仰向けに横たわった女性の
仰向けに横たわった女性の乳房みたいな連山は、地元では双子山と呼ばれていた。
やや大きさの異なる山だった。南側のほうを城山、北側を裏山という。
いまノア・デイモンは城山の頂に近い岩棚から下方を見おろしていた。東の地平が白んできた。まもなく夜が明ける。
城山の中腹、傾斜がゆるい地点にはラクスフェルド城がある。上から見ると、その敷地がよく見渡せた。
ラクスフェルド城は空堀に囲まれた、よくある作りの山城だ。建造がはじまってから三年経ったが、完成しているのは王族が住まう城館と居館の一部、あとは城壁塔と城壁が少しだけだった。礼拝堂や中庭などは手つかずで、すべての工事が完了するまでにあと十年はかかるだろう。
ノアは毛布にくるまって夜通し見張っていたが城の警備は杜撰といえた。夜間は随所で篝火が焚かれ、夜警の人数も申し分ないものの、建設中の城に忍び込む者などいないという気の緩みが見て取れた。
それだけわかれば十分だった。ノアは山を下りた。
ラクスフェルドの新市街で数日前から世話になっている宿へ戻ったノアは、昼過ぎまで仮眠を取った。それから軽く食事をしたあと、彼は旧市街へ足を運んだ。
新市街より旧市街へは歩いてゆける距離だ。オーリア正教会のオンウェル神殿がある旧市街は、三年前と変わりなかった。以前ここで暮らしていたノアにとってはなつかしい街並み。ただ街の住民は異国の顔つきをした者がよく目についた。きっと政変ののち、外部から移民が流入しているのだろう。旧市街の住民が新市街へ移ってできた余地を、彼らが埋めているのだ。
ノアは繁華街をぶらぶら見て回ったあと、魔術用具を扱っている商店へ向かった。目当ては魔術スクロールだ。
この世界にはエーテルと称される魔術の源が満ちている。それに触媒や詠唱といった要素を加えれば、人は魔術神ミロワの恩恵である魔術を行使できる。もちろん誰でもというわけではない。基本的にエーテルと感応できる資質と、強い精神力が必要となる。が、そうでなくとも魔術スクロールさえあれば、魔術師でない一般の者でも例外的に魔術を使うことが可能なのだ。
便利な代物だった。ノアは商店で夜目と躁縄、ほかにもいくつかのスクロールを買った。どれも低レベルな呪文の効果を封じ込めたスクロールだが、けっこうな値が付けられていた。
そうしてまた宿へ戻ると、ノアは今夜、自分が決行する計画の準備を入念に再確認した。
いったい、なんの準備か──
話は二週間ほど前に遡る。遍歴の騎士として各地を放浪していたノアのもとに、突然マントバーン王からの使者が現れたのだった。オーリア王国から遠く離れた場所にいた自分を、どうやって見つけたのか不思議だった。もしかすれば三年前に国を出たあとから、ずっと監視されていたのかもしれない。なにせ、ノアはオーリア政変の立役者である。
神官王殺し。当時、神聖王国と呼ばれる宗教国家だったオーリアは、神官王の誅殺で幕を閉じた。そのとき手を下したのが、叛乱を企てた神隷騎士のひとりだったノアである。事後、彼が国を追われたのは数々の理由があったからだ。叛乱という血腥い手段による変革に関わった中心人物。だが単なる手駒であり、さらに忠誠心が薄かったノアは、叛乱の首謀者たちから新生オーリア王国の表舞台に立つことがふさわしくないと判断されたのだ。
それが急に帰参を促され、不可解な指示を受けた。使者によりもたらされたのは、マントバーン王よりの直々の命令。ただちにラクスフェルドの王城へ出頭せよ。しかしその際、城の誰にも見つかってはならない。秘密裏のうちに王の面前へ姿を現せというものだった。
なにかの冗談に思えた。自分たちの都合で国から追い出しておきながら、また戻ってこいだと?
