


 初めての海なので、思いがけない大物に出会えるかもしれない。確実に釣れる仕掛けを沢口さんに渡して釣りを楽しんでもらいつつ、俺は少し特殊な生き物を釣る仕掛けを用意した。


「これって……エビの偽物?」


「餌木(エギ)っていってね、これでアオリイカを釣ってみようと思ってるんだ」


「こんなのでイカが釣れちゃうの!?」


 沢口さんは驚くとまじまじと餌木を凝視した。


 見た目からしてカラフルで、作り物めいた形をしている。実際にこの仕掛けでイカが釣れるのは間違いない。


「堤防のところどころに黒い染みが見えるでしょ?」


「あっ、本当だ。あるっ!」


「これはイカを釣れている証拠で、墨が地面を汚しているんだよ」


 釣り上げたイカは墨を吐くので、地面が黒く汚れているのは近日中に誰かがイカを釣った証拠になる。

 イカを釣る時は、あらかじめ汚れても良い格好をする必要があったりするのだが、今回は用意していないので、海面で墨を吐きださせてから釣り上げることにする。


 新鮮なアオリイカの美味さはまた格別なので、俺は釣れるといいなと考え仕掛けを投げた。


 しばらくの間、沢口さんの隣に立ちながら竿を動かしイカが食いつかないか誘いを入れていると……。


「わっ! 竿が『ブルルルン』って揺れたっ!」


「魚が食いついているから! 竿を立てて、リールを巻き上げて!」


「わわっ! ぶるぶる震えてるよっ! こんのー!」


 慌てながらも嬉しそうな表情を浮かべ、沢口さんはリールを回し続ける。


「やたっ! 何かついてるよっ!」


「かなり良いサイズのアジだな。尺はありそうだ」


 沢口さんが釣り上げたのは両型のアジだった。竿を持ち上げているので仕掛けにぶら下がり、ビチビチと跳ねている。


「尺って?」


 糸を持ちながら、沢口さんは首を傾げ聞いてくる。


「尺というのは、30センチ以上のアジのことを指すんだよ。このサイズは刺身にしても良いし、特大のアジフライを作ることができるよ」


「へぇ、そうなんだ。えへへへ、特大のアジフライちゃん」


 沢口さんはアジに話し掛けると頬を緩めてみせた。


「とりあえず、仕掛けから外そうか」


「あっ、その前に写真撮ってもらえない?」


 俺がフィッシュグリップで魚を掴もうとすると、沢口さんがそんな頼みをしてきた。


「えっと、スマホは……?」


「宿で充電中だから、相川っちのでお願い!」


 俺は沢口さんの言葉に従い写真を撮った。


「どう、こんな感じで?」


 スマホを彼女に向け画面を拡大してみせる。


「うん、まあ、カメラマンの腕はイマイチだけど、モデルがいいからよく撮れてるね」


「……さて、消そうかな?」


「ああん、うそうそ!」


 俺が白けた様子を見せると、沢口さんは慌てて謝ってきた。


「私が初めて釣った魚かぁ。なんだか、家に持って帰って飼いたくなっちゃうね」


 わかる。俺も初めて魚を釣った時は同じことを考えた。

 結局、魚は母親に料理されてしまったのだが、あの時の味は忘れられない思い出だ。


「アジは回遊魚だからな、水槽で飼っても壁に激突して傷ついて死ぬ可能性もあるし、海水の濃度も一定に保つのは難しいから厳しいと思うよ」


「そかー、残念」


 沢口さんはそう言うと、残念そうな顔をした。


「はやく針を外してやらないと弱っちゃうから外すね」


 フィッシュグリップでアジを掴み、口に引っかけている針を外し、海水が入ったバケツにいれてやる。

 このサイズなら血抜きをして締めた方が良いのだが、沢口さんの目の前でそこまでするのはやめておいた。


「今釣れたということは時合いが回ってきたかもしれない」


「時合いって?」


「潮が満ち始めて魚が回遊してきたってことだよ。つまり今が釣れるタイミング」


「そうなんだ!? じゃあ、もっとがんばろ!」


 そう言うと沢口さんは釣りに戻る。俺は彼女の様子を見ながら自身も釣りを続ける。

 沢口さんは好調で、餌をカゴに入れて落としては次々とアジを釣りあげていく。


「相川っち! 違う魚がくっついてるよ!」


「絶対に触らないようにして!」


 中には毒魚もいるので、俺は仕掛けを置くと慌てて彼女の下へと走った。


「これは何て魚?」


「これは、サバだよ」


「へぇ、これがサバなんだ? 普段塩焼きとか食卓に出てくるけどこんな顔してるんだね?」


 魚を釣ったことがない人間はそのような反応をする。


「これも刺身にできるの?」


「いや、サバはアニサキスという寄生虫がいるから、安全を考えるなら火を通した方がいい」


「そっか、でもまあ。美味しく食べられるならどっちでもいっか」


 そんな気楽な受け答えをする。


「これは早めに締めてやった方が鮮度が落ちないんだけど……」


「うん?」


「この場で首を折って殺さないといけないんだよ」


 流石に、女の子の前でするのははばかられるので聞いてみる。


「ありゃ、仕方ないよね。ごめんねサバ、恨むなら釣った私じゃなくて捻り殺した相川っちを恨むんだよ?」


「……逃がしてあげようか?」


「わー、タンマタンマ!」


 だんだんと、沢口さんとのコミュニケーション方法がわかってきた。ビーチバレーに釣りと、行動をともにしてきたので段々慣れてきた。


 彼女の許可も得たので、サバ折りをしてバケツにいれて血抜きをしておく。

 俺は放置していた自分の竿を持ち上げると、


「あれ?」


「ん、どうしたん?」


「いや、根がかりしたかな……ん? 何かついてるぽいぞ……」


 先程までと違う、確かな重さが竿先から伝わってくる。俺は仕掛けを巻き取り正体をはっきりさせる。


「凄い! 何か絡みついてる!」


 そこには良型のアオリイカがついていた。



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