「見張られてるぞ」

「見張られてるぞ」


 見知らぬ男は酒場に入ってくるなり、まっすぐノアのテーブルまで歩いてきた。

 ノアはちらりと店内を見回した。街道から外れた場所にある、簡単な料理も提供する小さな酒場だった。おそらく近隣の農夫が片手間に営んでいるのだろう。立地が悪いせいで間道を通る旅人か、地元の者でもなければ寄りつかない店だ。実際、三脚のテーブルしかないやや窮屈な店内にはノアと女亭主、そしていま声をかけてきた男しかいなかった。

 男は草色のマントを脱ぐと、食事をしているノアの隣のテーブルへ着いた。


「おれに言ったのか」


 咀嚼したマスの塩焼きをのみ込んでから、ノアが訊いた。


「ほかに誰がいる? 表にふたり見えた。裏口もだめだろう」


 鼻の下に髭を生やす彼は染色した黒っぽいシャツ、腿のあたりがふっくらしたズボンにゲートルを巻いた旅装だったが、どこか垢抜けて見えた。気取った感じの羽根飾りがついたベレー帽のせいかもしれない。


「身におぼえはないが」


 とノア。


「三日前に、スモールパインで殺しをやったろう。その仕返しだな。ずっとあとをつけられていたのさ」


 三日前か。大陸を巡ってその日暮らしをしているノアにとっては大昔のことに思える。

 たしかにここへ訪れる前に立ち寄った村で、ノアはちょっとした騒動に巻き込まれた。いきなり村人たちに襲われたのである。なんのいわれもない誤解だった。事情を聞けば、どこかの街で食い詰めたごろつきどもが村外れに住み着き、山賊まがいのことをやりはじめて困っているという。ノアはどうやら、そいつらの仲間とまちがわれたらしい。あらためて村人は、流れ者のノアに彼らをなんとかしてくれないかと持ちかけた。カネをくれるというので、やった。相手は四人だったが、素人同然でさほど手を煩わされることはなかった。しかし、まだ残党がいたとは。


「あんた、そいつらの仲間なのか」

「いいや、わたしはちがう」


 男は首を横に振った。


「じゃあ何者だ」

「ただの使い番だ──」


 肩をそびやかした男は荷物に手をのばすと、そこから筒状に丸めた書簡を取り出した。


「わたしはきみを知っている。かの神官王殺し。お目にかかれて光栄だよ」


 ノアはなにも言わず、男から目をそらした。そうして悪くなりかけた酢漬けの野菜と硬いパンを口に詰め込み、エール酒で流し込んだ。


「なんのことかわからん。人違いだろう」

「とぼけるなよ。剣を見ればわかる。いまどき神隷騎士団の剣を大事に持っている者など、きみくらいだぞ」


 男が笑みを浮かべながらノアの傍らにある剣を顎でしゃくった。たしかに、その剣の柄頭ポンメルには駒鳥と短剣をあしらった刻印があった。かつてのオーリア神聖王国に存在した、神隷騎士団が用いた紋章。


「おれが持ち主を殺して奪い取ったのかもしれないじゃないか」

「そうなのか? オーリアで政変が起こったのち、遍歴の騎士として国を去ったノア・デイモンは、腕が立つと聞いたが」

「……のまちがいだ」


 苦々しい口調でノアが言う。彼は男が差し出す書簡を受け取った。巻いてある紐を解き、内容に目を通す。驚いたことに、それは現オーリア国王よりの命令書だった。

 読み終わったノアは、無表情で書簡をテーブルへ放った。


「ばかげてる。なんの酔狂だ」

「わたしもそう思う。しかしマントバーン陛下のお赦しが出たのだ。これできみも堂々と国へ帰還できる。よろこぶべきことだろう」


 ノアは返事をしなかった。自分の剣と荷物を手に取ると、椅子を鳴らして立ちあがった。そのまま女亭主に食事の代金を支払い、店の出口へと向かう。

 酒場の戸口をくぐり明るい日射しの下へ出た。時刻は正午を回ったころ。まだ春先ゆえ風が少し冷たい。道沿いにある小さな酒場は年季の入ったこけら葺きの寄棟屋根で、それが燦々とする陽の光を反射して銀色に光っていた。ノアは左手の馬屋へと足を向けた。そこには自分の馬と別にもう一頭、芦毛馬が見えた。

 足音がしたのでそちらへ首を回す。ふたり組が木立と接した道のほうから近づいてくる。熊の毛皮を着た肥え気味のうすらでかい男と、対照的に痩せた小男という組み合わせである。彼らとは反対側へ目を転じると、酒場の母屋と馬屋のあいだの日陰になっている暗い場所に、もうひとりの人影が見えた。

