エピローグ

 強制収容所に囚われていたドワーフたちを引き連れてイシュラーバードに戻ったノアは、ウルタンとの約束を果たした。

 その夜、〈夢の国〉亭は大勢のドワーフで犇めいた。何年かぶりに家族と再会したドワーフたちに囲まれて、ノアとクリスピン、ローゼンヴァッフェ、ハーマンはひっきりなしに彼らからの賛辞と感謝を浴びた。クロエはいなかった。彼女はハイリガーレイヒャーを倒したのち、ワイバーンを呼び寄せるとそれに乗って飛び去った。北の空へ。ノアになにも告げぬまま。

 人々は夜を通して酒を酌み交わし、歌い、語らい合った。祝宴が御開になったのは、朝になって空が白みはじめたころである。

 〈夢の国〉亭のホールでは、ドワーフがほうぼうで酔い潰れている。静かななか、椅子やテーブルといわず、床にまで倒れ込んで重なりあう者らがいた。いまそこは、充満したエール酒の匂いだけで酔っ払いそうだ。

 亭の二階へとつづく階段から、踏み板の軋む音が聞こえた。誰かが降りてくる。

 テーブルに突っ伏して眠りこけていたローゼンヴァッフェは、足音でふと目覚めた。顔をあげると、ノアが階段の降り口にいた。彼は雑嚢を手にして外套をはおり、ブリスカヴィカを身体にくくりつけ背負っていた。


「こんな時間から、どこへゆく気だ」


 問うたが、ノアは答えなかった。


「まあ、予想はつくが……」


 ローゼンヴァッフェは手近にあった杯を取ると、そこから誰かの飲み残しのエール酒をすすった。ノアはなにも言わずに、ホールを横切って出入口から外に出た。ローゼンヴァッフェがそれを追おうと立ちあがる。足元がおぼつかずふらついたが、彼はあやうく持ちこたえた。

 亭の外ではノアが路傍に佇んで待っていた。ローゼンヴァッフェは出入口の戸枠に寄りかかり、はっきりしない頭をどうにかしようと、額を掌で何度か叩いた。


「オーリアへは戻らないのか」

「おれはあそこでは歓迎されない」


 とノア。


「そんなはずない。帝国の陰謀を防いだ功労者だぞ。褒美ももらえるかもしれん」

「最初のうちだけだ。いずれ、またつまらん仕事をやらされるに決まってる。もう誰かに指図されるのは、まっぴらなんだ」


 言い捨てて、ノアが歩き出した。ローゼンヴァッフェは足早に彼についてゆくと、横に並んだ。

 しばらくふたりは黙ったまま歩いた。外は冷えて寒かった。朝靄であたりが煙っている。早朝の路上に彼ら以外の人の姿はない。

 ふいにノアがちらりとローゼンヴァッフェのほうを向いて、


「あんたはどうするんだ」

「おれはオーリアへゆく。クリスピンたちといっしょにな。これだけオーリアのために尽力したんだ、相応の報酬を要求するつもりだ」

「カネか?」

「オーリアには魔術院がある。そこへ取り立ててもらうつもりだ。クリスピンも口添えをしてくれると言っているしな」

「そいつはいい」


 まるで感情のこもってない口調だったが、ノアにしてみればいつものことだ。


「なあ、考え直せ」

「もう十分に考えたよ」


 ノアの頑固さに苛立ち、ローゼンヴァッフェは舌を鳴らした。


「女々しい奴め。あの黒頭巾の女を捜すつもりなんだろう」

「そうだ」

「こいつ、ぬけぬけと」


 なにを言ってもむだのようである。だが確実に手に入るものを拒み、惚れた女を追うか。悪くない。ノア・デイモンという常に捨て鉢で、なにを考えているのかわからない男の、人間的な部分が見れた気がして、ローゼンヴァッフェは少しだけうれしくなった。

 となれば、別れだけはきちんとしておきたかった。ローゼンヴァッフェは足を止めて、ひとつ深呼吸をした。


「せっかく縁ができたんだ。いつか、もし魔術師の手が必要になったときには、オーリアにいるおれを頼るがいい」

「ああ。そうしよう」


 ローゼンヴァッフェが手を差し出した。ノアはそれを握った。

 イシュラーバードの北側の門を出て、セイラム回廊へ。ノアがそれからどこへ向かうのか、ローゼンヴァッフェにはわからない。路上で佇立し、彼はノアの背を見送った。たった数日のあいだだけ、ともに過ごした仲だったが、言いようのない寂寥感が胸に募った。置き去りにされた子供みたいな気分だ。

 急に陽が照りはじめた。朝靄で拡散した光があたりに満ちる。ローゼンヴァッフェはまぶしさに目を細めた。まばゆい光のなかへノアが消えてゆく。おまえはいったい、どこへゆくのだ。ローゼンヴァッフェは自分の運命を変えた男の前途を、考えずにはおられなかった。

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Dead Man's Switch 天川降雪 @takapp210130

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