イシュラーバードに朝が

 イシュラーバードに朝が訪れた。

 窯に火が入れられ、随所で炊事の煙が立ちのぼり、日常の営みがはじまった。

 街の北側にあるイシュラーバード総督府の火事は、陽が昇ったころにようやく鎮火した。朝になっても人だかりができていたが、時間がたつにつれてまばらとなり、やがて暇を持て余す老人や子供たちの興味を引くのみとなった。昨夜、火山のほうで噴火らしきオレンジ色の光を目撃した者は、街に何人もいた。しかしあそこはマグナスレーベン帝国の租借地であるがゆえ、確かめにゆくことは誰もしなかった。イシュラーバードに多く住むドワーフたちは、人間のやることに関心がないのだ。

 その日の明け方、オーリア大使館ではカントーニが本国オーリアへ向けて軍鳩を放った。鳩は数百キロの距離を半日もかけずに飛びきり、昼にはラクスフェルドへとたどり着いた。ブルーモス要塞の鳩小屋で、飼育係によって信書管から抜き取られた知らせ――今回のイシュラーバードで起きた事柄の顛末――は、オーリア軍司令部の情報本部に回され、そこで清書された。いくつかの報告書が各方面へ配られて、ひとつは国王騎士団のグリム団長の元にも届いた。さっそくグリムは登城し、マントバーンへ目通りを願った。緊急を要する用件だとして。

 マントバーンはそのとき、市街から服飾品の業者を呼びつけ、持ち込まれた膨大な衣装のなかから妻の好みを探し出す手伝いをさせられていた。小姓がグリムの参上を告げると、彼はつまらない作業から解放されてほっとした。

 広間の次室でグリムが待っていた。報告書を受け取り目を通すと、すぐにマントバーンは高らかに声をあげて笑いはじめた。

 グリムは哄笑する主君が落ち着くのを辛抱強く待った。そうして、


「デイモンの処遇はいかがなさいますか」

「功労を無下にはせん。――そうだな、勲章のひとつでもくれてやるか」


 ほくそ笑むマントバーンが言った。


「あやつは難物ですぞ。素直に受け取るかどうか」

「だが見過ごすには、あまりに大きな功績だ」

「図に乗ります。なにより、いちど楯突いた者を称えては、ほかの騎士に示しがつきませぬ」

「手厳しいな」


 マントバーンは上機嫌だ。彼は小姓に酒を持ってくるよう命じてから、


「おまえの部下として手に余るのなら、正式に調査室の人員とすればよい」

「陛下の側仕えとして取り立てるので?」


 グリムの表情はあからさまに曇った。


「よいではないか。そのほうが御しやすいというものだ」


 それからふたりは場所を移した。城を抜け出し、山の手にある行政区画へと向かった。目指したのは、まだ新しい大きな石造りの建物。まるで神殿かとも思えるそこは魔術院の庁舎である。王の訪問はすでに通達されており、宮廷魔術師のゴールデントゥイッグが出迎えに姿を見せた。


「陛下におかれましては、ご機嫌うるわしゅう」


 そう言って頭を垂れるゴールデントゥイッグに、マントバーンは手を挙げて応えた。


「イシュラーバードから届いたものを、まだ見ていなかったな。どこにある?」


 ゴールデントゥイッグはマントバーンとグリムを庁舎の地下へ案内した。地階にはオーリア王国が擁する魔術師たちの研究室や、魔術用具の貯蔵庫がある。そこの一室の鍵が開けられた。手狭な小部屋だったが金属製の扉と鍵とで、やけに厳重に管理されている。なかには鉛で作った丸い桶のような容器が、ひとつだけひっそりと置かれていた。桶はひと抱えほどの大きさだ。

 ゴールデントゥイッグの側近の魔術師が、鉛の容器の蓋についた貫抜棒を外した。蓋が取り去られると、内に入っていたのは黄色い粉末である。それが容量の半分ほどを満たしている。