 相手は三人のようだ。近づいてくるふたりは、いずれもすでに武器を手にしていた。ノアはうんざりした表情で荷物を地面に置くと、外套の内で剣帯に吊った神隷騎士団のアーミングソードに右手をかけた。


「なあ、やめにしないか。そっちが退けば誰もケガをしないですむ」


 ふたり組へ向けてノアが言う。すると歩み寄るふたりは足を止めて顔を見合わせた。


「寝言をほざくんじゃねえ。先に手を出したのはおまえだぞ。おまえが殺したなかには、おれの兄弟もいたんだ。代償は払ってもらうぜ」


 と、威勢よく捲し立てたのは小柄なほうの男である。

 穏便にすませる提案は無駄だったようだ。考えてみれば、山賊などに身をやつす与太者に道理が通じるはずもなかった。ノアは呆れて閉口した。その様子を見たふたり組は、ノアが怖じ気づいたと勘違いしたのかもしれない。薄笑いを浮かべる小男のほうがぺろりと唇を舐めて、ふたたびノアのほうへ歩きだした。どんよりとした目で表情が読めない肥えた男も、それにつづく。

 いいだろう。譲歩して、命拾いする機会は与えた。それを蹴ったのは向こうだ。ノアは片手剣を鞘から引き抜いた。もともと脅しと暴力で弱い者から金品を奪っていた連中である。ときには命さえも。情けをかける気はなかった。

 ふたり組は充分に近づいたあと、ノアを挟み撃ちにすべく左右に分かれた。最初に仕掛けてきたのは小男のほうだった。薄刃の短刀を手にする彼が動いた瞬間、ノアも合わせて大きく相手の懐へ踏み込んだ。横に薙いだノアの剣を受け流そうと、小男は反射的に短刀を構えた。ノアはかまわず、そのまま剣を振り抜いた。互いの武器の刃がまともに噛み合い、澄んだ金属音が鳴った。鋼の灼ける匂い。勢いが乗ったノアの片手剣に短刀はやすやすと弾き飛ばされる。小男は左の頬をざっくりと切り裂かれ、後退ってから地面に尻もちをついた。そいつの悲鳴を聞きながら、ノアは身をひるがえらせる。そこへ肥えた男が両手持ちの戦斧を振りかぶって襲いくる。動物のように唸りながら。

 大振りの攻撃を見切るのは容易い。ノアは細かく刻んだ足さばきで大男の斧を避けた。何度か斧刃が空を切った。翻弄され、怒った男が狂戦士さながらに吠える。両手で保持した斧を突き出し、体当たりしてくる。猪突猛進とはこのことだ。その結果、彼はノアの剣の切先に自分から喉元を差し出す恰好となった。深く刺さった剣先に首の骨があたり、ノアの手にごりっとした感触が伝わる。両手斧を手放した大男は血を吐きながら、首から剣を抜こうとその刃を素手で摑んだ。ノアはそれを手伝ってやった。のばした腕を引くと、相手の傷口から盛大に血が噴き出た。ごぼごぼと自分の血でうがいをしながら、男の巨体がゆっくりと前のめりに倒れた。

 あとひとり。ノアは三人目がいるはずの酒場の裏手へと目をやった。すると、そちらはもう片がついていた。

 母屋の陰で、先ほどノアに書簡を届けた男が佇立している。左手に角杯、右手に短剣を持ったその彼の足元で、誰かが突っ伏していた。石弓を携えた三人目だった。

 ノアは地面に座り込んで茫然としている小男へと歩み寄った。それに気がついた彼は、這いつくばって逃げようとする。

 ノアは小男の着ている外套の裾を足で踏んだ。怯えた目がノアを見あげた。


「懲りたろう。もうおれを追うんじゃない。いいな?」

「わ、わかってゃ……」


 顔の下半分を血まみれにした小男は、左の口の端が頬まで裂けてうまくしゃべれない。傷が癒えたらさぞや迫力のある強面となるだろう。

 ノアは小男がよたよたとその場から去るのを尻目に、事切れている巨漢が着ていた毛皮でアーミングソードの血を丁寧に拭った。そうして馬屋から自分の馬を出しているとき、あの見知らぬ男が声をかけてきた。


「ひとつ貸しができたな、ノア・デイモン」

「余計なことを。あんたがいなくても、どうにかなった」

「強がるな。さあ、ラクスフェルドへ急げ。あまり王を待たせてはならない」


 言うと、男は祝杯のようにしてエール酒が半分ほど残っている角杯を掲げた。

 ノアは馬に跨がった。ここからずっと北のラクスフェルドへ向かうには、いままでの道のりをすべて引き返すことになる。ノア・デイモンが故国に帰るのは三年ぶりだった。

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