当初、ノアはそんな理不尽を無視しようかとも考えた。しかし、マントバーンの不興を買って命を狙われたりでもすれば面倒だ。
ノアは渋々、オーリアへ帰還した。そしていま、マントバーンの膝元で王城潜入の手はずを調えているのである。
宿の個室で寝台に腰掛けたノアは、ラクスフェルド新市街の地下を走る下水路の設計図を眺めていた。これは一昨日ノアが、街の建設を担う設計事務所に忍び込んで描き写したものだ。設計図によれば、ラクスフェルド城と新市街の下水はまちがいなくつながっていた。ならばそれを逆にたどれば、王城の地下へこっそり潜り込めるはずだ。
とはいえさすがに城と、その手前にあるブルーモス要塞の地下構造は機密となっており、下水路の詳細はわからなかった。だがそう複雑なものではあるまい。汚水が流れるのは上から下へと決まっている。傾斜を考慮して地下の下水渠を進めば、ラクスフェルド城までたどり着くのはむずかしくないとノアは踏んだ。
地上を使って城へ近づくのはまずい。山中にある城には深い堀があったし、周辺の森には侵入者除けの罠も仕掛けられているだろう。おまけに城の敷地内はまだ更地の部分が多く、見通しがよすぎる。迂闊に入り込めば城壁塔にいる見張りから丸見えとなってしまう。
よって城へ近づくにはやはり地下のルートが最善に思えた。
入用な荷物をまとめて食事をすませると夜になっていた。ちょうどいい頃合いだ。夜闇にまぎれ、ノアは宿をあとにした。
新市街の外れに大きな水路があり、下水路へはそこから入り込める。水路は幅が一〇メートルほどで、地面からかなり低くなったところを流れていた。豪雨などの際に氾濫しないよう、余裕を持って設計されたのだろう。石段を降りた先、水の流れる溝に沿って、管理修繕用の整備路が設けられている。そのさらに先はトンネル状の暗渠で、なかはまっ暗だ。
ノアは水路に近づいた場所で角灯の火を消した。ここから先へゆくには、できるだけ目立たなくしたほうがよい。
負い紐で肩に引っかけていた雑嚢から夜目の魔術スクロールを取り出す。丸めた紙の封を解き、それを広げる。すると紙には使用法と、よくわからない紋様が描かれていた。
ノアには魔術スクロールの仕組みはさっぱりだったが、使い方は知っていた。とにかくこれを持って念ずればよいのだ。そうすれば、暗闇のなかでも先が見通せる夜目の呪文が発動するのである。
スクロールを持ったまま瞼を閉じ、魔術がもたらす効果を想像する。手のあたりにちりちりと感じる刺激は、空気中のエーテルが励起している証拠だ。
しばらくのあと、ノアは目を開けた。すると世界が色を失っている。白と黒の、墨絵のような光景。さすがに昼間とおなじとまではいかないものの、少し見づらいていどで視界は確保できている。
いちど使用した魔術スクロールは、もうただの紙切れでしかない。ノアはそれを雑嚢へしまうと石段を使って水路へ降りた。人ひとりがやっと通れるほどの細い整備路を進む。すぐ横では汚水がゆっくりと流れている。ノアは誤って転落しないよう用心して足を進めた。
トンネル状の暗渠の手前まできた。だが、施錠された扉のついた鉄格子がその先へゆくのを阻んでいる。もちろんこの鍵のことも昨日の昼間のうちに調査ずみである。小さく簡素な南京錠だ。鍵開けをするまでもない。ノアは南京錠のツルの輪へ金属の棒を差し込み、力任せに捻った。錠は壊れなかったが、掛け金のほうが簡単に壊れた。
多少、大きな音が鳴った。周囲に目を走らせて異状がないかを確認する。人の気配はなかったし、汚水が流れる音のほか、なにも聞こえなかった。ノアは鉄格子の扉を開け、下水路へと向かった。
下水トンネルは高さが十分にあり、立って歩けるほどだ。この排水施設は雨水などを処理するためのものなので、し尿を流すのを禁止されている。だがそれでも強烈な悪臭が漂っていた。街では便所から汲み取った人糞を肥料として使うよう条例で定められていたが、禁を破って下水に流す者が多くいるのだろう。
歩きはじめてしばらくもせず、悪臭で気分が悪くなった。ノアは宿を出る前に食べた夕食をすべて吐いてしまう。が、それで少しはラクになったようだ。
折りたたんだ下水路の設計図を片手に、北の方角にあるラクスフェルド城を目指して黙々と足を運んだ。網の目となっている下水路はところどころ狭くなったり、溜枡のような広い空間があったりしてまるで迷路だ。ときおり灰色の視界の隅で、なにかがちょろちょろと動いていた。小さなネズミならまだいい。だが、下水路は危険な怪物たちの住処にもなりうる。ここも年月が経てばそのうちジャイアントラットや、場合によっては屍食鬼などが住み着くにちがいない。