 マントバーンが桶に近づき、腰を屈めた。するとゴールデントゥイッグは彼の前に手を差しのべて、


「お気をつけください。これは毒です。触れたりなさらぬよう」


 マントバーンは足下の黄色い粉末をまじまじと見つめた。


「不思議なものだな。目には見えぬエーテルが、このような代物になるとは」

「圧力と高温で処理すると、物質化するのです」

「わが国でも同じものが作れるのか」

「無理でしょう。正しい製法のほかに、大がかりな設備が必要となります」

「ではエーテル炉は?」

「そちらも難しいかと」


 ゴールデントゥイッグの慇懃無礼な物言いに、マントバーンは苛立ちの表情を見せた。


「ならば、これはなんの役に立つのだ」

「ただいま研究中でございます。現時点では、この濃化エーテルを触媒とすれば、さまざまな呪文の効果を何十倍にもすることが確認されています。もちろん、いずれ当方でもエーテル炉が製造可能となれば、その燃料になります」


 ともすれば将来性があるもののようだった。しかし少なくはない予算を割き、非合法の手段で入手した濃化エーテルに、マントバーンは肩すかしを食らったようだ。

 城へ帰る途中、箱馬車でマントバーンは物思いに耽った。グリムは主君の一顰一笑にことのほか敏感である。居心地の悪い沈黙を破ろうと、彼は深く考えぬままに口を開いた。


「いやしかし、今回はわれらの勝ちでしたな。帝国の目論見をひとつ潰したのです。北の果ての連中も、こちらを見くびったことを悔いておるでしょう」


 呑気なグリムを、マントバーンはぎろりと睨んだ。


「そのせいで、つぎはもっと悪辣な手を打ってくるやもしれん。帝国は強大だ。あれと渡り合うには、国の地盤をより強固にせねばなるまい」

「さ、さようですな。となれば、オーリア南方の沈静化を推し進めなければ」


 いまさら気づいたように、グリムがさも深刻な顔で言う。


「その南方の件、モローが鍵となるやもしれん」

「モロー? あの枢機卿の?」


 モローはマントバーンが先代の神官王を誅して王国を乗っ取る際、手を組んだ聖職者である。オーリア正教会の金庫番だった彼は、いまやマントバーンの計らいで枢機卿の地位に就いている。最高位である神官王の座は空席のままなので、事実上はモローがいまの正教会を牛耳っていた。


「そうだ。彼奴め、最近はいっそうオーリア正教会の復権に腐心しておるらしい」

「失墜したオーリア正教会になにができましょうぞ」


 グリムは鼻で笑った。


「だからあせっておるのだろう。ユエニ神聖騎士修道会の設立を認めよと、矢の催促だ」


 王領地ラクスフェルドのある北方と異なり、南方ではいまだオーリア正教会の信奉者が多い。それは揺るぎのない事実だった。旧神隷騎士団が国王騎士団に取って代わった現在、オーリア正教会は武装を禁じられている。たしかに正教会が働きかければ、南方のいざこざは鎮めることができるかもしれない。だがそれと引き換えに、かつての神聖王国の残党ともいえる正教会へ武力を与えることは、いまの国政を担うマントバーンにとっては悩ましいところだ。


「ふむ、いかなる腹づもりか……。あの男は神官王を売った男ですぞ。信用なりませぬ」

「わかっておる――」


 同じ穴の狢として、マントバーンもそれは重々承知である。


「だが、わが国が南北に割れるのだけは避けねばならん」

「なんであれ、陛下の御意のままに。わたくしめは、最期まで陛下の忠臣でありますぞ」


 グリムの甘言はマントバーンの耳に届いていなかった。

 王は孤独だ。誰にも頼れぬ。いま箱馬車の小窓から外を眺めるマントバーンの目が、どこを見据えているのか。それは、誰にもわからなかった。

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