下水路の設計図にない区画へ着いた。ラクスフェルド城と新市街の中間にある、ブルーモス要塞の下だろう。下水路の傾斜も急になってきている。ここまでくると先がほぼ一本道となり、迷う危険はなくなった。だが下水溝内は熱気がこもり、暑い。淀んだ汚物が発酵し、熱を発しているのだ。さすがのノアもまいってくる。
疲労で思考が鈍り、集中力を欠いてきた。マントバーンめ、おれに文字通りの汚れ仕事をさせやがって。ノアは心中でオーリア現国王への恨みを募らせた。
かなり歩いた。時間にすれば二時間以上。踏破した距離を考えれば、とっくにラクスフェルド城の真下まで到達していてもおかしくはない。と、ふいに真っ直ぐのびた行く手の壁面に、大きな穴が空いているのにノアは気づいた。
横道だ。壁の穴まで近づき、覗き込む。すると登りの階段が見えた。ようやく当座の目的地点に到着したようだ。
階段を登ると、いちばん上で閉ざされている木製の扉に突きあたった。鉄の鋲が打たれた頑丈な扉だ。金輪の把手を摑んで引いたり押したりしてみるが、少し揺れるだけで開かない。当然ながら鍵が掛けられている。しかし目の前の扉には鍵穴が見あたらなかった。ということは、向こうからでしか施錠できないし、こちらからピンなどを使った鍵開けもできないのだ。
ノアは雑嚢を探り、今日の昼間、旧市街の魔術用具店で購入した最も高価な魔術スクロールを取り出した。解錠のスクロールだ。
巻かれた紙を広げ、魔術的な紋様が描いてある面を扉にあてる。使い方はほかのものと同じだ。しかし高価な魔術スクロールには紛い物も多い。使用するまで本物とはわからないところが欠点である。
見た感じ分厚い扉を物理的に破壊するのは、到底不可能だった。したがって、いまノアが使おうとしている解錠のスクロールが偽物ならば、完全に手詰まりとなる。
祈るような気持ちで開けと念じた。するとまもなく、キイと金属が擦れあい、それから錠の外れる小さな音が鳴った。ノアはほっと胸を撫でおろす。
扉の先はラクスフェルド城の地下牢だった。狭苦しい監房が、ずらりと並んでいる。しかし現在、そのどれにも囚人の姿はない。もちろん看守も。
地下牢の隅に上階へつづく階段を見つけたノアは、そこを登った。一階の廊下へ出る。建物の構造はわからなかったが、とにかく外へ出る必要があった。ノアは手近な窓の鎧戸を開けて、外を窺った。
ラクスフェルド城の敷地が見える。暗いが、ところどころで篝火が焚かれ、建設資材が放置されている。城壁塔の位置から推察すれば、いまいる建物は城内で最も大きな城館だ。ノアはその東側から外を見ていた。
窓の桟を乗り越え、屋外の地面に降り立つ。やっと新鮮な空気を吸うことができた。ノアは深呼吸をして生きた心地を味わった。ふと足下に目をやると、ずっと愛用してきた馬革のブーツが汚物にまみれている。汚水が染みこみ、もう使い物にはなるまい。
胸にふつふつと怒りがわいてくる。自分に課せられたのがどんな試みか知らないが、ブーツは必ずマントバーンに弁償させてやる。そう思いつつ、ノアは暗がりのなかで城館を見あげた。
敷地は輪番の夜警が巡回しているはずだった。ノアは篝火の照らす範囲を避けつつ、積んであった石材の陰まで移動して、そこにいったん身を潜めた。城館をじっくり観察しているとき、松明を持ったひとりの番兵が少し離れた場所を歩いていった。警戒心の薄い彼は、ノアに気づかない。
次の巡回まではいくらか時間がある。ノアはふたたび城館へと近づいた。さきほど見ているとき、南側の上階に明かりの漏れている窓を見つけたのだ。城館の壁に沿って移動し、窓の下までゆくと四階部分に大きなバルコニーがあった。おそらくあそこで、マントバーンはノアを待っている。
ふたたびノアが雑嚢をかき回し、最後に残った魔術スクロールを取り出した。
躁縄の呪文が封じられたスクロール。これを使えば、使用者の念じたとおりにロープを操ることができる。
もちろんロープも準備してあった。ノアは棒結びにしてあったロープをほどくと、とぐろを巻いたヘビみたいにして地面へ置いた。念のため長さも余裕を見てあった。荷物のなかでいちばん重かったのがこれだ。
魔術スクロールを使うと、呪文の効果はすぐに現れた。ロープの片端がぴくりと鎌首をもたげ、するすると壁を伝って上へとのびてゆく。ノアは地上からロープの先端を注視して、それがバルコニーの欄干へ巻き付くのを頭のなかでイメージする。結び目を作り、ロープが固定された。ノアは上から垂れるロープを何度か強く引いて、問題ないのを確認した。
あとは城館の外壁を登攀するだけだ。四階の窓となれば、かなりの高さになる。
ノアは柔らかい鹿革の手袋を手にはめると慎重に登りはじめた。城館の外壁に足をかけ、腕の力で身体を引きあげる。そうしてまた足がかりを上に移し、ロープを引っぱる。そのくり返しだ。
いくらも登らないうち、全身の筋肉が悲鳴をあげはじめる。三階のあたりでとうとう腕がしびれてきた。が、もう戻ることはできない。ノアは歯を食いしばり、なんとかバルコニーまで到達した。欄干に手をかけ、転がるようにしてそれを乗り越えた。
小さな話し声。窓辺のカーテンが揺れている。バルコニーとつづいている部屋のなかには、ふたりの男がいた。
ノアの知っている男たちだった。椅子に座っていたどちらもが、突然にバルコニーへ現れたノアを見て、ほぼ同時に驚いた顔を彼のほうへ向けた。
疲れ果てて倒れ込んでいたノアは息を整え、ゆっくりと身を起こした。
「ノア・デイモン、王のお召しにより参上いたしました」
窓際に立ったノアの姿を、燭台の光が照らす。部屋にいた片方の男が、それを見て素っ頓狂な声をあげた。
「ノアか!? おまえ……いったいどうやって?」
室内のもうひとりの男が静かに笑った。その寝間着姿の彼がマントバーン王である。
「聞かずともわかろう。デイモン、下水路を使ったな。よい選択だ。わたしは労を厭わぬ者を好む。しかし、そちらは風上だ。なかへ入れ、臭くてかなわん」
ノアは命じられたとおりにした。そして彼は、部屋のテーブルにあった果物が載せてある盛り皿から、青いリンゴをひとつ取った。
「それで、いまさらおれになにか話でも?」
「おいノア、陛下の御前だぞ。控えろ」
無遠慮にリンゴを囓るノアを、オーリア王国の国王騎士団に支給されているチュニックを着た男が咎めた。オーリアの政変前、旧神隷騎士団の隊長を務めていた彼は、名をグリム。現在は国王騎士団の団長である。
ノアは悪びれた様子もなくグリムを一瞥した。相手は三年前に見たときより、ずいぶんと頭髪の量がさみしくなっていた。
ノアは黙ったまま、もうひと口リンゴを囓った。それから、マントバーンが座っている椅子の前まで歩くと、ひざまずいた。
「ご拝謁を賜り、光栄に存じます」
「三年ぶりか。少したくましくなったな」
とマントバーン。彼の言葉にノアは肩をすくめる。
「自分じゃわかりません」
「遍歴はどうであったか」
「周辺国──おもに南と西を回って見識を深めました。ですがそのあいだも、やはりオーリアが恋しいと思うばかりで」
「そうか。またおまえの健やかな顔を見られて、うれしく思うぞ」
「もったいないお言葉。陛下の戴冠式に参列できなかったのが心残りです」
「心にもない世辞はよせ。おまえとわたしは、そういった仲ではないはずだろうに」
ああ、そうだよ。神聖王国オーリアを乗っ取ったあと、用済みになったおれを国から追い出した大悪党が。
ノアとマントバーン。ひざまずく者と、それを上から見おろす者。互いに因縁のあるふたりは、しばらく目を見交わした。
「グリムが厳重に警備を敷いたようだったが、よくすり抜けたな」
マントバーンが言った。
「はい。しかし僭越ながら、番兵に緊張感がなく警備はないに等しいかと。あの様子ならば、噛み癖のある犬でも放ったほうがましでしょう」
「らしいぞグリム」
マントバーンのからかう口調に、グリムは顔を赤くして俯いた。
「ただちに警備態勢を見直します」
「よし、グリム。今回の件は彼に任せよう」
「は? よろしいのですか……」
「二度も言わせるな。もともとそのための試験ではないか」
そう言って、マントバーンが席を立った。ノアにはわけがわからなかった。
「話が見えませんが、どういうことでしょう?」
部屋を去ろうとするマントバーンへ、ノアが訊ねる。しかし振り向いたオーリア国王は、冷淡な目をノアへ向けただけだった。
黙れ。おまえはまだ知らなくてよいのだ──
ノアはたじろいだ。いまのマントバーンは、以前の彼ではなかった。かつて神隷騎士団を束ねていた男は、王の威厳を備えていた。くやしいが立場のちがいというものが、ありありと感ぜらたのだった。
そのままマントバーンは部屋から姿を消した。
「いまブルーモス要塞には国王騎士団の仮住まいがある。明朝、そこへ出頭しろ。話は以上だ」
グリムの声が耳に入った。
ノアは王が出ていった部屋の扉を睨みつづけていた。苛立つ彼は固いリンゴを握りしめると、腹いせに窓の外へ放り投げた。
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